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インド南端[[カンニヤークマリ]]港に近年建てられた、箴言詩集『[[ティルックラル]]』でタミル文学を代表する[[ティルヴァッルヴァル]]の巨像。]] |
インド南端[[カンニヤークマリ]]港に近年建てられた、箴言詩集『[[ティルックラル]]』でタミル文学を代表する[[ティルヴァッルヴァル]]の巨像。]] |
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[[ファイル:Vishnu image inside cave number 3 in Badami.jpg|thumb|200px|right|[[前期チャールキヤ朝]]。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。]] |
[[ファイル:Vishnu image inside cave number 3 in Badami.jpg|thumb|200px|right|[[前期チャールキヤ朝]]。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。]] |
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[[ファイル:Bodhidharma.and.Huike-Sesshu.Toyo.jpg|thumb|right|180px|[[禅宗]]の祖師[[達磨]]。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は[[雪舟 |
[[ファイル:Bodhidharma.and.Huike-Sesshu.Toyo.jpg|thumb|right|180px|[[禅宗]]の祖師[[達磨]]。仏教の保護者として有名な[[梁 (南朝)|梁]]の[[蕭衍|武帝]]との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は[[雪舟]]の『[[慧可断臂図]]』。]] |
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[[ファイル:Xiao Hui - eastern bixie, seen from S - P1070581.JPG|thumb|250px|right|[[六朝]]の都[[建康 (都城)|建康]]。現在の[[南京]]であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟[[蕭恢]]の墓を守る辟邪の石刻。]] |
[[ファイル:Xiao Hui - eastern bixie, seen from S - P1070581.JPG|thumb|250px|right|[[六朝]]の都[[建康 (都城)|建康]]。現在の[[南京]]であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟[[蕭恢]]の墓を守る辟邪の石刻。]] |
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[[ファイル:Sui Wendi Tang.jpg|thumb|200px|right|[[隋]]の[[楊堅|文帝]]。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。[[閻立本]]の「歴代帝王図巻([[ボストン美術館]]蔵)」に描かれた隋の文帝。]] |
[[ファイル:Sui Wendi Tang.jpg|thumb|200px|right|[[隋]]の[[楊堅|文帝]]。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。[[閻立本]]の「歴代帝王図巻([[ボストン美術館]]蔵)」に描かれた隋の文帝。]] |
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[[File:Takehara kofun.png|thumb|225px|right|九州の[[装飾古墳]]。古墳時代後期には九州で独特な古墳が展開した。画像は[[福岡県]][[宮若市]]諏訪神社の境内から発見された[[竹原古墳]]の[[横穴式石室]]に描かれた装飾絵画で、馬を引いた人物や竜が特徴的である。]] |
[[File:Takehara kofun.png|thumb|225px|right|九州の[[装飾古墳]]。古墳時代後期には九州で独特な古墳が展開した。画像は[[福岡県]][[宮若市]]諏訪神社の境内から発見された[[竹原古墳]]の[[横穴式石室]]に描かれた装飾絵画で、馬を引いた人物や竜が特徴的である。]] |
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[[File:Shikishima-no-Kanasashi-no-Miya.jpg|thumb|250px|right|[[仏教公伝]]。日本に仏教が伝わったのは『[[上宮聖徳法王帝説]]』などの[[538年]]([[宣化天皇]]3年)、『[[日本書紀]]』の[[552年]]([[欽明天皇]]13年)の二説があるが、6世紀であることは間違いない。画像は欽明天皇の磯城嶋金刺宮伝承地([[奈良県]][[桜井市]])に建てられた宮殿の址の石碑と、並び立つ仏教公伝の碑。]] |
[[File:Shikishima-no-Kanasashi-no-Miya.jpg|thumb|250px|right|[[仏教公伝]]。日本に仏教が伝わったのは『[[上宮聖徳法王帝説]]』などの[[538年]]([[宣化天皇]]3年)、『[[日本書紀]]』の[[552年]]([[欽明天皇]]13年)の二説があるが、6世紀であることは間違いない。画像は欽明天皇の磯城嶋金刺宮伝承地([[奈良県]][[桜井市]])に建てられた宮殿の址の石碑と、並び立つ仏教公伝の碑。]] |
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[[File:백제 금동대향로.jpg|thumb|200px|right|[[扶余]]時代の[[百済]]。朝鮮半島南西部の百済が[[扶余]]に遷都したのは538年のことである。以来この地に独特で繊細な造形文化が発達した。画像は扶余陵山里から出土した「{{仮リンク|百済金銅香炉|en|Gilt-bronze Incense Burner of Baekje}}([[国立扶余博物館]]蔵)」。]] |
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[[File:Huaca de la Luna Août 2007 - Peintures 3.jpg|thumb|right|250px|[[モチェ文化]]。ペルー北部海岸地帯に成立した文化で、紀元前1世紀から紀元後7世紀まで続くが、6世紀半ば以降には急速に衰退した。画像はトルヒーヨ近郊にある「太陽のワカ、月のワカ」の神殿基壇部レリーフに極彩色で描かれた最高神アイアパエクの像。]] |
[[File:Huaca de la Luna Août 2007 - Peintures 3.jpg|thumb|right|250px|[[モチェ文化]]。ペルー北部海岸地帯に成立した文化で、紀元前1世紀から紀元後7世紀まで続くが、6世紀半ば以降には急速に衰退した。画像はトルヒーヨ近郊にある「太陽のワカ、月のワカ」の神殿基壇部レリーフに極彩色で描かれた最高神アイアパエクの像。]] |
