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* 1999年 - 2005年
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| Origin = {{MOL}}、{{ROM}}
* 2024年 -
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| Genre = [[エレクトロニカ]]<br />[[ユーロダンス]]
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'''O-Zone'''(オゾン、オー・ゾーン)は、[[モルドバ]]共和国出身の[[男性]]3人組による[[ルーマニア]]の[[音楽]]グループ。
| 事務所 =

| 共同作業者 =
名前は'''[[ダン・バラン]]'''が友人'''[[ペトル・イェリホフスキ]]''' (''{{lang|ro|Petru Jelihovski}}'') とグループを結成したときにDanの計画「''{{lang|ro|Dan Bălan Project:[[0]]-Zone}}''」([[0#その他 0 に関連すること|ゼロから始めるということ]]から0-Zoneと名がついたと言われる)がそのままグループ名となった。Petruが抜けて'''[[ラドゥ・アレクセイ・スルブ]]''' (''{{lang|ro|Radu Alexei Sîrbu}}''、 ルーマニア式綴りでは''{{lang|ro|Sârbu}}'') と'''[[アルセニェ・トデラシュ]]''' (''{{lang|ro|Arsenie Toderaş}}'') が加入した新しいグループにもその名前が継続された。
| 公式サイト = [http://artists.universal-music.de/ozone/ オゾン 公式サイト]

| メンバー = [[アルセニェ・トデラシュ]]
[[2004年]]夏、『[[恋のマイアヒ]]』(原題:『{{lang|ro|Dragostea Din Tei}}』)が大ヒット。『[[SMAP×SMAP]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]])に出演したり、『[[ミュージックステーション]]』([[テレビ朝日]])に緊急生出演している。それに関しては[[#DiscO-Zone|DiscO-ZONE]]の節を参照。
| 旧メンバー = {{Plainlist|

* [[ダン・バラン]]
== プロフィール ==
* [[ラドゥ・アレクセイ・スルブ]]
=== ダン・バラン ===
* [[ペトル・イェリホフスキ]]
{{main|ダン・バラン}}
}}
[[1979年]][[2月6日]]生まれ。リーダー、作詞作曲担当。身長190cm。「[[アヒル]]声」とも称される事も有る、[[エフェクター]]を通したような響きの若干鼻に掛かったような独特のボーカルで、[[メリスマ#こぶしとの類似点|こぶし]]をきかせて歌うことが多い。2000年、ペトル・ジェリホフスキとのペアでO-Zoneの名でアルバムを発表している。不思議なことに、大ヒットを記録したにもかかわらず、同アルバム中では、その後の彼からは想像出来ないほど歌唱力が劣る。写真によってかなり顔の印象が変わる。1997年に「[[Pantheon]]」「[[Inferialis]]」と言ったバンドで活動。
}}

'''O-Zone'''(オゾン)は、[[モルドバ]]共和国出身の[[ルーマニア]]の[[音楽]]グループ。名前は[[ダン・バラン]]が友人である[[ペトル・イェリホフスキ]] (''{{lang|ro|Petru Jelihovski}}'') とグループを結成したときにバランの計画「''{{lang|ro|Dan Bălan Project:0-Zone}}''」(ゼロから始めるということから0-Zoneと名がついたと言われる)がそのままグループ名となった。イェリホフスキが抜けて[[ラドゥ・アレクセイ・スルブ]](''{{lang|ro|Radu Alexei Sîrbu}}''、 ルーマニア式綴りでは''{{lang|ro|Sârbu}}'') と[[アルセニェ・トデラシュ]] (''{{lang|ro|Arsenie Toderaş}}'') が加入した新しいグループにもその名前が継続された。
O-Zone解散後は[[ロックバンド]]「'''[[BALAN]]'''」を結成したほか、[[2007年]]にはO-Zoneと同路線のソロプロジェクト「'''[[Crazy Loop]]'''」として活動している。

=== ラドゥ・スルブ ===
[[1978年]][[12月14日]]生まれ。身長175cm。少しかすれて頼りなげなハイトーンボイスを持つ。シャイな性格。一番小柄だがグループ最年長である。やや[[筋肉質]]で「''{{lang|ro|Dragostea Din Tei}}''」をステージで歌う際、「{{lang|ro|Si Sunt Voinic}}」(この部分は「僕には力がある」と言う意味)のところでマッスルポーズをすることも多い。2005年初夏(少なくとも[[7月1日]]以前)に妻アナとの間に女児[[アナスタシア・ダリア]]を授かった。小学生の頃はあまりにもシャイな性格だったため発表会ともなると声が出なかったがO-Zoneに入って克服した。Cupydonという[[白猫]]を飼っていたが2005年5月に他界してしまった。

解散直後に男性歌手'''Mahay'''と「[[DJ Mahay feat. Radu]]」名義で「''{{lang|ro|Dulce}}''」を発売、現在は'''[[RadU]]'''名義でソロ活動中で、「''{{lang|ro|Whap-Pa}}''」「''{{lang|ro|Leave Me Alone}}''」などの曲を発表。

=== アルセニエ・トデラシュ ===
[[1983年]][[7月22日]]生まれ。身長186cm。長身と良く通る低音ボイス、さらにはきれいな[[ファルセット]]も持ち合わせ、Raduと好対照を成す。怪しい目つきで台無しにしてしまうことが時々あるが、かなりのイケメンである。ファッションにもこだわりを持ち、特別なプロモーションなどでは、ベージュのカジュアルスーツとどくろの絵が入ったピンクのTシャツで決めている。ちなみに子供の頃から[[日本]]に憧れていて、青いプラスチックの刀のおもちゃを持っていたり、忍者になりたがっていたり「[[七人の侍]]」よろしく友達を集めて7人で近所の悪ガキと決闘したこともあるほか、現在でも[[日本車]]に乗っている。さらに10歳からは[[合気道]]もやっていた。大好物は[[キャンディー]]で、これだけは最愛の妹にねだられても渡さないらしい。

