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「アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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{{改名提案|アルブレヒト1世 (ドイツ王)|アルブレヒト1世 (ローマ王)|t=ノート:コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|date=2024年5月}}
{{基礎情報 君主
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| 人名 = アルブレヒト1世
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| 各国語表記 = Albrecht I
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| 君主号 = ローマ王
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| 在位 = [[1298年]][[7月27日]] - [[1308年]][[5月1日]]
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| 別号 = [[オーストリア公]]<br>シュタイアーマルク公
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| 出生日 = [[1255年]]7月
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[[File:AlbrechtI.jpg|thumb|アルブレヒト1世(16世紀)]]

'''アルブレヒト1世'''({{lang-de|Albrecht I}}、[[1255年]]7月 - [[1308年]][[5月1日]])は、[[ハプスブルク家]]出身の[[神聖ローマ帝国]]の君主([[ローマ王]]在位:[[1298年]] - 1308年<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/アルブレヒト%5B1世%5D-1144518 |title = 世界大百科事典 第2版の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-12 }}</ref>)。[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]とゲルトルートの長子。
'''アルブレヒト1世'''({{lang-de|Albrecht I.}}、[[1255年]]7月 - [[1308年]][[5月1日]])は[[神聖ローマ帝国]]の[[ローマ王]](ドイツ王、 在位:[[1298年]] - [[1308年]])<ref group="注釈">ローマ王は帝位の前提となった王号で現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。また[[イタリア王国 (中世)|イタリア]]と[[アルル王国|ブルグント]]への宗主権を備える。</ref>。[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]から続く3代目の非世襲[[ローマ王]]だが、[[神聖ローマ皇帝|正式な皇帝]]として戴冠するためのイタリア出兵は実施していない。[[ハプスブルク家]]出身の[[神聖ローマ帝国]]君主<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/アルブレヒト%5B1世%5D-1144518 |title = 世界大百科事典 第2版の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-12 }}</ref>で、[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]と[[ゲルトルート・フォン・ホーエンベルク|ゲルトルート]]の長子。優れた政治手腕と厳格冷徹な人柄で知られハプルブルク家の勢力を拡大したが、選帝侯たちから恐れられたことで王位世襲はかえって遠のいた。神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は玄孫、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は来孫、神聖ローマ皇帝カール5世と神聖ローマ皇帝フェルディナント1世は仍孫である


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== ルドルフ1世存命中 ===
=== ルドルフ1世存命中 ===
ルドルフ1世は[[1278年]]に[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[オタカル2世]]を破った後、オタカルが支配していた[[オーストリア公国|オーストリア]]をハプスブルクの支配下に収めようと試み、[[1281年]]にアルブレヒトをオーストリアの領邦摂政に任命した。オーストリアの貴族たちはアルブレヒトの強圧的な政策に恐怖を抱き、ルドルフは現地の上級[[領邦]]貴族(ラントヘル)にアルブレヒトの補佐を任せた<ref name="tue155">ツェルナー『オーストリア史』、155頁</ref>。[[1282年]]12月25日にアルブレヒトと弟の[[ルドルフ2世 (オーストリア公)|ルドルフ]]がオーストリア、[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]、クラインの共同統治者に定められた。翌[[1283年]]に結ばれた{{仮リンク|ラインフェルデンの契約|en|Treaty of Rheinfelden}}でアルブレヒトが単独のオーストリアの統治者とされ、オーストリア公位を退いたルドルフと彼の後継者には代償として金銭もしくは土地が支払われることが決められる<ref name="tue155"/>。
ルドルフ1世は[[1278年]]に[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]を破った後、オタカルが支配していた[[オーストリア公国|オーストリア]]をハプスブルクの支配下に収めようと試み、[[1281年]]にアルブレヒトをオーストリアの領邦摂政に任命した。オーストリアの貴族たちはアルブレヒトの強圧的な政策に恐怖を抱き、ルドルフは現地の上級[[領邦]]貴族(ラントヘル)にアルブレヒトの補佐を任せた<ref name="tue155">ツェルナー『オーストリア史』、155頁</ref>。[[1282年]]12月25日にアルブレヒトと弟の[[ルドルフ2世 (オーストリア公)|ルドルフ]]がオーストリア、[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]、クラインの共同統治者に定められた。翌[[1283年]]に結ばれた{{仮リンク|ラインフェルデンの契約|en|Treaty of Rheinfelden}}でアルブレヒトが単独のオーストリアの統治者とされ、オーストリア公位を退いたルドルフと彼の後継者には代償として金銭もしくは土地が支払われることが決められる<ref name="tue155"/>。