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[[ファイル:Mausoleum of Theodoric (Ravenna) - Exterior.jpg|サムネイル|266x266ピクセル|[[東ゴート王国]]の盛衰。[[オドアケル]]を倒した東ゴート王[[テオドリック]]のもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像は[[ラヴェンナ]]にある[[テオドリック廟]]。]] |
[[ファイル:Mausoleum of Theodoric (Ravenna) - Exterior.jpg|サムネイル|266x266ピクセル|[[東ゴート王国]]の盛衰。[[オドアケル]]を倒した東ゴート王[[テオドリック]]のもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像は[[ラヴェンナ]]にある[[テオドリック廟]]。]] |
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[[ファイル:RossanoGospelsChristBeforePilate.jpg|thumb|200px|right|『 |
[[ファイル:RossanoGospelsChristBeforePilate.jpg|thumb|200px|right|『{{仮リンク|ロッサーノの福音書|en|Rossano Gospels}}』。[[古代末期]]の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。現在は{{仮リンク|ロッサーノ聖堂|en|Rossano Cathedral}}[[教区]]博物館が所蔵する。]] |
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[[ファイル:Mother of God (portrayed as a Byzantine empress).jpg|thumb|200px|right|エジプトの[[コプト正教会]]。歴代東ローマ皇帝の妥協にもかかわらず、エジプトでは[[非カルケドン派正教会]]が主流派であり、この時期には帝国からの分離傾向が強まった。画像は6世紀に作られた[[コプト|コプト織]]でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている([[クリーブランド美術館]]蔵)。]] |
[[ファイル:Mother of God (portrayed as a Byzantine empress).jpg|thumb|200px|right|エジプトの[[コプト正教会]]。歴代東ローマ皇帝の妥協にもかかわらず、エジプトでは[[非カルケドン派正教会]]が主流派であり、この時期には帝国からの分離傾向が強まった。画像は6世紀に作られた[[コプト|コプト織]]でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている([[クリーブランド美術館]]蔵)。]] |
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[[File:The Antioch "Chalice" MET DT113.jpg|thumb|right|200px|[[アンティオキア]]の繁栄と凋落。東ローマ帝国シリアの要衝であり、[[総主教]]座が置かれたのがアンティオキアである。しかしこの都市も526年の大地震で多数の死傷者が出て、以後かつての賑わいは戻らなかった。画像はこの世紀前半に作られた鍍金銀細工「{{仮リンク|アンティオキアの聖杯|en|Antioch chalice}}」([[メトロポリタン美術館]]蔵)。]] |
[[File:The Antioch "Chalice" MET DT113.jpg|thumb|right|200px|[[アンティオキア]]の繁栄と凋落。東ローマ帝国シリアの要衝であり、[[総主教]]座が置かれたのがアンティオキアである。しかしこの都市も526年の大地震で多数の死傷者が出て、以後かつての賑わいは戻らなかった。画像はこの世紀前半に作られた鍍金銀細工「{{仮リンク|アンティオキアの聖杯|en|Antioch chalice}}」([[メトロポリタン美術館]]蔵)。]] |
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[[File:Beit Alpha.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|ベイト・アルファ遺跡|en|Beth Alpha}}。現在のイスラエル北部にあるユダヤ教の[[シナゴーグ]]の遺跡。画像は東ローマ帝国支配の時代に作られた床面の[[モザイク画]]で黄道帯(ゾディアック)の輪が十二宮の象徴を伴って描かれている。]] |
[[File:Beit Alpha.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|ベイト・アルファ遺跡|en|Beth Alpha}}。現在のイスラエル北部にあるユダヤ教の[[シナゴーグ]]の遺跡。画像は東ローマ帝国支配の時代に作られた床面の[[モザイク画]]で黄道帯(ゾディアック)の輪が十二宮の象徴を伴って描かれている。]] |
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[[File:Helgö Buddha 18137.jpg|thumb|right|200px|北欧の仏像。[[スカンディナヴィア半島]]南部では[[メーラレン湖]]周辺に多くの砦が築かれ、他地域との経済交流が行われた。画像はメーラレン湖の湖島の |
[[File:Helgö Buddha 18137.jpg|thumb|right|200px|北欧の仏像。[[スカンディナヴィア半島]]南部では[[メーラレン湖]]周辺に多くの砦が築かれ、他地域との経済交流が行われた。画像はメーラレン湖の湖島の[[ヘリウー島]]から出土した6世紀ごろに北インドで作られた青銅の仏像([[スウェーデン国立歴史博物館]]蔵)。]] |
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'''6世紀'''(ろくせいき)とは、[[西暦]][[501年]]から西暦[[600年]]までの100年間を指す[[世紀]]。 |
'''6世紀'''(ろくせいき)とは、[[西暦]][[501年]]から西暦[[600年]]までの100年間を指す[[世紀]]。 |
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* 507年 |
* 507年 |
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** 応神天皇の5世の子孫とされる男大迹王が[[河内国]][[樟葉宮]]にて[[治天下大王]]に即位。 |
** 応神天皇の5世の子孫とされる男大迹王が[[河内国]][[樟葉宮]]にて[[治天下大王]]に即位。 |
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*** 後に[[奈良時代]]に至り「[[継体天皇]]」の[[ |