O-Zone解散後は、[[ドイツ]]などでソロ活動を開始。'''[[Arsenium]]'''という名前で、「''Love Me Love Me''」「''{{lang|ro|Loca (feat. Ntalila Gordienco and Connect-R)}}''」、などの曲を発表している。[[2006年]][[3月24日]]から、ルーマニアのテレビ局'''Pro TV'''のダンス勝ち抜き番組『''{{lang|ro|Dansez pentru tine}}''』に女性ダンサー'''[[アリオナ]]{{要曖昧さ回避|date=2017年10月}}'''とペアを組んで出演、[[5月5日]]の決勝まで勝ち進み準優勝している。この年の[[ユーロビジョン・ソング・コンテスト2006|ユーロビジョンアテネ大会]]モルドバ代表に選ばれ[[5月20日]]の本戦に出場、20位だった。[[6月25日]]、アルバム「''The 33rd Element''」(Arsenium([[ヒ素]])が33番目の元素だから)を発売。[[2006年]]には[[9月1日]]に日本でも公式ファンクラブが設立され、[[10月20日]]より[[ルーマニア]]国内で公開の映画『''{{lang|ro|Lacrimi de Iubire}}''』に出演した。ファンサイトの[[チャット]]に顔を出すなど、ファンとの交流も欠かしていない。[[12月20日]]にはファンとのチャット会でファンにクリスマスプレゼントとして新曲「''Professional Heartbreakers''」を贈った。

現在では'''[[Arsenie]]'''名義で活動している。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[1999年]]'''{{lang|ro|Dan Bălan}}'''とその友人'''{{lang|ro|Petru Jelihovski}}'''の2名で結成。[[モルドバ]]国内で、アルバム『{{lang|ro|Dar, Unde Eşti}}』からタイトル曲の他ファーストシングルの『{{lang|ro|Timpul Trece fara [[wikt:en:noi#Romanian|Noi]]}}』、『{{lang|ro|Fiesta de la Noche}}』『{{lang|ro|Crede-ma}}』など7曲のメガヒットを生み出す前代未聞の快挙を達成する。しかし、[[作詞]][[作曲]]を担当し[[音楽]]を真剣に考えるDanは[[ルーマニア]]での活動を希望、あくまで音楽を趣味と考えるPetruとの対立が表面化し、二人は袂を分かつがその後も友人関係は続いている。
1999年、ダン・バランとその友人であるペトル・イェリホフスキの2名で結成。[[モルドバ]]国内で、アルバム『{{lang|ro|Dar, Unde Eşti}}』からタイトル曲の他ファーストシングルの『{{lang|ro|Timpul Trece fara [[wikt:en:noi#Romanian|Noi]]}}』、『{{lang|ro|Fiesta de la Noche}}』『{{lang|ro|Crede-ma}}』など7曲のメガヒットを生み出す前代未聞の快挙を達成する。しかし、[[作詞]][[作曲]]を担当し[[音楽]]を真剣に考えるバランは[[ルーマニア]]での活動を希望、あくまで音楽を趣味と考えるイェリホフスキとの対立が表面化し、二人は袂を分かつがその後も友人関係は続いている。

[[2001年]]春、Danは3人組のユニット結成を計画、そんな中、彼の[[ボーカル]]の先生が音楽スクールの後輩'''{{lang|ro|Arsenie Toderaş}}'''を紹介した。{{lang|ro|Arsenie}}は歌を習い始めたばかりで時期尚早とも思われたが、将来性を信じたDanがグループにArsenieを迎え入れた。この時ロシア訛りで話すArsenieがオーディションで[[エルヴィス・プレスリー]]の「Love Me Tender」を歌うと、[[ロシア語]]のアクセントが嫌いでロシア訛りが苦手だというDanだったが、彼の歌に嫌悪感は吹っ飛び「気にならない」と言ったそうである。少し経ち、Danは'''{{lang|ro|Radu Alexei Sârbu}}'''と出会う。Danは、Raduに対して[[ダンス]]の方向性に違いを感じていたがすぐにいい意味で固定されると思い、Raduを残り一人のメンバーに迎え入れ、ここに第2次O-Zoneは結成された。

メンバーを揃えたDanはさっそく楽曲を用意し、まず『{{lang|ro|Numai Tu}}』『Number1』『{{lang|ro|Nopti fara de Somn}}』『{{lang|ro|Am sa te Chem}}』の4曲をレコーディング、[[2001年]]秋にシングル『{{lang|ro|Numai Tu}}』『Number1』をリリース、人気は上々だった。これを受けていよいよDanが望んだルーマニア進出に乗り出す。モルドバ人がルーマニアで成功した前例はなかったが、3人は成功を信じ、努力は惜しまなかった。資金が不足していたため、所有していたスタジオと[[シンセサイザー]]を売却した後に『{{lang|ro|Numai Tu}}』のプロモーション・ビデオを制作、この頃に『{{lang|ro|Sarbatoarea Noptilor de Vara}}』『{{lang|ro|Nu ma las de Limba Noastra}}』、さらに『{{lang|ro|Dar, Unde Eşti}}』をレコーディングしている。[[2002年]]春、ルーマニアの音楽大手「Media Services」と契約が決まり、8月に3人としてのファーストアルバム『Number1』を発売したものの、当初ルーマニアでは「モルドバの新しいバンド」としか受け止められていなかったためか、ラジオでもなかなか取り上げられずに苦戦した。そこで同年秋には、このアルバムの中から『Despre Tine』をシングルカットして発売、「覚えやすくて面白い」をテーマにプロモーション・ビデオも制作されるとこれがルーマニアでは数十年ぶりという大ヒットを記録、5ヶ月以上に渡ってヒットを続け、多くの老若男女が口ずさむほどの人気曲となり、それに乗じてアルバム『Number1』も10万枚を超えるメガヒット。O-ZONEは一躍ルーマニアNo.1のバンドとなった。