アルブレヒトと家臣団はオーストリアに強圧的な統治を敷き、現地の人間の怨嗟の的になっていた<ref>ツェルナー『オーストリア史』、156-157頁</ref><ref>ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、49頁</ref>。ウィーン市民と貴族の団結を防ぐため、市民と貧困層の対立を利用した<ref name="tue157">ツェルナー『オーストリア史』、157頁</ref>。ウィーンの抵抗を抑えたアルブレヒトは、市から帝国直属資格を剥奪した。エンス渓谷の所有権と諸権利を巡って[[ザルツブルク大司教]]と争い、[[1290年]]にルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた<ref name="tue157"/>。同年に[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]][[ラースロー4世]]が暗殺され、ハンガリー王位が空位になると、ルドルフはハンガリー王位をアルブレヒトに与えると宣言した<ref name="tue157"/>。
アルブレヒトと家臣団はオーストリアに強圧的な統治を敷き、現地の人間の怨嗟の的になっていた<ref>ツェルナー『オーストリア史』、156-157頁</ref><ref>ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、49頁</ref>。ウィーン市民と貴族の団結を防ぐため、市民と貧困層の対立を利用した<ref name="tue157">ツェルナー『オーストリア史』、157頁</ref>。ウィーンの抵抗を抑えたアルブレヒトは、市から帝国直属資格を剥奪した。エンス渓谷の所有権と諸権利を巡って[[ザルツブルク大司教]]と争い、[[1290年]]にルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた<ref name="tue157"/>。同年に[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]][[ラースロー4世 (ハンガリー王)|ラースロー4世]]が暗殺され、ハンガリー王位が空位になると、ルドルフはハンガリー王位をアルブレヒトに与えると宣言した<ref name="tue157"/>。


=== ローマ王即位 ===
=== ローマ王即位 ===
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スイス東部で[[ベルン]]、{{仮リンク|ムルテン|en|Murten}}、{{仮リンク|パイエルヌ|en|Payerne}}が連合し、西ではラウフェンブルク・ハプスブルク家出身の[[コンスタンツ司教]]コンラートを中心として[[チューリヒ]]、[[ルツェルン]]が同盟を結んだ。東西の連合は連携を取り合ってアルブレヒトに反抗し、1291年12月25日にハプスブルク本家の拠点である[[ザルネン|ザールネン城]]を破壊した<ref>瀬原『スイス独立史研究』、81頁</ref>。
スイス東部で[[ベルン]]、{{仮リンク|ムルテン|en|Murten}}、{{仮リンク|パイエルヌ|en|Payerne}}が連合し、西ではラウフェンブルク・ハプスブルク家出身の[[コンスタンツ司教]]コンラートを中心として[[チューリヒ]]、[[ルツェルン]]が同盟を結んだ。東西の連合は連携を取り合ってアルブレヒトに反抗し、1291年12月25日にハプスブルク本家の拠点である[[ザルネン|ザールネン城]]を破壊した<ref>瀬原『スイス独立史研究』、81頁</ref>。


[[教皇|ローマ教皇]][[ニコラウス4世 (ローマ教皇)|ニコラウス4世]]の承認を得た周辺の勢力は反ハプスブルク同盟を結成し、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]、ボヘミア、[[ニーダーバイエルン]]、[[サヴォイア伯国]]、聖界諸侯、盟約者同盟が参加した<ref name="tue157"/>。ハンガリーではラースロー4世の従兄弟にあたる[[アンドラーシュ3世]]が国王に擁立され、アンドラーシュ3世はザルツブルク大司教コンラートと同盟してオーストリアに進軍し、ハプスブルク軍に勝利を収めた。
[[教皇|ローマ教皇]][[ニコラウス4世 (ローマ教皇)|ニコラウス4世]]の承認を得た周辺の勢力は反ハプスブルク同盟を結成し、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]、ボヘミア、[[ニーダーバイエルン]]、[[サヴォイア伯国]]、聖界諸侯、盟約者同盟が参加した<ref name="tue157"/>。ハンガリーではラースロー4世の従兄弟にあたる[[アンドラーシュ3世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ3世]]が国王に擁立され、アンドラーシュ3世はザルツブルク大司教コンラートと同盟してオーストリアに進軍し、ハプスブルク軍に勝利を収めた。


アルブレヒトを恐れた[[選帝侯]]たちは、弱小の[[ナッサウ家]]の[[アドルフ (神聖ローマ皇帝)|アドルフ]]を新たなローマ王に選出し、アルブレヒトへのローマ王位継承は成らなかった<ref name="bri">[https://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Albert_I._(German_king) Albert I. (German king)]</ref>。アルブレヒトはアドルフのローマ王選出を認めたが、ローマ王位への野心を捨ててはいなかった<ref name="bri"/><ref name="wee51">ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、51頁</ref>。
アルブレヒトを恐れた[[選帝侯]]たちは、弱小の[[ナッサウ家]]の[[アドルフ (神聖ローマ皇帝)|アドルフ]]を新たなローマ王に選出し、アルブレヒトへのローマ王位継承は成らなかった<ref name="bri">[https://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Albert_I._(German_king) Albert I. (German king)]</ref>。アルブレヒトはアドルフのローマ王選出を認めたが、ローマ王位への野心を捨ててはいなかった<ref name="bri"/><ref name="wee51">ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、51頁</ref>。