*** 後に[[奈良時代]]に至り「[[継体天皇]]」の[[漢風諡号]]が撰進される。 |
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** [[鍾離の戦い]]で、梁が北魏に勝利する。 |
** [[鍾離の戦い]]で、梁が北魏に勝利する。 |
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** [[ヴイエの戦い]]でフランク王国が西ゴート王国に勝利。西ゴート王国は南ガリアの領土を喪失。 |
** [[ヴイエの戦い]]でフランク王国が西ゴート王国に勝利。西ゴート王国は南ガリアの領土を喪失。 |
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=== 510年代 === |
=== 510年代 === |
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{{main|510年代}} |
{{main|510年代}} |
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* 510年代 - [[エフタル]]のトラマーナ王と続くミヒラクラ王が[[インド]]にたびたび侵入する。 |
* 510年代 - [[エフタル]]のトラマーナ王と続く{{仮リンク|ミヒラクラ|en|Mihirakula}}王が[[インド]]にたびたび侵入する。 |
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** インドに定着したミヒラクラ王により大規模な[[インドにおける仏教の弾圧]](破仏)が行われる。 |
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* 511年 |
* 511年 |
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** フランク国王クロヴィス1世が死去し、領土は[[ソワソン]]・[[パリ]]・[[ランス]]・[[オルレアン]]の各王国に分割される。 |
** フランク国王クローヴィス1世が死去し、領土は[[ソワソン]]・[[パリ]]・[[ランス (マルヌ県)|ランス]]・[[オルレアン]]の各王国に分割される。 |
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** 西ゴート国王[[アマラリック]]が即位。外祖父の東ゴート王[[テオドリック]]が摂政となり、両ゴート王国を統治。 |
** 西ゴート国王[[アマラリック]]が即位。外祖父の東ゴート王[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]が摂政となり、両ゴート王国を統治。 |
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** 梁の武帝が僧侶に向けて「断酒肉文」を布告。 |
** 梁の武帝が僧侶に向けて「断酒肉文」を布告。 |
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* 512年 |
* 512年 |
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* 523年 |
* 523年 |
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** 北魏で[[六鎮の乱]]が起こる。 |
** 北魏で[[六鎮の乱]]が起こる。 |
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** 百済の[[武寧王]]が死去し、[[聖王]]が即位。 |
** 百済の[[武寧王]]が死去し、[[聖王 (百済)|聖王]]が即位。 |
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*** 武寧王は[[忠清南道]][[公州市]]([[熊津]])の宋山里古墳群の[[武寧王陵]]に葬られる。 |
*** 武寧王は[[忠清南道]][[公州市]]([[熊津]])の宋山里古墳群の[[武寧王陵]]に葬られる。 |
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** 南アラビアの[[ヒムヤル王国|ヒムヤル国王]]ズー・ヌワースがユダヤ教に改宗し、キリスト教徒を弾圧([[ナジュラーン]]の迫害)。 |
** 南アラビアの[[ヒムヤル王国|ヒムヤル国王]]ズー・ヌワースがユダヤ教に改宗し、キリスト教徒を弾圧([[ナジュラーン]]の迫害)。 |
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* 524年頃 - 東ゴート王国の執政官であった[[ボエティウス]]が処刑される。この時期までに『[[哲学の慰め]]』が執筆される。 |
* 524年頃 - 東ゴート王国の執政官であった[[ボエティウス]]が処刑される。この時期までに『[[哲学の慰め]]』が執筆される。 |
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* 525年 |
* 525年 |
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** 東ローマ帝国の援助を得た[[アクスム王国]]がヒムヤル王国を滅ぼす。 |
** [[東ローマ帝国]]の援助を得た[[アクスム王国]]がヒムヤル王国を滅ぼす。 |
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** 東ローマ帝国の[[シャンルウルファ|エデッサ]]で大洪水の被害、後にユスティノポリスと改名し再建される。 |
** 東ローマ帝国の[[シャンルウルファ|エデッサ]]で大洪水の被害、後にユスティノポリスと改名し再建される。 |
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*** 城壁の再建の途中でキリストの「[[自印聖像]](マンディリオン)」が発見される。 |
*** 城壁の再建の途中でキリストの「[[自印聖像]](マンディリオン)」が発見される。 |
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* 525年頃 |
* 525年頃 |
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** [[ナスカの地上絵]]が作成される([[コロンビア大学]]のストロングによる[[C14法]]年代測定では誤差は±80年)。 |
** [[ナスカの地上絵]]が作成される([[コロンビア大学]]のストロング(W. Duncan Strong)による[[C14法]]年代測定では誤差は±80年)。 |
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** コンスタンティノポリスで象牙製の[[ディプティク|二連板]]浮き彫り「{{仮リンク|大天使ミカエルの像|en|Archangel ivory}}([[大英博物館]]蔵)」が作成される( - [[550年]]頃)。 |