[[2003年]]、シングル『{{lang|ro|Dragostea Din Tei}}』 (DDT) をリリース、{{lang|ro|Haiducii}}との争い(後述)の後にヨーロッパ全土を巻き込んで大ヒット、同年8月にリリースされたセカンドアルバム『{{lang|ro|DiscO-ZONE}}』も翌年夏に大ブレイクし、『{{lang|ro|Dragostea Din Tei}}』の軽快なリズムに乗ってO-Zoneはヨーロッパを席巻、モルドバのヒーローとなった。[[2004年]]冬にはシングル『{{lang|ro|De Ce Plang Chitarele?}}』をリリース。この曲は元々ルーマニアでかつてNorocと言うグループが歌いヒットした[[フォークソング]]だったが、これにDanが加筆して自分たちのアレンジで[[カヴァー]]したものである。さらにこの年、ルーマニアのラジオ局'''Pro FM'''とのタイアップで女性歌手'''{{lang|ro|Alexandra Ungureanu}}'''と『{{lang|ro|Radio Insearmna Prp FM}}』を歌っている。

しかし、ヨーロッパを席巻し、日本でもヒットの兆しが見え始めていた矢先の[[2005年]][[1月14日]]、突然'''[[解散]]'''を発表した。Danが[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、{{lang|ro|Lucas Prata}}という男性とO-Zoneの名で『MA-YA-HEE Song』(DDTに英語で新しい歌詞をつけた曲)をリリースしたことに反発した残りの2人に対し、Danが「今まで、作詞作曲プロデュース、全て自分でやってきた。O-Zoneはずっと俺のものだった。」「O-Zoneに今後はない。今このプロジェクトを終わらせているところだ。」と一方的に解散を宣言したのだ。

このことでDanを兄のように慕っていたArsenieはショックからか体調を崩してしまい[[入院]]、この時のインタビューで『知らないよ。そんなの信じられないし、もう興味ないよ。俺はもう二度とダンには会いたくないんだ。』『実を言うと、彼との事はもう既に過去のことになりつつある。もう、俺はダンのことなんて忘れたよ。もう、彼は俺の中には存在していないんだ。』とその悲痛な胸の内を語っている。そんな経緯もありDanは2人から孤立してしまったが、奇跡的に和解し、現在ではすっかり元の鞘に収まっている。日本では3月に『DiscO-ZONE』のリリースを控えていたため、発売元よりこの解散の事実が伏せられていた。

[[2005年]]3月、[[エイベックス・ミュージック・クリエイティヴ|エイベックス・ディストリビューション]]より日本盤のアルバム『DiscO-ZONE』をリリース。[[7月15日]]には来日してミュージックステーションに出演。[[8月22日]]付の[[オリコンチャート|オリコン]]総合アルバムチャートで発売24週目にして1位を獲得。海外アーティストのデビューアルバムの1位は、[[1972年]]の[[ポール・サイモン]]、[[2003年]]の[[t.A.T.u.]]、[[2004年]]の[[宇多田ヒカル|Utada]]に続いて史上4組目。[[2005年]][[12月1日]]、[[第47回日本レコード大賞]]特別賞を受賞。

2005年[[9月23日]]、ルーマニアの音楽イベント「[[チェルブル・デ・アウル国際音楽祭]]」にて最後のコンサートを敢行、『Despre Tine』『{{lang|ro|De Ce Plang Chitarele?}}』『{{lang|ro|Printre Nori}}』『{{lang|ro|Oriunde Ai Fi}}』『{{lang|ro|Dragostea Din Tei}}』を歌った。この模様はTVR internationalという放送局でインターネット放送で生中継され世界中のファンが彼等の最後の勇姿を見届けた。日本でも23日、[[秋分の日]]の早朝だったため多くのファンがファンサイトの特設チャットに集結、[[通信回線|回線]]の混雑に耐えながらその模様を見守った。さらに翌日には再放送もされたが、アクセス過多のため回線がパンクしてしまう事態が発生した。

2005年10月、解散コンサート後にも関わらず3人で来日、7日の『[[ミュージックステーション]]』、24日の『[[SMAP×SMAP]]』に出演している。この年の12月にまたもや来日し、『ミュージックステーション』や『[[とくばん]]』([[TBSテレビ|TBS]])などに出演。しかしRaduは、娘と迎える初めてのクリスマスの為か来日はしなかった。[[2007年]][[3月12日]]、O-Zoneが近々再結成するのではないか、という内容の記事がルーマニア語サイト「Revista Vip」に掲載された。2月に[[キシナウ]]のクラブにてArsenieとDanが面会していたため、これが噂の出所では、との声もある。