アドルフが選出された後、アルブレヒトはスイスと周辺の家領の経営に力を入れた<ref name="morita"/>。1292年4月13日、ヴィンタートゥール前面の戦いでハプスブルク軍はチューリヒ市民軍を破り、東西スイスの同盟は瓦解した<ref name="sehara85">瀬原『スイス独立史研究』、85頁</ref>。アルブレヒトは盟約者同盟に対しては直接的な圧力をかけずにオーストリアの安定を優先し<ref name="morita"/>、オーストリア、シュタイアーマルクで発生した反乱を鎮圧する<ref name="tue158">ツェルナー『オーストリア史』、158頁</ref>。ハンガリー王位は断念し、ザルツブルク大司教には大幅な譲歩を示して講和した<ref name="tue158"/>。アルブレヒトの義弟であるボヘミア王[[ヴァーツラフ2世]]は妻の[[グタ・ハブスブルスカー|グタ]](ユッタ)に影響されて同盟を離脱し、アルブレヒトは危機を脱する<ref name="tue158"/>。
アドルフが選出された後、アルブレヒトはスイスと周辺の家領の経営に力を入れた<ref name="morita"/>。1292年4月13日、ヴィンタートゥール前面の戦いでハプスブルク軍はチューリヒ市民軍を破り、東西スイスの同盟は瓦解した<ref name="sehara85">瀬原『スイス独立史研究』、85頁</ref>。アルブレヒトは盟約者同盟に対しては直接的な圧力をかけずにオーストリアの安定を優先し<ref name="morita"/>、オーストリア、シュタイアーマルクで発生した反乱を鎮圧する<ref name="tue158">ツェルナー『オーストリア史』、158頁</ref>。ハンガリー王位は断念し、ザルツブルク大司教には大幅な譲歩を示して講和した<ref name="tue158"/>。アルブレヒトの義弟であるボヘミア王[[ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ2世]]は妻の[[グタ・ハブスブルスカー|グタ]](ユッタ)に影響されて同盟を離脱し、アルブレヒトは危機を脱する<ref name="tue158"/>。


一方、[[テューリンゲン州|テューリンゲン]]、[[マイセン辺境伯|マイセン]]に干渉するアドルフに対して、選帝侯は反発を示した。ヴァーツラフ2世を中心とする選帝侯はアドルフの廃位を決定し、1298年5月23日に[[マインツ]]でアルブレヒトを新たなローマ王に擁立した<ref>[https://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Adolph_of_Nassau 1911 Encyclopædia Britannica/Adolph of Nassau]</ref>。1298年7月2日<ref name="sehara85"/>、[[ヴォルムス]]近郊の[[ゲルハイム]]でアルブレヒトはアドルフと交戦した({{仮リンク|ゲルハイムの戦い|en|Battle of Göllheim}})。ゲルハイムの戦いにおいてアルブレヒトはアドルフからの[[一騎討ち]]の挑戦に応じ、彼を殺害したと伝えられる<ref name="wee51"/>。
一方、[[テューリンゲン州|テューリンゲン]]、[[マイセン辺境伯|マイセン]]に干渉するアドルフに対して、選帝侯は反発を示した。ヴァーツラフ2世を中心とする選帝侯はアドルフの廃位を決定し、1298年5月23日に[[マインツ]]でアルブレヒトを新たなローマ王に擁立した<ref>[https://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Adolph_of_Nassau 1911 Encyclopædia Britannica/Adolph of Nassau]</ref>。1298年7月2日<ref name="sehara85"/>、[[ヴォルムス]]近郊の[[ゲルハイム]]でアルブレヒトはアドルフと交戦した({{仮リンク|ゲルハイムの戦い|en|Battle of Göllheim}})。ゲルハイムの戦いにおいてアルブレヒトはアドルフからの[[一騎討ち]]の挑戦に応じ、彼を殺害したと伝えられる<ref name="wee51"/>。
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=== 勢力の拡張 ===
=== 勢力の拡張 ===
[[1298年]]にアルブレヒトは[[フランス王国|フランス]]と同盟、翌[[1299年]]に[[フランス君主一覧|フランス王]][[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]とクァトルヴォー条約を締結した<ref name="ike">池谷「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、296-297頁</ref>。条約により、アルブレヒトの長子[[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ]]<!-- 『ドイツ史 1 先史〜1648年』、296-297頁では「ルプレヒト」 -->とフィリップ4世の妹[[ブランシュ・ド・フランス (オーストリア公妃)|ブランシュ]]の結婚が取り決められ、[[マース川]]が二国間の境界定められた<ref name="ike"/>。
[[1298年]]にアルブレヒトは[[フランス王国|フランス]]と同盟、翌[[1299年]]に[[フランス君主一覧|フランス王]][[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]とクァトルヴォー条約を締結した<ref name="ike">池谷「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、296-297頁</ref>。条約により、アルブレヒトの長子[[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ]]<!-- 『ドイツ史 1 先史〜1648年』、296-297頁では「ルプレヒト」 -->とフィリップ4世の妹[[ブランシュ・ド・フランス (オーストリア公妃)|ブランシュ]]の結婚が取り決められ、[[マース川]]が二国間の境界定められた<ref name="ike"/>。