** コンスタンティノポリスで象牙製の[[ディプティク|二連板]]浮き彫り「{{仮リンク|大天使ミカエルの像|en|Archangel ivory}}([[大英博物館]]蔵)」が作成される( - [[550年]]頃)。 |
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* 526年 |
* 526年 |
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** [[筑紫国造磐井の乱]]起こる(『[[日本書紀]]』継体天皇21年)。 |
** [[筑紫国造磐井の乱]]起こる(『[[日本書紀]]』継体天皇21年)。 |
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** 梁の[[蕭衍|武帝]]が[[建康 (都城)|建康]]の[[鶏鳴寺|同泰寺]]で最初の捨身を行う。 |
** 梁の[[蕭衍|武帝]]が[[建康 (都城)|建康]]の[[鶏鳴寺|同泰寺]]で最初の捨身を行う。 |
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** 東ローマ皇帝[[ユスティニアヌス1世]]が即位( - [[565年]])。 |
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* 527年 - 565年頃 |
* 527年 - 565年頃 |
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** 皇帝ユスティニアヌス1世の命令で[[シナイ山]]に[[聖カタリナ修道院]]が建てられる |
** 皇帝ユスティニアヌス1世の命令で[[シナイ山]]に[[聖カタリナ修道院]]が建てられる |
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** [[河陰の変]]で、北魏の[[爾朱栄]]が[[霊太后]]を倒し[[孝荘帝]]を擁立。 |
** [[河陰の変]]で、北魏の[[爾朱栄]]が[[霊太后]]を倒し[[孝荘帝]]を擁立。 |
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** [[マールワー]]王ヤショーダルマンが[[エフタル]]王ミヒラクラを破って、[[カシミール]]に敗走させる。 |
** [[マールワー]]王ヤショーダルマンが[[エフタル]]王ミヒラクラを破って、[[カシミール]]に敗走させる。 |
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** サーサーン朝皇太子ホスロー(後の[[ホスロー1世]])が教祖[[マズダク]]ら[[マズダク教]]信者を殺害する。 |
** [[サーサーン朝]]皇太子ホスロー(後の[[ホスロー1世]])が教祖[[マズダク]]ら[[マズダク教]]信者を殺害する。 |
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* 529年 |
* 529年 |
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** 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が[[アテネ]]の[[アカデメイア]]を閉鎖し非キリスト教の哲学者を追放する。 |
** 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が[[アテネ]]の[[アカデメイア]]を閉鎖し非キリスト教の哲学者を追放する。 |
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*** 追放された哲学者たち(ダマスキオス、シンプリキオス、プリスキアノスら)は |
*** 追放された哲学者たち([[ダマスキオス]]、[[シンプリキオス]]、プリスキアノスら)はサーサーン朝ペルシア帝国へ亡命し、[[ホスロー1世]]の庇護を受ける。 |
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** [[ヌルシアのベネディクトゥス|ベネディクトゥス]]が[[イタリア]]の[[モンテ・カッシーノ]]に修道院を創設。 |
** [[ヌルシアのベネディクトゥス|ベネディクトゥス]]が[[イタリア]]の[[モンテ・カッシーノ]]に修道院を創設。 |
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* 530年 - ユスティニアヌス1世が古代[[ローマ法]]の集大成である『[[ローマ法大全]]』編纂を命じる(533年完成)。 |
* 530年 - ユスティニアヌス1世が古代[[ローマ法]]の集大成である『[[ローマ法大全]]』編纂を命じる(533年完成)。 |
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* 531年 |
* 531年 |
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** フランク王[[テウデリク1世]]とザクセン族の連合が |
** フランク王[[テウデリク1世]]とザクセン族の連合が{{仮リンク|テューリンゲン族|de|Thüringer|en|Thuringii}}を攻撃( - [[533年]])。 |
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** サーサーン朝ペルシア帝国で[[ホスロー1世]]が即位( - 579年)し、サーサーン朝が最盛期を迎える。 |
** サーサーン朝ペルシア帝国で[[ホスロー1世]]が即位( - 579年)し、サーサーン朝が最盛期を迎える。 |
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** 継体天皇 |
** 継体天皇崩御、[[安閑天皇]]即位。 |
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*** 継体天皇の陵墓として宮内庁は[[大阪府]][[茨木市]]の[[太田茶臼山古墳]]を指定しているが、近年の考古学界では[[淀川 (近畿)|淀川]]水系に位置する[[今城塚古墳]]が有力視されている。 |
*** 継体天皇の陵墓として宮内庁は[[大阪府]][[茨木市]]の[[太田茶臼山古墳]]を指定しているが、近年の考古学界では[[淀川 (近畿)|淀川]]水系に位置する[[今城塚古墳]]が有力視されている。 |
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* 532年 |
* 532年 |
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* 533年 |
* 533年 |
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** 東ローマ帝国が北アフリカの[[ヴァンダル王国]]を征服。 |