2017年5月、メンバー3人が再結集し、[[キシナウ]]と[[ブカレスト]]にてコンサートを行った。


2001年春、バランは3人組のユニット結成を計画、そんな中、彼の[[ボーカル]]の講師が音楽スクールの後輩である[[アルセニェ・トデラシュ]]を紹介した。トデラシュは歌を習い始めたばかりで時期尚早とも思われたが、将来性を信じたバランがグループにトデラシュを迎え入れた。この時ロシア訛りで話すトデラシュがオーディションで[[エルヴィス・プレスリー]]の「[[ラヴ・ミー・テンダー (エルヴィス・プレスリーの曲)|ラヴ・ミー・テンダー]]」を歌うと、[[ロシア語]]のアクセントが嫌いでロシア訛りが苦手だというバランだったが、彼の歌に嫌悪感は吹っ飛び「気にならない」と言ったそうである。少し経ち、バランはラドゥ・アレクセイ・スルブと出会う。バランは、スルブに対して[[ダンス]]の方向性に違いを感じていたがすぐにいい意味で固定されると思い、スルブを残り一人のメンバーに迎え入れ、ここに第2次O-Zoneは結成された。
== O-Zone vs Haiducii ==
『{{lang|ro|Dragostea Din Tei}}』(以下'''DDT''')がヨーロッパ中で大ヒットした裏には、ある女性歌手との壮絶なバトルがあった。


メンバーを揃えたバランはさっそく楽曲を用意し、まず『{{lang|ro|Numai Tu}}』『Number1』『{{lang|ro|Nopti fara de Somn}}』『{{lang|ro|Am sa te Chem}}』の4曲をレコーディング、2001年秋にシングル『{{lang|ro|Numai Tu}}』『Number1』をリリース、人気は上々だった。これを受けていよいよバランが望んだルーマニア進出に乗り出す。モルドバ人がルーマニアで成功した前例はなかったが、3人は成功を信じ、努力は惜しまなかった。資金が不足していたため、所有していたスタジオと[[シンセサイザー]]を売却した後に『{{lang|ro|Numai Tu}}』のプロモーション・ビデオを制作、この頃に『{{lang|ro|Sarbatoarea Noptilor de Vara}}』『{{lang|ro|Nu ma las de Limba Noastra}}』、さらに『{{lang|ro|Dar, Unde Eşti}}』をレコーディングしている。2002年春、ルーマニアの音楽大手「Media Services」と契約が決まり、8月に3人としてのファーストアルバム『Number1』を発売したものの、当初ルーマニアでは「モルドバの新しいバンド」としか受け止められていなかったためか、ラジオでもなかなか取り上げられずに苦戦した。そこで同年秋には、このアルバムの中から『Despre Tine』をシングルカットして発売、「覚えやすくて面白い」をテーマにプロモーション・ビデオも制作されるとこれがルーマニアでは数十年ぶりという大ヒットを記録、5か月以上に渡ってヒットを続け、多くの老若男女が口ずさむほどの人気曲となり、それに乗じてアルバム『Number1』も10万枚を超えるメガヒット。O-ZONEは一躍ルーマニアNo.1のバンドとなった。
2003年秋、[[イタリア]]のダンスミュージック専門会社ウニヴェルソ・レーベルの社長はある日、移動中の車内でルーマニア出身の運転手がカセットに入れて車に乗せていたDDTを初めて聴き、この曲は大ヒットすると確信した。ウニヴェルソ・レーベルには{{lang|ro|Haiducii}}というルーマニア系の女性歌手が所属していた。彼女は元ミス・ブカレストでルーマニア語も片言ながら話せたために社長はDDTを彼女に歌わせることにした。{{lang|ro|Haiducii}}のDDTは発売と同時にイタリアで大ヒットを記録したが、オリジナルを歌うO-Zoneはこれを訴える法的手段がなかった上ちょうど英語版DDT(MA-YA-HEE Songとは全くの別物)をひっさげてヨーロッパ進出をしようとしながら上手くいっていなかったこともあり当然不満をあらわにした。


2003年、シングル『[[恋のマイアヒ]]』を発売し、ヨーロッパ全土を巻き込んで大ヒット、同年8月にリリースされたセカンドアルバム『{{lang|ro|DiscO-ZONE}}』も翌年夏に大ブレイクし、『{{lang|ro|Dragostea Din Tei}}』の軽快なリズムに乗ってO-Zoneはヨーロッパを席巻、モルドバのヒーローとなった。2004年冬にはシングル『{{lang|ro|De Ce Plang Chitarele?}}』をリリース。この曲は元々ルーマニアでかつてNorocと言うグループが歌いヒットした[[フォークソング]]だったが、これにバランが加筆して自分たちのアレンジで[[カヴァー]]したものである。さらにこの年、ルーマニアのラジオ局であるPro FMとのタイアップで女性歌手であるアレクサンドラ・ウングレアヌと『{{lang|ro|Radio Insearmna Prp FM}}』を歌っている。
ちょうどその頃、イタリアのタイムレコードがこのヒットにあやかって二匹目ドジョウを狙うべく、DDTを歌う歌手を捜していた。そんな中タイム社の社員が[[カンヌ]]の音楽商談会『[[MIDEM]]』の展示場でルーマニアの同業者と出会い、{{lang|ro|Haiducii}}のバージョンが悪質コピーだったことを知った。そして同時にオリジナルの方はどことも契約を結んでいないと知り、さっそくO-Zoneと契約、DDTをヨーロッパに売り出すキャンペーンを始めていた{{lang|ro|Haiducii}}に原曲を持って真っ向から勝負を挑んだ。