諸侯に対しては特権の承認、[[ラント平和令]]の発布、領土の返還請求に応じた<ref name="ike"/>。他方、諸侯が両国を形成することを妨げようと、帝国内の都市に保護を与えて自治を促進した<ref name="bri"/><ref name="ike"/>。[[ライン川|ライン]]の選帝侯たちは同盟してアルブレヒトに対抗したが、アルブレヒトは都市からの助けを受けて彼らを打ち破る<ref name="bri"/>。
諸侯に対しては特権の承認、[[ラント平和令]]の発布、領土の返還請求に応じた<ref name="ike"/>。他方、諸侯が両国を形成することを妨げようと、帝国内の都市に保護を与えて自治を促進した<ref name="bri"/><ref name="ike"/>。[[ライン川|ライン]]の選帝侯たちは同盟してアルブレヒトに対抗したが、アルブレヒトは都市からの助けを受けて彼らを打ち破る<ref name="bri"/>。


アドルフと同じく、アルブレヒトもテューリンゲンとマイセンの獲得を試み、諸侯から強い反対を受ける<ref>ツェルナー『オーストリア史』、159-160頁</ref>。勢力を拡大するアルブレヒトに対し、選帝侯たちは彼の息子へのローマ王位の世襲に反対した<ref name="wee52">ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、52頁</ref>。[[1303年]]、アルブレヒトは教皇権への服従と、[[教皇|ローマ教皇]]の同意無しに息子たちへのローマ王位の継承を行わないことを誓約し、教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]からローマ王位を認められる<ref name="bri"/>。
アドルフと同じく、アルブレヒトもテューリンゲンとマイセンの獲得を試み、諸侯から強い反対を受ける<ref>ツェルナー『オーストリア史』、159-160頁</ref>。勢力を拡大するアルブレヒトに対し、選帝侯たちは彼の息子によるローマ王位の世襲に反対した<ref name="wee52">ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、52頁</ref>。[[1303年]]、アルブレヒトは教皇権への服従と、[[教皇|ローマ教皇]]の同意無しに息子たちへのローマ王位の継承を行わないことを誓約し、教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]からローマ王位を認められる<ref name="bri"/>。


アルブレヒトはボヘミアにも勢力の拡張を試み、ヴァーツラフ2世に[[クトナー・ホラ]]の銀山から上がる収益などを要求した<ref name="suzuki">鈴木「繁栄と危機」『ドナウ・ヨーロッパ史』、61-62頁</ref>。[[1304年]]に帝国とボヘミアの間で軍事衝突が起こり、ボヘミアに敗れたアルブレヒトは要求を撤回した。[[1306年]]にボヘミア王[[ヴァーツラフ3世]]が没してボヘミアの王統が断絶すると、アルブレヒトはボヘミアに侵攻する<ref name="tue160">ツェルナー『オーストリア史』、160頁</ref>。ボヘミア王に擁立されたヴァーツラフ2世の娘婿である[[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|ケルンテン公ハインリヒ]]を追放し、長子のルドルフを新たなボヘミア王に据えた<ref name="suzuki"/>。しかし、翌[[1307年]]にルドルフは急死し、チェコ内の反ハプスブルク派は再びハインリヒを擁立する<ref name="tue160"/>。同年に{{仮リンク|ルッカ (ドイツ)|de|Lucka|label=ルッカ}}での戦闘に敗れ、テューリンゲンへの介入は不成功に終わる<ref name="bri"/>。
アルブレヒトは[[ボヘミア]]にも勢力の拡張を試み、ヴァーツラフ2世に[[クトナー・ホラ]]の銀山から上がる収益などを要求した<ref name="suzuki">鈴木「繁栄と危機」『ドナウ・ヨーロッパ史』、61-62頁</ref>。[[1304年]]に帝国とボヘミアの間で軍事衝突が起こり、ボヘミアに敗れたアルブレヒトは要求を撤回した。[[1306年]]にボヘミア王[[ヴァーツラフ3世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ3世]]が没してボヘミアの王統が断絶すると、アルブレヒトはボヘミアに侵攻する<ref name="tue160">ツェルナー『オーストリア史』、160頁</ref>。ボヘミア王に擁立されたヴァーツラフ2世の娘婿である[[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|ケルンテン公ハインリヒ]]を追放し、長子のルドルフを新たなボヘミア王に据えた<ref name="suzuki"/>。しかし、翌[[1307年]]にルドルフは急死し、チェコ内の反ハプスブルク派は再びハインリヒを擁立する<ref name="tue160"/>。同年に{{仮リンク|ルッカ (ドイツ)|de|Lucka|label=ルッカ}}での戦闘に敗れ、テューリンゲンへの介入は不成功に終わる<ref name="bri"/>。


盟約者同盟を構成するスイス森林州には特許状は発布しなかったものの、一定の自治を黙認していた<ref name="sehara85"/>。だが、スイスではハプスブルクの支配に対する不安と独立の気運が高まり、[[フリードリヒ・フォン・シラー]]の戯曲などで知られる「[[ウィリアム・テル]]」伝説が生まれる<ref name="wee50"/><ref>江村『ハプスブルク家史話』、10-11頁</ref>。
盟約者同盟を構成するスイス森林州には特許状は発布しなかったものの、自治を黙認していた<ref name="sehara85"/>。だが、スイスではハプスブルクの支配に対する不安と独立の気運が高まり、[[フリードリヒ・フォン・シラー]]の戯曲などで知られる「[[ウィリアム・テル]]」伝説が生まれる<ref name="wee50"/><ref>江村『ハプスブルク家史話』、10-11頁</ref>。