** 東ローマ帝国が北アフリカの[[ヴァンダル王国]]を征服。 |
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** フランク王[[テウデリク1世]]が、[[チューリンゲン]]王ヘルマンフリートをツェルピッヒ城で殺害し王国を滅ぼす。 |
** フランク王[[テウデリク1世]]が、[[チューリンゲン]]王{{仮リンク|ヘルマンフリート|en|Hermanafrid}}を{{仮リンク|ツェルピッヒ|en|Zülpich}}城で殺害し王国を滅ぼす。 |
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* 534年 |
* 534年 |
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** フランク王国(パリ・ソワソン)が[[ブルグント王国]]を征服。 |
** フランク王国(パリ・ソワソン)が[[ブルグント王国]]を征服。 |
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** 東ゴート王国女王[[アマラスンタ]]が廃位される。 |
** 東ゴート王国女王[[アマラスンタ]]が廃位される。 |
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** 北魏の[[孝武帝]]が洛陽から出奔し、長安の[[宇文泰]]に招かれる。 |
** 北魏の[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が洛陽から出奔し、長安の[[宇文泰]]に招かれる。 |
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*** [[高歓]]が[[鄴]]で[[孝静帝]]を擁立し、北魏は[[東魏]](鄴)と[[西魏]](長安)に分裂する。 |
*** [[高歓]]が[[鄴]]で[[孝静帝]]を擁立し、北魏は[[東魏]](鄴)と[[西魏]](長安)に分裂する。 |
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** 西魏の宇文泰が郷兵を結集し、[[府兵制]]が成立する。 |
** 西魏の宇文泰が郷兵を結集し、[[府兵制]]が成立する。 |
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*** これに伴い十二大将軍・八柱国の軍団が整備され、[[武川鎮軍閥]](関隴集団)が結集する。 |
*** これに伴い十二大将軍・八柱国の軍団が整備され、[[武川鎮軍閥]](関隴集団)が結集する。 |
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* 534年頃 |
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** [[武蔵国造の乱]]。 |
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* 535年 |
* 535年 |
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** [[インドネシア]]の[[クラカタウ]]火山爆発による{{仮リンク|地球規模の異常気象|en|Extreme weather events of 535–536}}が起きる。 |
** [[インドネシア]]の[[クラカタウ]]火山爆発による{{仮リンク|地球規模の異常気象|en|Extreme weather events of 535–536}}が起きる。 |
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127行目: | 131行目: | ||
*** インドネシア・[[ジャワ島]]西部にあった[[タルマヌガラ王国]](訶羅単(からたん))の衰退の原因とされる。 |
*** インドネシア・[[ジャワ島]]西部にあった[[タルマヌガラ王国]](訶羅単(からたん))の衰退の原因とされる。 |
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** 東ゴート元女王アマラスンタが殺害され、東ローマ帝国が軍事介入を開始([[ゴート戦争]])。 |
** 東ゴート元女王アマラスンタが殺害され、東ローマ帝国が軍事介入を開始([[ゴート戦争]])。 |
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* 536年 - 安閑天皇 |
* 536年 - 安閑天皇崩御、[[宣化天皇]]即位。 |
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** 安閑天皇陵は[[大阪府]][[羽曳野市]][[高屋築山古墳]]とされており、ササン朝ペルシア産のカットガラス「白瑠璃埦([[東京国立博物館]]蔵)」が出土したと伝わる。 |
** 安閑天皇陵は[[大阪府]][[羽曳野市]][[高屋築山古墳]]とされており、サーサーン朝ペルシア産のカットガラス「白瑠璃埦([[東京国立博物館]]蔵)」が出土したと伝わる。 |
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* 537年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によりニカの乱で焼失した[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]が再建される。 |
* 537年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によりニカの乱で焼失した[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]が再建される。 |
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** 現存する[[イスタンブール]]の「アヤソフィア」は再建されたこの3代目の建物を指す。 |
** 現存する[[イスタンブール]]の「アヤソフィア」は再建されたこの3代目の建物を指す。 |
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** 百済の[[聖王 (百済)|聖王]]が都を[[熊津]]から[[泗沘]](現・忠清南道[[扶余郡]])に遷す。 |
** 百済の[[聖王 (百済)|聖王]]が都を[[熊津]]から[[泗沘]](現・忠清南道[[扶余郡]])に遷す。 |
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* 539年 |
* 539年 |
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** 宣化天皇 |
** 宣化天皇崩御、[[欽明天皇]]即位。 |
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** ゴート人の[[ミラノ]](メディオラヌム)略奪。 |
** ゴート人の[[ミラノ]](メディオラヌム)略奪。 |
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=== 540年代 === |
=== 540年代 === |