しかし、ヨーロッパを席巻し、日本でもヒットの兆しが見え始めていた矢先の2005年1月14日、突然解散を発表した。バランが[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、ハウス歌手でDJの{{仮リンク|ルーカス・プラータ|en|Lucas Prata}}とO-Zoneの名で『MA-YA-HEE Song』(DDTに英語で新しい歌詞をつけた曲)をリリースしたことに反発した残りの2人に対し、バランが「今まで、作詞作曲プロデュース、全て自分でやってきた。O-Zoneはずっと俺のものだった。」「O-Zoneに今後はない。今このプロジェクトを終わらせているところだ。」と一方的に解散を宣言したのだ。
イタリアでは時すでに遅しと言ったところで、O-Zoneは{{lang|ro|Haiducii}}に勝てなかったが、隣のフランスでは壮絶なバトルを繰り広げた。インディーズ・レーベルのハリーミュージックが両方のバージョンを発売、社長のピエール・フォルガは「{{lang|ro|Haiducii}}はイタリアでNo.1になりました。イタリア市場の動向は、フランスでのダンス系のヒットに影響を与えることがよくあります。しかしO-Zoneのあのキッチュなビデオ・クリップを見たとき、私はすぐさま夢中になってしまいました」と語った。そして{{lang|ro|Haiducii}}、O-Zone間で抜きつ抜かれつの壮絶なバトルが展開された。ある放送局はO-Zone、別のある放送局は{{lang|ro|Haiducii}}を流し続けた。しかしO-Zoneにはフランスの青少年に絶大な支持を受けて、流行の発信源となっている[[DJ]]セバスティアン・コエが味方に付き、彼が毎朝ラジオでO-ZoneのDDTを流し続けたことが功を奏し、O-Zoneは見事No.1ヒットを獲得して勝利したのだ。[[フランス]]でNo.1ヒットを獲得したO-ZoneのDDTは勢いに乗ってヨーロッパ全土を席巻、[[ロシア]]でも大ヒット、日本でもその後ヒットしているのは周知の通りである。その後Danは「{{lang|ro|Haiducii}}のコピーがなかったら、ヨーロッパで名を挙げることはたぶん、きっとできなかったと思う」と語っている。O-Zoneは英語のバージョン(先述の『MA-YA-HEE Song』とは全くの別物)を用意していて、ルーマニア語のオリジナルが外国語圏で売れるなど想像だにしていなかったのだ。


このことでバランを兄のように慕っていたトデラシュはショックからか体調を崩してしまい入院、この時のインタビューで「知らないよ。そんなの信じられないし、もう興味ないよ。俺はもう二度とダンには会いたくないんだ。」「実を言うと、彼とのことはもう既に過去のことになりつつある。もう、俺はダンのことなんて忘れたよ。もう、彼は俺の中には存在していないんだ。」とその悲痛な胸の内を語っている。そんな経緯もありバランは2人から孤立してしまったが、奇跡的に和解し、現在ではすっかり元の鞘に収まっている。日本では3月に『DISCO-ZONE 〜恋のマイアヒ〜』のリリースを控えていたため、発売元よりこの解散の事実が伏せられていた。
== DiscO-ZONE ==
2004年夏、「マイアヒー、マイアフー」という独特のフレーズから始まる「{{lang|ro|Dragostea Din Tei}}」が、ルーマニア語(モルドバ語)の不思議な響きの魅力(「{{lang|ro|Dragostea Din Tei}}」でいうところの「{{lang|ro|Nu [[:wikt:en:mă|mă]] Iei}}(僕を連れて行かない)」「{{lang|ro|Tei}}([[セイヨウボダイジュ|菩提樹]])」と「{{lang|ro|Tăi}}(君の)」のようなルーマニア語独特の韻の踏み方もその一つ)もあって、[[ヨーロッパ]]中で大ヒット。ドイツ、スペイン、フランス、イタリアなど15ヶ国のチャートで1位を記録する。


2005年3月、[[エイベックス・ミュージック・クリエイティヴ|エイベックス・ディストリビューション]]より日本盤のアルバム『DISCO-ZONE 〜恋のマイアヒ〜』をリリース。アルバムは8月22日付の[[オリコンチャート|オリコン]]総合アルバムチャートで発売24週目にして1位を獲得<ref name="oricon 20050816">{{cite web2 |df= ja |title= O-ZONE、24週目で初のNo.1獲得!! |url= https://www.oricon.co.jp/news/4544/ |website= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2005-08-16 |accessdate= 2024-08-06 }}</ref>。海外アーティストのデビューアルバムの1位は、1972年の[[ポール・サイモン]]、2003年の[[t.A.T.u.]]、2004年の[[宇多田ヒカル|Utada]]に続いて史上4組目{{R|oricon 20050816}}。2005年12月1日、[[第47回日本レコード大賞]]特別賞を受賞<ref>{{cite web2 |title= 第47回日本レコード大賞 |url= https://www.jacompa.or.jp/record/47.php |publisher= 日本作曲家協会 |accessdate= 2024-08-06 }}</ref>。
曲の内容は、自分を捨てた恋人に電話するとても切ない物となっている。本来は直訳すると「[[セイヨウボダイジュ|菩提樹]]の下の恋」であるが、日本ではレコード会社により付けられた[[邦題]]は、全く意味上のつながりを持たない「恋のマイアヒ」「恋の呪文はマイアヒ・マイアフ」となってしまった上、3曲目に収録されていたこの曲がアルバムコンセプトを無視して1曲目に移されてしまった。本来はイントロにDJ風に自分たちの紹介が入る「Fiesta de la Noche(夜の祭)」が祭りの幕が開くがごとく先頭に収録されている。