=== 最期 ===
=== 最期 ===
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== 子女 ==
== 子女 ==
[[ケルンテン公国|ケルンテン公]]・[[ゴリツィア|ゲルツ]]伯・[[チロル]]伯[[マインハルト (ケルンテン公)|マインハルト2世]]の娘[[エリーザベト・フォン・ケルンテン|エリーザベト]](1262年頃 - 1312年)と1276年に結婚し、12子をもうけた。
[[ケルンテン公国|ケルンテン公]]・[[ゴリツィア|ゲルツ]]伯・[[チロル]]伯[[マインハルト (ケルンテン公)|マインハルト2世]]の娘[[エリーザベト・フォン・ケルンテン|エリーザベト]](1262年頃 - 1312年)と1276年に結婚し、12子をもうけた。
*アンナ(1275年/1280年 - 1328年) - [[ブランデンブルク辺境伯領|ブランデンブルク辺境伯]][[ヘルマン (ブランデンブルク辺境伯)|ヘルマン]]、次いで[[ヴロツワフ]]公[[ヘンリク6世ドブルィ|ヘンリク6世]]と結婚
*[[アンナ・フォン・エスターライヒ (1280-1327)|アンナ]](1275年/1280年 - 1327年) - [[ブランデンブルク辺境伯領|ブランデンブルク辺境伯]][[ヘルマン (ブランデンブルク辺境伯)|ヘルマン]]、次いで[[ヴロツワフ]]公[[ヘンリク6世ドブルィ|ヘンリク6世]]と結婚
*アグネス(1280年 - 1364年) - [[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[アンドラーシュ3世|アンドラーシュ(エンドレ)3世]]と結婚
*[[アグネス・フォン・エスターライヒ (1281-1364)|アグネス]](1281年 - 1364年) - [[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[アンドラーシュ3世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ(エンドレ)3世]]と結婚
*[[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ3世]](1281年 - 1307年) - [[ボヘミア]]王ルドルフ1世、母方の叔父のケルンテン公[[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|ハインリヒ6世]]と王位を争った
*[[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ3世]](1281年 - 1307年) - [[ボヘミア]]王ルドルフ1世、母方の叔父のケルンテン公[[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|ハインリヒ6世]]と王位を争った
*エリーザベト(1285年頃 - 1352年) - 1304年に[[ロレーヌ公]][[フェリー4世 (ロレーヌ公)|フェリー4世]]と結婚
*[[エリーザベト・フォン・エスターライヒ (1285-1352)|エリーザベト]](1285年頃 - 1352年) - 1304年に[[ロレーヌ公]][[フェリー4世 (ロレーヌ公)|フェリー4世]]と結婚
*[[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ1世]](1289年 - 1330年) - ローマ王([[対立王]])フリードリヒ3世、「美王」
*[[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ1世]](1289年 - 1330年) - ローマ王([[対立王]])フリードリヒ3世、「美王」
*[[レオポルト1世 (オーストリア公)|レオポルト1世]](1290年/1293年 - 1326年) - オーストリア公
*[[レオポルト1世 (オーストリア公)|レオポルト1世]](1290年/1293年 - 1326年) - オーストリア公
*カタリーナ(1295年 - 1323年) - カラブリア公[[カルロ (カラブリア公)|カルロ]]と結婚
*[[カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1295–1323)|カタリーナ]](1295年 - 1323年) - カラブリア公[[カルロ (カラブリア公)|カルロ]]と結婚
*[[アルブレヒト2世 (オーストリア公)|アルブレヒト2世]](1298年 - 1358年) - オーストリア公、ケルンテン公
*[[アルブレヒト2世 (オーストリア公)|アルブレヒト2世]](1298年 - 1358年) - オーストリア公、ケルンテン公
*ハインリヒ(1299年 - 1327年)
*{{仮リンク|ハインリヒ・フォン・ハプスブルク (1299-1327)|label=ハインリヒ|de|Heinrich der Sanftmütige}}(1299年 - 1327年)
*マインハルト(1300年 - 1301年)
*マインハルト(1300年 - 1301年)
*[[オットー (オーストリア公)|オットー]](1301年 - 1339年) - オーストリア公、ケルンテン公
*[[オットー (オーストリア公)|オットー]](1301年 - 1339年) - オーストリア公、ケルンテン公
*ユッタ(1302年 - 1329年) エッティンゲン伯ルートヴィヒ6世と結婚
*[[グッタ・フォン・エスターライヒ|ユッタ]](1302年 - 1329年) - エッティンゲン伯ルートヴィヒ6世と結婚


== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 池谷文夫「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録([[木村靖二]]、[[成瀬治]]、[[山田欣吾]]編, 世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
* 池谷文夫「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録([[木村靖二]]、[[成瀬治]]、[[山田欣吾]]編, 世界歴史大系, [[山川出版社]], 1997年7月)
* 江村洋『ハプスブルク家史話』(東洋書林, 2004年7月)
* 江村洋『ハプスブルク家史話』([[東洋書林]], 2004年7月)
* 鈴木広和「繁栄と危機」『ドナウ・ヨーロッパ史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1999年3月)
* 鈴木広和「繁栄と危機」『ドナウ・ヨーロッパ史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1999年3月)
* 瀬原義生『スイス独立史研究』(Minerva西洋史ライブラリー, ミネルヴァ書房, 2009年11月)
* 瀬原義生『スイス独立史研究』(Minerva西洋史ライブラリー, [[ミネルヴァ書房]], 2009年11月)
* 森田安一「盟約者団の形成と発展」『スイス・ベネルクス史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年4月)
* 森田安一「盟約者団の形成と発展」『スイス・ベネルクス史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年4月)
* エーリヒ・ツェルナー『オーストリア史』(リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2000年5月)
* エーリヒ・ツェルナー『オーストリア史』(リンツビヒラ裕美訳、[[彩流社]]、2000年5月)
* アンドリュー・ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』(瀬原義生訳, 文理閣, 2009年7月)
* アンドリュー・ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』(瀬原義生訳, 文理閣, 2009年7月)


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アルブレヒト1世
Albrecht I.
ローマ王
在位 1298年7月27日 - 1308年5月1日
戴冠式 1298年8月24日
別号 オーストリア公
シュタイアーマルク公

出生 1255年7月
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
帝国自由都市ラインフェルデン英語版
死去 (1308-05-01) 1308年5月1日(52歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
アールガウ地方ロイス河畔
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
帝国自由都市シュパイアーシュパイアー大聖堂
配偶者 エリーザベト・フォン・ケルンテン
子女 後述
家名 ハプスブルク家
王朝 ハプスブルク朝
父親 ルドルフ1世
母親 ゲルトルート・フォン・ホーエンベルク(アンナ)
テンプレートを表示
アルブレヒト1世(16世紀)

アルブレヒト1世ドイツ語: Albrecht I.1255年7月 - 1308年5月1日)は神聖ローマ帝国ローマ王(ドイツ王、 在位:1298年 - 1308年[注釈 1]ルドルフ1世から続く3代目の非世襲ローマ王だが、正式な皇帝として戴冠するためのイタリア出兵は実施していない。ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国君主[1]で、ルドルフ1世ゲルトルートの長子。優れた政治手腕と厳格冷徹な人柄で知られハプルブルク家の勢力を拡大したが、選帝侯たちから恐れられたことで王位世襲はかえって遠のいた。神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は玄孫、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は来孫、神聖ローマ皇帝カール5世と神聖ローマ皇帝フェルディナント1世は仍孫である。

生涯

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ルドルフ1世存命中

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ルドルフ1世は1278年ボヘミアオタカル2世を破った後、オタカルが支配していたオーストリアをハプスブルクの支配下に収めようと試み、1281年にアルブレヒトをオーストリアの領邦摂政に任命した。オーストリアの貴族たちはアルブレヒトの強圧的な政策に恐怖を抱き、ルドルフは現地の上級領邦貴族(ラントヘル)にアルブレヒトの補佐を任せた[2]1282年12月25日にアルブレヒトと弟のルドルフがオーストリア、シュタイアーマルク、クラインの共同統治者に定められた。翌1283年に結ばれたラインフェルデンの契約英語版でアルブレヒトが単独のオーストリアの統治者とされ、オーストリア公位を退いたルドルフと彼の後継者には代償として金銭もしくは土地が支払われることが決められる[2]

アルブレヒトと家臣団はオーストリアに強圧的な統治を敷き、現地の人間の怨嗟の的になっていた[3][4]。ウィーン市民と貴族の団結を防ぐため、市民と貧困層の対立を利用した[5]。ウィーンの抵抗を抑えたアルブレヒトは、市から帝国直属資格を剥奪した。エンス渓谷の所有権と諸権利を巡ってザルツブルク大司教と争い、1290年にルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた[5]。同年にハンガリー王ラースロー4世が暗殺され、ハンガリー王位が空位になると、ルドルフはハンガリー王位をアルブレヒトに与えると宣言した[5]

ローマ王即位

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ゲルハイムの戦いでアドルフを討ち取ったアルブレヒト1世と従者たち(1829年、Simon Meister作)

1291年7月15日にルドルフ1世が没すると、アルブレヒトを取り巻く情勢は目まぐるしく変化する。

スイスの都市はアルブレヒトを脅威に感じ、1291年8月1日にウーリシュヴィーツウンターヴァルデンニトヴァルデン)の代表者がリュートリで会合し、盟約者同盟(永久同盟)を結んだ[6]

スイス東部でベルンムルテン英語版パイエルヌ英語版が連合し、西ではラウフェンブルク・ハプスブルク家出身のコンスタンツ司教コンラートを中心としてチューリヒルツェルンが同盟を結んだ。東西の連合は連携を取り合ってアルブレヒトに反抗し、1291年12月25日にハプスブルク本家の拠点であるザールネン城を破壊した[7]

ローマ教皇ニコラウス4世の承認を得た周辺の勢力は反ハプスブルク同盟を結成し、ハンガリー、ボヘミア、ニーダーバイエルンサヴォイア伯国、聖界諸侯、盟約者同盟が参加した[5]。ハンガリーではラースロー4世の従兄弟にあたるアンドラーシュ3世が国王に擁立され、アンドラーシュ3世はザルツブルク大司教コンラートと同盟してオーストリアに進軍し、ハプスブルク軍に勝利を収めた。

