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'''佐竹 義明'''(さたけ よしはる、[[享保]]8年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[1723年]][[12月2日]])- [[宝暦]]8年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]([[1758年]][[4月25日]]))は、[[出羽国|出羽]][[久保田藩]]の第7代藩主。出羽[[久保田藩#岩崎藩|岩崎藩]]主・[[佐竹義道]]の長男。生母は[[佐竹義長]]の娘・昆([[明鏡院 (佐竹家)|明鏡院]])。初名は'''義局'''。幼名は延寿丸。通称は求馬。官位は従四位下侍従、右京大夫。
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| 氏名 = 佐竹義明
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| 画像説明 = 佐竹義明像([[天徳寺 (秋田市)|天徳寺]]蔵)
| 時代 = [[江戸時代]]中期
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'''佐竹 義明'''(さたけ よしはる)は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]。[[出羽国]][[久保田藩]]の第7代藩主。[[佐竹氏]]第25代当主。[[仮名 (通称)|通称]]は求馬。[[官位]]は[[従四位|従四位下]]・[[侍従]]、[[京職|右京大夫]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
出羽[[岩崎藩]]主・[[佐竹義道]]の長男として誕生した。生母は[[佐竹義長]]の娘・昆(明鏡院)。幼名は延寿丸。初名は'''義局'''。
[[元文]]2年(1737年)3月28日、義道の世嗣として[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川吉宗]]に[[御目見]]する。宝暦3年([[1753年]])9月3日、先代の[[久保田藩]]主・[[佐竹義真]]の死去により、[[末期養子]]として家督を相続した。同年11月1日、将軍・[[徳川家重]]に御目見する。同年12月18日、従四位下侍従、右京大夫に叙任される。宝暦5年4月15日、初めてお国入りする許可を得る。


[[元文]]2年(1737年)3月28日、義道の世嗣として8代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川吉宗]]に[[御目見]]する。[[宝暦]]3年([[1753年]])9月3日、先代の[[久保田藩]]主・[[佐竹義真]]の死去により、[[末期養子]]として家督を相続した。同年11月1日、9代将軍・[[徳川家重]]に御目見する。同年12月18日、従四位下侍従、右京大夫に叙任される。宝暦5年([[1755年]])4月15日、初めてお国入りする許可を得る。
宝暦4年([[1754年]])7月、昨年来の米の凶作の対策として、幕府の許可のもと、[[藩札|銀札]]の発行を開始する。米の値上げを見込んだ商人らに銀札による米の買い上げを拒否されため、銀札の兌換資金である銀正貨による買い上げに切替え、銀札発行は事実上失敗した。宝暦7年([[1757年]])、銀札発行をめぐり家中で推進派と反対派の抗争が激化する。いわゆる[[秋田騒動]]である。推進派は処罰されて、銀札の発行は中止される。宝暦8年([[1758年]])3月18日、[[久保田城]]において死去、享年36。跡を長男の[[佐竹義敦|義敦]]が継いだ。法号は恭温院徳岩玄光。墓所は[[秋田県]][[秋田市]]の[[天徳寺]]


宝暦4年([[1754年]])7月、昨年来の米の凶作の対策として、幕府の許可のもと、[[藩札|銀札]]の発行を開始する。米の値上げを見込んだ商人らに銀札による米の買い上げを拒否されため、銀札の兌換資金である銀正貨による買い上げに切替え、銀札発行は事実上失敗した。宝暦7年([[1757年]])、銀札発行をめぐり家中で推進派と反対派の抗争が激化する[[秋田騒動]]。推進派は処罰されて、銀札の発行は中止される。
正室は第5代藩主・[[佐竹義峯]]の娘・直。子は[[佐竹義敦]](長男)、[[佐竹義方]](次男)。


宝暦8年([[1758年]])3月18日、[[久保田城]]において死去、享年36。跡を長男の[[佐竹義敦|義敦]]が継いだ。法号は恭温院徳岩玄光。墓所は[[秋田県]][[秋田市]]の[[天徳寺 (秋田市)|天徳寺]]。
== 偏諱を与えた人物 ==

== 系譜 ==
*父:[[佐竹義道]](1701年 - 1765年)
*母:昆、明鏡院 - [[佐竹義長]]の娘
*養父:[[佐竹義真]](1728年 - 1753年)
*正室:直(光源院)(1729年 - 1748年) - [[佐竹義峯]]の娘
**長男:[[佐竹義敦]](1748年 - 1785年)
*側室:林氏
**次男:[[佐竹義方]](1754年 - 1809年)

== 偏諱を受けた人物 ==
'''義局時代'''
'''義局時代'''
*[[久保田藩#廻座(一部)|渋江'''局'''光]](家臣)
*[[久保田藩#廻座(一部)|渋江'''局'''光]](家臣)
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'''義明時代'''
'''義明時代'''
*[[久保田藩#廻座(一部)|渋江'''明'''光]](家臣、局光の養子)
*[[久保田藩#廻座(一部)|渋江'''明'''光]](家臣、局光の養子)



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佐竹義明
佐竹義明像(天徳寺蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 享保8年11月5日1723年12月2日
死没 宝暦8年3月18日1758年4月25日
改名 延寿丸(幼名)、義局(初名)、義明
別名 求馬(通称
戒名 恭温院徳岩玄光
墓所 秋田県秋田市天徳寺
官位 従四位下侍従右京大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重
出羽岩崎藩一門→出羽久保田藩
氏族 佐竹氏
父母 父:佐竹義道、母:佐竹義長の娘・昆
養父:佐竹義真
兄弟 義明義敏義忠蜂須賀重喜松平直道正室
佐竹義峯の娘・
義敦義方
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佐竹 義明(さたけ よしはる)は、江戸時代中期の大名出羽国久保田藩の第7代藩主。佐竹氏第25代当主。通称は求馬。官位従四位下侍従右京大夫

経歴

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出羽岩崎藩主・佐竹義道の長男として誕生した。生母は佐竹義長の娘・昆(明鏡院)。幼名は延寿丸。初名は義局

元文2年(1737年)3月28日、義道の世嗣として8代将軍徳川吉宗御目見する。宝暦3年(1753年)9月3日、先代の久保田藩主・佐竹義真の死去により、末期養子として家督を相続した。同年11月1日、9代将軍・徳川家重に御目見する。同年12月18日、従四位下・侍従、右京大夫に叙任される。宝暦5年(1755年)4月15日、初めてお国入りする許可を得る。

宝暦4年(1754年)7月、昨年来の米の凶作の対策として、幕府の許可のもと、銀札の発行を開始する。米の値上げを見込んだ商人らに銀札による米の買い上げを拒否されたため、銀札の兌換資金である銀正貨による買い上げに切替え、銀札発行は事実上失敗した。宝暦7年(1757年)、銀札発行をめぐり家中で推進派と反対派の抗争が激化する(秋田騒動)。推進派は処罰されて、銀札の発行は中止される。

宝暦8年(1758年)3月18日、久保田城において死去、享年36。跡を長男の義敦が継いだ。法号は恭温院徳岩玄光。墓所は秋田県秋田市天徳寺

系譜

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偏諱を受けた人物

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義局時代

義明時代