2005年9月23日、ルーマニアの音楽イベント「[[チェルブル・デ・アウル国際音楽祭]]」にて最後のコンサートを敢行、『Despre Tine』『{{lang|ro|De Ce Plang Chitarele?}}』『{{lang|ro|Printre Nori}}』『{{lang|ro|Oriunde Ai Fi}}』『{{lang|ro|Dragostea Din Tei}}』を歌った。この模様はTVR internationalという放送局でインターネット放送で生中継され世界中のファンが彼らの最後の勇姿を見届けた。日本でも23日、[[秋分の日]]の早朝だったため多くのファンがファンサイトの特設チャットに集結、[[通信回線|回線]]の混雑に耐えながらその模様を見守った。さらに翌日には再放送もされたが、アクセス過多のため回線がパンクしてしまう事態が発生した。
== 日本におけるO-Zoneの扱われ方 ==
日本においても、2004年ごろから[[名古屋市|名古屋]]のラジオ局[[ZIP-FM]]が[[ヘヴィー・ローテーション]]したことなどにより、知名度が上がりはじめた。なお、ZIP-FMのチャートでは2004年[[10月10日]]に初の1位を獲得して以後、2ヶ月近くにわたって1位を独占した上、1年近くたった[[2005年]]夏でもチャートインしていた。


2005年10月、解散コンサート後にも関わらず3人で来日、7日の『[[ミュージックステーション]]』、24日の『[[SMAP×SMAP]]』に出演している。この年の12月にまたもや来日し、『ミュージックステーション』や『[[とくばん]]』([[TBSテレビ|TBS]])などに出演。しかしスルブは、娘と迎える初めてのクリスマスのためか来日はしなかった。2007年3月12日、O-Zoneが近々再結成するのではないか、という内容の記事がルーマニア語サイト「Revista Vip」に掲載された。2月に[[キシナウ]]のクラブにてトデラシュとバランが面会していたため、これが噂の出所では、との声もある。
更には「[[SMAP×SMAP]]」の「ホストマンブルース」のコーナーで取り上げられることで知名度は飛躍的に拡大し、ついには社会現象とまで呼ばれるようになった。2005年[[7月]]には「ミュージックステーション」に緊急生出演もしたが、Raduはちょうど妻の[[出産]]と重なってしまったため、DanとArsenieのみで出演した。だが、実際には来日より二週間ほど前にメンバーのオフィシャルサイトで誕生の知らせが既に公表されていたため、出演依頼を断ったのではという声もある。


2017年5月、メンバー3人が再結集し、[[キシナウ]]と[[ブカレスト]]にてコンサートを行った<ref>{{cite web2 |last= Marica |first= Irina |date= 2017-05-08 |title= Famous Moldovan pop band reunites after 12 years for Europe Day concert in Bucharest |url= https://www.romania-insider.com/europe-day-celebrated-concerts-downtown-bucharest |work= Romania Insider |accessdate= 2024-08-06 }}</ref>。
なお、日本版『DiscO-ZONE』の曲名のカタカナ表記にはかなり間違いが多い。例えば、3曲目の「{{lang|ro|De ce Plang Chitarele?}}」は「デ・セ・プラン・チタレーレ」と表記されているが、ルーマニア語での実際の発音をカタカナで表記すると「デ・チェ・プルン(グ)・[[ギター|キタレーレ]]」に近くなる。


2024年6月7日、同月15日から9月6日にかけてヨーロッパツアーを開催することを発表<ref>{{cite instagram |user= arsenium_official |author= ARSENIUM |postid= C76nr6riStF |title= ⭕️-Z⭕️NE - 2024 - Deja Vu Festival . |date= 2024-06-07 |accessdate= 2024-08-06 }}</ref>。
そして、歌詞カードに記されている1曲目の「{{lang|ro|Dragostea Din Tei}}」の歌詞は、実はUS盤DiscO-ZONEのボーナストラックである''Ma Ya Hee''(Dragostea Din TeiのEnglish.ver)の歌詞なのである。このEnglish.verの内容は[[ルーマニア語]]で歌われているオリジナルの歌詞とはまったく異なるものである上、O-Zone解散の直接的原因と言われる曲のものであるため大きな問題となっている。


== メンバー ==
[[エイベックス・グループ|エイベックス]]が、あくまでも「{{lang|ro|Nu Mă, Nu Mă Iei}}」に意味がないように思わせたり(実際は「僕を、僕を連れて行ってはくれない」という意味がしっかり存在している)、「恋のマイアヒ」を英語に訳すと"Words of love"になるようにしたこと、また日本ではO-Zoneの本来の姿がほとんど[[マスメディア]]によって語られていないことから、日本で純粋にO-Zoneを愛しているファン達からは、こうしたavexの売り出し方に批判的な意見が多数噴出した。その後ファン達はルーマニアの公式サイトなどから情報を集めて独自のファンサイトを作り上げるまでに至った。なお、[[2007年]][[6月1日]]放送の「[[探偵!ナイトスクープ]]」では、再び彼らの(マイアヒとは別の)空耳ソングが取り上げられていた。
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== ディスコグラフィー ==
== ディスコグラフィー ==
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* {{lang|ro|Number1(2001年)}}
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* {{lang|ro|De Ce Plâng Chitarele?(2004年)}}
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== 関連項目 ==
== 脚注 ==
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* [[恋のマイアヒ]](原題:''{{lang|ro|Dragostea din tei}}'')
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.o-zone.go.ro/ O-Zone公式サイト]([[ルーマニア語]]、[[英語]])
* [http://www.o-zone.go.ro/ O-Zone公式サイト]([[ルーマニア語]]、[[英語]])
* [http://artists.universal-music.de/ozone/ O-Zone公式サイト]([[ドイツ語]] 「Dragostea Din Tei」の公式PVを見ることができる)
* [http://artists.universal-music.de/ozone/ O-Zone公式サイト]([[ドイツ語]] 「Dragostea Din Tei」の公式PVを見ることができる)
* [http://www.crazy-loop.com/ Crazy Loop公式サイト](英語)
* [http://www.radusirbu.ro/ RadU公式サイト](英語)
* [http://www.radusirbu.de/ RadU公式サイト](ドイツ語)
* [http://www.arsenie.net/ Arsenium公式サイト](英語)