アルブレヒトを恐れた選帝侯たちは、弱小のナッサウ家アドルフを新たなローマ王に選出し、アルブレヒトへのローマ王位継承は成らなかった[8]。アルブレヒトはアドルフのローマ王選出を認めたが、ローマ王位への野心を捨ててはいなかった[8][9]

アドルフが選出された後、アルブレヒトはスイスと周辺の家領の経営に力を入れた[6]。1292年4月13日、ヴィンタートゥール前面の戦いでハプスブルク軍はチューリヒ市民軍を破り、東西スイスの同盟は瓦解した[10]。アルブレヒトは盟約者同盟に対しては直接的な圧力をかけずにオーストリアの安定を優先し[6]、オーストリア、シュタイアーマルクで発生した反乱を鎮圧する[11]。ハンガリー王位は断念し、ザルツブルク大司教には大幅な譲歩を示して講和した[11]。アルブレヒトの義弟であるボヘミア王ヴァーツラフ2世は妻のグタ(ユッタ)に影響されて同盟を離脱し、アルブレヒトは危機を脱する[11]

一方、テューリンゲンマイセンに干渉するアドルフに対して、選帝侯は反発を示した。ヴァーツラフ2世を中心とする選帝侯はアドルフの廃位を決定し、1298年5月23日にマインツでアルブレヒトを新たなローマ王に擁立した[12]。1298年7月2日[10]ヴォルムス近郊のゲルハイムでアルブレヒトはアドルフと交戦した(ゲルハイムの戦い英語版)。ゲルハイムの戦いにおいてアルブレヒトはアドルフからの一騎討ちの挑戦に応じ、彼を殺害したと伝えられる[9]

戦闘の後、アルブレヒトは諸侯に大幅な譲歩を示し、同年7月27日にフランクフルトで開催された国王選挙でローマ王に選出され、8月24日にアーヘンで戴冠式が行われた[8]

勢力の拡張

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1298年にアルブレヒトはフランスと同盟、翌1299年フランス王フィリップ4世とクァトルヴォー条約を締結した[13]。条約により、アルブレヒトの長子ルドルフとフィリップ4世の妹ブランシュの結婚が取り決められ、マース川が二国間の境界と定められた[13]

諸侯に対しては特権の承認、ラント平和令の発布、領土の返還請求に応じた[13]。他方、諸侯が両国を形成することを妨げようと、帝国内の都市に保護を与えて自治を促進した[8][13]ラインの選帝侯たちは同盟してアルブレヒトに対抗したが、アルブレヒトは都市からの助けを受けて彼らを打ち破る[8]

アドルフと同じく、アルブレヒトもテューリンゲンとマイセンの獲得を試み、諸侯から強い反対を受ける[14]。勢力を拡大するアルブレヒトに対し、選帝侯たちは彼の息子によるローマ王位の世襲に反対した[15]1303年、アルブレヒトは教皇権への服従と、ローマ教皇の同意無しに息子たちへのローマ王位の継承を行わないことを誓約し、教皇ボニファティウス8世からローマ王位を認められる[8]

アルブレヒトはボヘミアにも勢力の拡張を試み、ヴァーツラフ2世にクトナー・ホラの銀山から上がる収益などを要求した[16]1304年に帝国とボヘミアの間で軍事衝突が起こり、ボヘミアに敗れたアルブレヒトは要求を撤回した。1306年にボヘミア王ヴァーツラフ3世が没してボヘミアの王統が断絶すると、アルブレヒトはボヘミアに侵攻する[17]。ボヘミア王に擁立されたヴァーツラフ2世の娘婿であるケルンテン公ハインリヒを追放し、長子のルドルフを新たなボヘミア王に据えた[16]。しかし、翌1307年にルドルフは急死し、チェコ内の反ハプスブルク派は再びハインリヒを擁立する[17]。同年にルッカドイツ語版での戦闘に敗れ、テューリンゲンへの介入は不成功に終わる[8]

盟約者同盟を構成するスイス森林州には特許状は発布しなかったものの、自治を黙認していた[10]。だが、スイスではハプスブルクの支配に対する不安と独立の気運が高まり、フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲などで知られる「ウィリアム・テル」伝説が生まれる[18][19]

最期

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ヨーハンと仲間たちによる、アルブレヒト1世の暗殺

治世の末期にスイスでの反乱が激化し、アルブレヒトは反乱の鎮圧に向かうため、騎士たちをアールガウに召集した[20]。反乱の鎮圧に参加する従者の中にはルドルフ2世の子(アルブレヒトにとっての甥)ヨーハンが含まれており、ヨーハンはアルブレヒトにラインフェルデンの契約で定められた財産の支払いを請求し続けていた[20]。恐らくはアルブレヒトはヨーハンが分家を立てて一門が弱体化することを恐れており[17]、ヨーハンの要求を拒否していた。そして、ヨーハンは伯父の約束の不履行を恨み、暗殺を企てた[17]