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{{main|540年代}} |
{{main|540年代}} |
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* 540年 |
* 540年 |
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** [[メキシコ]]の[[エルチチョン]]火山の爆発。 |
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** [[物部尾輿]]らに[[任那]]4県割譲の責任を問われ、[[大伴金村]]が失脚する。 |
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* 540年頃 - ベネディクトゥスが「{{仮リンク|ベネディクトゥスの修道規則|en|Rule of Saint Benedict}}」を定める。 |
* 540年頃 - ベネディクトゥスが「{{仮リンク|ベネディクトゥスの修道規則|en|Rule of Saint Benedict}}」を定める。 |
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* 541年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世がローマ共和政以来の[[執政官]](コンスル)を廃止する。 |
* 541年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世がローマ共和政以来の[[執政官]](コンスル)を廃止する。 |
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* 546年 |
* 546年 |
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** 東ゴート国王トーティラの軍勢が[[ローマ略奪 (546年)|ローマを略奪]]。 |
** 東ゴート国王トーティラの軍勢が[[ローマ略奪 (546年)|ローマを略奪]]。 |
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** 修道士コルンバがアイルランドのダロウ修道院を創設。 |
** 修道士コルンバがアイルランドの{{仮リンク|ダロウ修道院|en|Durrow Abbey}}を創設。 |
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* 546年頃 - [[ラヴェンナ]]の[[サン・ヴィターレ聖堂]]が献堂される。 |
* 546年頃 - [[ラヴェンナ]]の[[サン・ヴィターレ聖堂]]が献堂される。 |
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* 548年 - 梁で[[侯景の乱]]。翌年には[[建康 (都城)|建康]]が陥落し梁の武帝が憤死。 |
* 548年 - 梁で[[侯景の乱]]。翌年には[[建康 (都城)|建康]]が陥落し梁の武帝が憤死。 |
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* 550年頃 |
* 550年頃 |
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** インドでグプタ朝が完全に滅亡。 |
** インドでグプタ朝が完全に滅亡。 |
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** サーサーン朝のホスロー1世によりクテシフォンに「[[ホスローのイーワーン]]」が建立される。 |
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** [[ネストリウス派]]の修道士により中央アジアから東ローマ帝国に[[絹]]の製法が伝えられる([[東ローマ帝国の養蚕伝来]])。 |
** [[ネストリウス派]]の修道士により中央アジアから東ローマ帝国に[[絹]]の製法が伝えられる([[東ローマ帝国の養蚕伝来]])。 |
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* 552年 |
* 552年 |
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** 北アジアで[[柔然]]が分裂する。[[突厥]] |
** 北アジアで[[柔然]]が分裂する。柔然から独立した[[伊利可汗]]が[[突厥]]を建国。 |
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** 日本に[[仏教公伝|仏教伝来]](『[[日本書紀]]』による)、[[疫病]]の流行、[[崇仏論争]]が起きる。 |
** 日本に[[仏教公伝|仏教伝来]](『[[日本書紀]]』による)、[[疫病]]の流行、[[崇仏論争]]が起きる。 |
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** {{仮リンク|アスフェルドの戦い|en|Battle of Asfeld}}でランゴバルドの[[アルボイーノ]]がランゴバルド族に勝利。 |
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* 553年 - [[第2コンスタンティノポリス公会議]]で「{{仮リンク|三章問題|en|Three-Chapter Controversy}}」が討議されその著作が排斥される。 |
* 553年 - [[第2コンスタンティノポリス公会議]]で「{{仮リンク|三章問題|en|Three-Chapter Controversy}}」が討議されその著作が排斥される。 |
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* 554年 |
* 554年 |
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** 東ローマ帝国がイタリアの[[東ゴート王国]]を征服。 |
** 東ローマ帝国がイタリアの[[東ゴート王国]]を征服。 |
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*** {{仮リンク|国事詔書 (554年)|ru|Прагматическая санкция (554)|label=国事詔書}}が発布され、イタリアは東ローマ帝国領に編入される。 |
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** 東ローマ帝国が西ゴート王国領イスパニア南部に進軍。 |
** 東ローマ帝国が西ゴート王国領イスパニア南部に進軍。 |
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** ドゥヴィン教会会議で、アルメニア使徒教会がキリスト[[両性説|両性論]]を拒否し、[[非カルケドン派正教会|非カルケドン派]]を宣明する。 |