{{日本ゴールドディスク大賞アーティスト・オブ・ザ・イヤー}}
{{日本ゴールドディスク大賞アーティスト・オブ・ザ・イヤー}}

2024年8月6日 (火) 06:26時点における最新版

O-Zone
出身地 モルドバの旗 モルドバ キシナウ
ジャンル ユーロダンス[1]
活動期間
  • 1999年 - 2005年
  • 2017年
  • 2019年 - 2020年
  • 2024年 -
レーベル
公式サイト オゾン 公式サイト
メンバー アルセニェ・トデラシュ
旧メンバー

O-Zone(オゾン)は、モルドバ共和国出身のルーマニア音楽グループ。名前はダン・バランが友人であるペトル・イェリホフスキ (Petru Jelihovski) とグループを結成したときにバランの計画「Dan Bălan Project:0-Zone」(ゼロから始めるということから0-Zoneと名がついたと言われる)がそのままグループ名となった。イェリホフスキが抜けてラドゥ・アレクセイ・スルブRadu Alexei Sîrbu、 ルーマニア式綴りではSârbu) とアルセニェ・トデラシュ (Arsenie Toderaş) が加入した新しいグループにもその名前が継続された。

歴史

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1999年、ダン・バランとその友人であるペトル・イェリホフスキの2名で結成。モルドバ国内で、アルバム『Dar, Unde Eşti』からタイトル曲の他ファーストシングルの『Timpul Trece fara Noi』、『Fiesta de la Noche』『Crede-ma』など7曲のメガヒットを生み出す前代未聞の快挙を達成する。しかし、作詞作曲を担当し音楽を真剣に考えるバランはルーマニアでの活動を希望、あくまで音楽を趣味と考えるイェリホフスキとの対立が表面化し、二人は袂を分かつがその後も友人関係は続いている。

2001年春、バランは3人組のユニット結成を計画、そんな中、彼のボーカルの講師が音楽スクールの後輩であるアルセニェ・トデラシュを紹介した。トデラシュは歌を習い始めたばかりで時期尚早とも思われたが、将来性を信じたバランがグループにトデラシュを迎え入れた。この時ロシア訛りで話すトデラシュがオーディションでエルヴィス・プレスリーの「ラヴ・ミー・テンダー」を歌うと、ロシア語のアクセントが嫌いでロシア訛りが苦手だというバランだったが、彼の歌に嫌悪感は吹っ飛び「気にならない」と言ったそうである。少し経ち、バランはラドゥ・アレクセイ・スルブと出会う。バランは、スルブに対してダンスの方向性に違いを感じていたがすぐにいい意味で固定されると思い、スルブを残り一人のメンバーに迎え入れ、ここに第2次O-Zoneは結成された。

メンバーを揃えたバランはさっそく楽曲を用意し、まず『Numai Tu』『Number1』『Nopti fara de Somn』『Am sa te Chem』の4曲をレコーディング、2001年秋にシングル『Numai Tu』『Number1』をリリース、人気は上々だった。これを受けていよいよバランが望んだルーマニア進出に乗り出す。モルドバ人がルーマニアで成功した前例はなかったが、3人は成功を信じ、努力は惜しまなかった。資金が不足していたため、所有していたスタジオとシンセサイザーを売却した後に『Numai Tu』のプロモーション・ビデオを制作、この頃に『Sarbatoarea Noptilor de Vara』『Nu ma las de Limba Noastra』、さらに『Dar, Unde Eşti』をレコーディングしている。2002年春、ルーマニアの音楽大手「Media Services」と契約が決まり、8月に3人としてのファーストアルバム『Number1』を発売したものの、当初ルーマニアでは「モルドバの新しいバンド」としか受け止められていなかったためか、ラジオでもなかなか取り上げられずに苦戦した。そこで同年秋には、このアルバムの中から『Despre Tine』をシングルカットして発売、「覚えやすくて面白い」をテーマにプロモーション・ビデオも制作されるとこれがルーマニアでは数十年ぶりという大ヒットを記録、5か月以上に渡ってヒットを続け、多くの老若男女が口ずさむほどの人気曲となり、それに乗じてアルバム『Number1』も10万枚を超えるメガヒット。O-ZONEは一躍ルーマニアNo.1のバンドとなった。

2003年、シングル『恋のマイアヒ』を発売し、ヨーロッパ全土を巻き込んで大ヒット、同年8月にリリースされたセカンドアルバム『DiscO-ZONE』も翌年夏に大ブレイクし、『Dragostea Din Tei』の軽快なリズムに乗ってO-Zoneはヨーロッパを席巻、モルドバのヒーローとなった。2004年冬にはシングル『De Ce Plang Chitarele?』をリリース。この曲は元々ルーマニアでかつてNorocと言うグループが歌いヒットしたフォークソングだったが、これにバランが加筆して自分たちのアレンジでカヴァーしたものである。さらにこの年、ルーマニアのラジオ局であるPro FMとのタイアップで女性歌手であるアレクサンドラ・ウングレアヌと『Radio Insearmna Prp FM』を歌っている。

しかし、ヨーロッパを席巻し、日本でもヒットの兆しが見え始めていた矢先の2005年1月14日、突然解散を発表した。バランがアメリカに渡り、ハウス歌手でDJのルーカス・プラータ英語版とO-Zoneの名で『MA-YA-HEE Song』(DDTに英語で新しい歌詞をつけた曲)をリリースしたことに反発した残りの2人に対し、バランが「今まで、作詞作曲プロデュース、全て自分でやってきた。O-Zoneはずっと俺のものだった。」「O-Zoneに今後はない。今このプロジェクトを終わらせているところだ。」と一方的に解散を宣言したのだ。