1308年5月1日、ロイス川を渡るアルブレヒトが従者たちと離れたとき、ヨーハンたちの計画が決行される。最初にヨーハンがアルブレヒトに切りかかり、続いて4人の共謀者たちがアルブレヒトを切りつけ、アルブレヒトは落命する[20]。アルブレヒトの命日である5月1日はハプスブルク史上で「暗黒の日(ディアス・アーテル)」と呼ばれた[21]。死後、妻のエリーザベトによって、アルブレヒトが殺害された地点の近辺にケーニヒスフェルデン修道院ドイツ語版が建立された[22]

アルブレヒトの死後、選帝侯たちは弱小のルクセンブルク家ハインリヒをローマ王に選出した[23]

人物像

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アルブレヒトは色黒でずんぐりした体格をしており、戦闘で片目を失ったことから「隻眼公」とも呼ばれていた[18]

父ルドルフ1世から政治手腕を継承し、武力と策略を使い分けて自家の勢力を拡大した[24]。そして、温厚な性格が伝えられる父とは反対の、冷徹な性格の持ち主だと伝えられている[25]。しかし、妻エリーザベトに対しては誠実で献身的な夫だった[18]。アルブレヒトの冷徹な性格は選帝侯から恐怖され[9]、スイスの伝承では圧政を敷く冷酷な君主として述べられている[8]。だが、劣悪な扱いを受けていた農奴は厳格なアルブレヒトに好意を抱き、アルブレヒトの統治下では各地で迫害を受けていたユダヤ人に保護が与えられた[8]

政策

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ハプスブルクの家領において、アルブレヒトはフランスをモデルにしたと思われる行政組織の改革を実施した[26]。裕福なウィーン市民を財務官に任命し、御料地を管理するフープマイスターを創設した。荘園の権利、収入を把握するために土地台帳が作成される[26]

帝国内に空白の封土が生まれると、アルブレヒトはハプスブルク家の成員にその土地を付与した。1299年にホラント伯ヤン1世が没してホラント伯領が空き地となった時、ホラント伯領の合併を試みたが、失敗に終わった[8]。アルブレヒトは教会に対しても厳格な態度で臨み、聖職者の免税特権を認めず、裁判権を制限した[26]

子女

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ケルンテン公ゲルツ伯・チロルマインハルト2世の娘エリーザベト(1262年頃 - 1312年)と1276年に結婚し、12子をもうけた。

脚注

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注釈

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  1. ^ ローマ王は帝位の前提となった王号で現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。またイタリアブルグントへの宗主権を備える。

出典

[編集]
  1. ^ 世界大百科事典 第2版の解説”. コトバンク. 2018年2月12日閲覧。
  2. ^ a b ツェルナー『オーストリア史』、155頁
  3. ^ ツェルナー『オーストリア史』、156-157頁
  4. ^ ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、49頁
  5. ^ a b c d ツェルナー『オーストリア史』、157頁
  6. ^ a b c 森田「盟約者団の形成と発展」『スイス・ベネルクス史』、45-46頁
  7. ^ 瀬原『スイス独立史研究』、81頁
  8. ^ a b c d e f g h i j Albert I. (German king)
  9. ^ a b c ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、51頁
  10. ^ a b c 瀬原『スイス独立史研究』、85頁
  11. ^ a b c ツェルナー『オーストリア史』、158頁
  12. ^ 1911 Encyclopædia Britannica/Adolph of Nassau
  13. ^ a b c d 池谷「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、296-297頁
  14. ^ ツェルナー『オーストリア史』、159-160頁
  15. ^ ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、52頁
  16. ^ a b 鈴木「繁栄と危機」『ドナウ・ヨーロッパ史』、61-62頁
  17. ^ a b c d ツェルナー『オーストリア史』、160頁
  18. ^ a b c ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、50頁
  19. ^ 江村『ハプスブルク家史話』、10-11頁
  20. ^ a b c ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、53頁
  21. ^ 江村『ハプスブルク家史話』、12頁
  22. ^ ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、54-55頁
  23. ^ 江村『ハプスブルク家史話』、14頁
  24. ^ 江村『ハプスブルク家史話』、11頁
  25. ^ ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、49-50頁
  26. ^ a b c ツェルナー『オーストリア史』、159頁

参考文献

[編集]
  • 池谷文夫「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二成瀬治山田欣吾編, 世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
  • 江村洋『ハプスブルク家史話』(東洋書林, 2004年7月)
  • 鈴木広和「繁栄と危機」『ドナウ・ヨーロッパ史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1999年3月)
  • 瀬原義生『スイス独立史研究』(Minerva西洋史ライブラリー, ミネルヴァ書房, 2009年11月)
  • 森田安一「盟約者団の形成と発展」『スイス・ベネルクス史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年4月)
  • エーリヒ・ツェルナー『オーストリア史』(リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2000年5月)
  • アンドリュー・ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』(瀬原義生訳, 文理閣, 2009年7月)
先代
ルドルフ1世
オーストリア公
シュタイアーマルク公
1282年 - 1308年
共同統治:
ルドルフ2世(1282年 - 1283年)
ルドルフ3世(1298年 - 1307年)
次代
フリードリヒ1世