** ドゥヴィン教会会議で、アルメニア使徒教会がキリスト[[両性説|両性論]]を拒否し、[[非カルケドン派正教会|非カルケドン派]]を宣明する。 |
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178行目: | 187行目: | ||
** 北斉の文宣帝が柔然を撃破。西魏に亡命した柔然の一派も[[突厥]]により殲滅される。 |
** 北斉の文宣帝が柔然を撃破。西魏に亡命した柔然の一派も[[突厥]]により殲滅される。 |
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** [[アギラ1世]]を倒して[[アタナギルド]]が西ゴート王に即位。 |
** [[アギラ1世]]を倒して[[アタナギルド]]が西ゴート王に即位。 |
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*** この王位継承争いで東ローマ帝国軍が[[カルタゴ・ノヴァ]]や[[マラガ]]そして[[コルドバ]]を征服。 |
*** この王位継承争いで東ローマ帝国軍が[[カルタゴ・ノヴァ]]や[[マラガ]]そして[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]を征服。 |
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* 556年 |
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** 西魏を滅ぼした[[孝閔帝|宇文覚]](孝閔帝)が[[北周]]を建国。 |
** 西魏を滅ぼした[[孝閔帝|宇文覚]](孝閔帝)が[[北周]]を建国。 |
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* 557年 |
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** 梁に代わり[[陳 (南朝)|陳]]がおこる。 |
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**梁を滅ぼした[[陳霸先]](武帝)が[[陳 (南朝)|陳]]を建国。 |
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** [[コンスタンティノープル地震 (557年)|コンスタンティノポリス大地震]]。 |
** [[コンスタンティノープル地震 (557年)|コンスタンティノポリス大地震]]。 |
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*** [[コンスタンティノープルの城壁|コンスタンティノポリス城壁]]や、[[ハギア・ソフィア大聖堂]]ドーム部分(翌558年に崩壊)に大きな被害が生じる。 |
*** [[コンスタンティノープルの城壁|コンスタンティノポリス城壁]]や、[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]ドーム部分(翌558年に崩壊)に大きな被害が生じる。 |
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* 558年 |
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** サーサーン朝ペルシアのホスロー1世が突厥の[[室点蜜]](イステミ)と同盟し、{{仮リンク|ゴル・ザリウンの戦い|en|Battle of Gol-Zarriun}}([[ブハラ]]の戦い)で[[エフタル]]を滅ぼす。 |
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** [[クロタール1世 (フランク王)|クロタール1世]]によりフランク王国が再統一される( - 561年)。 |
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=== 560年代 === |
=== 560年代 === |
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* 562年 |
* 562年 |
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** [[カラクムル]]の「空を見る者」王が[[ティカル]]のワク・チャン・カウィール王を倒し[[マヤ]]の覇権を握る。 |
** [[カラクムル]]の「空を見る者」王が[[ティカル]]のワク・チャン・カウィール王を倒し[[マヤ]]の覇権を握る。 |
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** [[任那]]地方を含む[[加羅]]諸国が新羅の支配下におかれ |
** [[任那]]地方を含む[[加羅]]諸国が新羅の支配下におかれ、日本の勢力は後退する。 |
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** 北斉[[太寧 (北斉)|太寧]]2年のこの年に死去した庫狄廻洛の墓([[山西省]][[寿陽県]])から最古の[[白磁]]の祖型とみられる低火度鉛釉陶磁が出土している。 |
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* 563年 - 修道士[[コルンバ]]が[[スコットランド]]西海の[[ヘブリディーズ諸島]][[アイオナ島]]に新たな[[アイオナ修道院]]を創建する。 |
* 563年 - 修道士[[コルンバ]]が[[スコットランド]]西海の[[ヘブリディーズ諸島]][[アイオナ島]]に新たな[[アイオナ修道院]]を創建する。 |
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* 564年 - [[大英博物館]]所蔵の[[トゥルム]]遺跡出土の「{{仮リンク|トゥルム石碑1|en|Tulum Stela 1}}」に刻まれている年はこの年のもの。 |
* 564年 - [[大英博物館]]所蔵の[[トゥルム]]遺跡出土の「{{仮リンク|トゥルム石碑1|en|Tulum Stela 1}}」に刻まれている年はこの年のもの。 |
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{{main|570年代}} |
{{main|570年代}} |
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* 570年 |
* 570年 |
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** 福岡県元岡古墳群で出土した「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の銘文を持つ鉄製大刀が作られる。 |
** 福岡県元岡古墳群で出土した「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の銘文を持つ鉄製大刀([[庚寅銘大刀]])が作られる。 |
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** 北斉の軍人[[婁叡]]の墓が[[山西省]][[太原]]に作られる。 |