このことでバランを兄のように慕っていたトデラシュはショックからか体調を崩してしまい入院、この時のインタビューで「知らないよ。そんなの信じられないし、もう興味ないよ。俺はもう二度とダンには会いたくないんだ。」「実を言うと、彼とのことはもう既に過去のことになりつつある。もう、俺はダンのことなんて忘れたよ。もう、彼は俺の中には存在していないんだ。」とその悲痛な胸の内を語っている。そんな経緯もありバランは2人から孤立してしまったが、奇跡的に和解し、現在ではすっかり元の鞘に収まっている。日本では3月に『DISCO-ZONE 〜恋のマイアヒ〜』のリリースを控えていたため、発売元よりこの解散の事実が伏せられていた。

2005年3月、エイベックス・ディストリビューションより日本盤のアルバム『DISCO-ZONE 〜恋のマイアヒ〜』をリリース。アルバムは8月22日付のオリコン総合アルバムチャートで発売24週目にして1位を獲得[2]。海外アーティストのデビューアルバムの1位は、1972年のポール・サイモン、2003年のt.A.T.u.、2004年のUtadaに続いて史上4組目[2]。2005年12月1日、第47回日本レコード大賞特別賞を受賞[3]

2005年9月23日、ルーマニアの音楽イベント「チェルブル・デ・アウル国際音楽祭」にて最後のコンサートを敢行、『Despre Tine』『De Ce Plang Chitarele?』『Printre Nori』『Oriunde Ai Fi』『Dragostea Din Tei』を歌った。この模様はTVR internationalという放送局でインターネット放送で生中継され世界中のファンが彼らの最後の勇姿を見届けた。日本でも23日、秋分の日の早朝だったため多くのファンがファンサイトの特設チャットに集結、回線の混雑に耐えながらその模様を見守った。さらに翌日には再放送もされたが、アクセス過多のため回線がパンクしてしまう事態が発生した。

2005年10月、解散コンサート後にも関わらず3人で来日、7日の『ミュージックステーション』、24日の『SMAP×SMAP』に出演している。この年の12月にまたもや来日し、『ミュージックステーション』や『とくばん』(TBS)などに出演。しかしスルブは、娘と迎える初めてのクリスマスのためか来日はしなかった。2007年3月12日、O-Zoneが近々再結成するのではないか、という内容の記事がルーマニア語サイト「Revista Vip」に掲載された。2月にキシナウのクラブにてトデラシュとバランが面会していたため、これが噂の出所では、との声もある。

2017年5月、メンバー3人が再結集し、キシナウブカレストにてコンサートを行った[4]

2024年6月7日、同月15日から9月6日にかけてヨーロッパツアーを開催することを発表[5]

メンバー

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ディスコグラフィー

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アルバム(2人組時代のものも含む)

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Dar, Unde Eşti(1999年:2人組時代の作品)

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  • 1.Fiesta de la Noche
  • 2.Timpul Trece fără Noi(この曲はO-ZONEのファーストシングル)
  • 3.M-aş Trezi
  • 4.Te Voi Iubi
  • 5.Dar, Unde Eşti
  • 6.Te Aştept
  • 7.Crede-mă
  • 8.În doi
  • 9.De la Mine
  • 10.Ciao Bambina
  • 11.Oriunde-ai fi
  • 12.În doi (minus)
  • 13.Surpriză de Anul nou (Sărbătorile de Iarnă)

Number1(2002年:3人組としてのファーストアルバム)

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  • 1.Numai tu
  • 2.Dar, unde Eşti
  • 3.Sărbătoarea Nopţilor de Vară
  • 4.Number1
  • 5.Nopţi fără de Somn
  • 6.Am să te Chem
  • 7.Nu mă las de Limba Noastră
  • 8.Number1 (Funny version)
  • 9.Despre Tine
  • 10.VIP

DiscO-ZONE(2003年)

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  • 1.Fiesta de La Noche
  • 2.De Ce Plâng Chitarele?
  • 3.Dragostea Din Tei
  • 4.Printre Nori
  • 5.Oriunde Ai Fi
  • 6.Numai Tu
  • 7.Dar, Unde Eşti
  • 8.Despre Tine
  • 9.Sărbătoarea Nopţior de Vară
  • 10.Nu Mă Las de Limba Noastră
  • 11.Crede-Mă

シングル(3人として発売したもののみ)

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  • Numai Tu(2001年)
  • Number1(2001年)
  • Despre Tine(2002年)
  • Dragostea Din Tei(2003年)
  • De Ce Plâng Chitarele?(2004年)

脚注

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  1. ^ O-Zone Biography & History - オールミュージック. 2020年12月26日閲覧。
  2. ^ a b "O-ZONE、24週目で初のNo.1獲得!!". ORICON NEWS. oricon ME. 2005年8月16日. 2024年8月6日閲覧
  3. ^ "第47回日本レコード大賞". 日本作曲家協会. 2024年8月6日閲覧
  4. ^ Marica, Irina (8 May 2017). "Famous Moldovan pop band reunites after 12 years for Europe Day concert in Bucharest". Romania Insider. 2024年8月6日閲覧
  5. ^ ARSENIUM [@arsenium_official] (2024年6月7日). "⭕️-Z⭕️NE - 2024 - Deja Vu Festival ". Instagramより2024年8月6日閲覧

外部リンク

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