** 北斉の軍人[[婁叡]]の墓が[[山西省]][[太原]]に作られる。 |
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** ランゴバルド系の[[スポレート公国]]・[[ベネヴェント公国]]が成立し、東ローマ帝国領南イタリアと拮抗する。 |
** ランゴバルド系の[[スポレート公国]]・[[ベネヴェント公国]]が成立し、東ローマ帝国領南イタリアと拮抗する。 |
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*** 灌漑システムの崩壊により[[イエメン]]などアラビア南部の農耕民が[[ベドウィン]]化し、アラビア北部に移動する。 |
*** 灌漑システムの崩壊により[[イエメン]]などアラビア南部の農耕民が[[ベドウィン]]化し、アラビア北部に移動する。 |
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* 571年 - 北斉の高官{{仮リンク|徐顕秀の墓|zh|徐显秀墓}}が山西省太原に作られる。 |
* 571年 - 北斉の高官{{仮リンク|徐顕秀の墓|zh|徐显秀墓}}が山西省太原に作られる。 |
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* 572年 |
* 572年 |
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** [[欽明天皇]]崩御、[[敏達天皇]]が即位。 |
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** {{仮リンク|ティキヌム攻略戦|en|Siege of Pavia (569–72)}}でランゴバルド人が[[パヴィーア]]を陥落させる。 |
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* 574年 - 北周の[[武帝 (北周)|武帝]]の廃仏が始まる(建徳の廃仏、[[三武一宗の法難]]の一つ)。 |
* 574年 - 北周の[[武帝 (北周)|武帝]]の廃仏が始まる(建徳の廃仏、[[三武一宗の法難]]の一つ)。 |
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* 576年 - 新羅の[[真興王]]によって[[花郎]]が組織される。 |
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* 577年 - 北周が北斉を滅ぼし華北を統一する。 |
* 577年 - 北周が北斉を滅ぼし華北を統一する。 |
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* 578年 - 世界最古の会社である[[金剛組]]([[大阪市]])が創設される。 |
* 578年 - 世界最古の会社である[[金剛組]]([[大阪市]])が創設される。 |
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* 580年頃 - [[スラヴ人]]が北ギリシャに侵入する。 |
* 580年頃 - [[スラヴ人]]が北ギリシャに侵入する。 |
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* 581年 |
* 581年 |
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** 中国で[[楊堅]](文帝)が北周を滅ぼして[[隋]]を建国。「開皇律令」が公布される。 |
** 中国で[[楊堅]](文帝)が北周を滅ぼして[[隋]]を建国。「{{仮リンク|開皇律令|zh|开皇律}}」が公布される。 |
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** 突厥の[[阿史那菴羅|菴羅可汗]]が[[ソグド語]]による[[ブグト碑文]]を建立。 |
** 突厥の[[阿史那菴羅|菴羅可汗]]が[[ソグド語]]による[[ブグト碑文]]を建立。 |
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* 582年 |
* 582年 |
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** 隋で都の[[長安|大興城]]が整備され、[[仏教治国策]]として[[大興善寺]]が国寺として置かれる。 |
** 隋で都の[[長安|大興城]]が整備され、[[仏教治国策]]として[[大興善寺]]が国寺として置かれる。 |
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** [[阿波可汗]]が西走し、突厥が[[東突厥 |
** [[阿波可汗]]が西走し、突厥が[[東突厥]]と[[西突厥]]に分裂する。 |
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* 583年 |
* 583年 |
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** 隋の文帝が郡を廃止し、州県制を導入。 |
** 隋の文帝が郡を廃止し、[[州県制]]を導入。 |
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** スラブ人やアヴァール人に追われた避難民により[[ペロポネソス半島]]の[[モネンバシア]]市が建設される。 |
** スラブ人やアヴァール人に追われた避難民により[[ペロポネソス半島]]の[[モネンバシア]]市が建設される。 |
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* 584年 |
* 584年 |
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** 東ローマ皇帝[[マウリキオス]]が[[ラヴェンナ]]に総督府を設置。 |
** 東ローマ皇帝[[マウリキオス]]が[[ラヴェンナ]]に[[ラヴェンナ総督府|総督府]]を設置。 |
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** [[司馬達等]]の娘[[善信尼]]らが日本最初の出家者となる。 |
** [[司馬達等]]の娘[[善信尼]]らが日本最初の出家者となる。 |
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* 585年 |
* 585年 |
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** 西ゴート王国が[[スエビ王国]]を滅ぼす。 |
** 西ゴート王国が[[スエビ王国]]を滅ぼす。 |
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** 敏達天皇 |
** 敏達天皇崩御、[[用明天皇]]即位。 |
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* 586年 - メソポタミア北部ザグバの聖ヨハネ修道院で「{{仮リンク|ラブラの福音書|en|Rabbula Gospels}}([[フィレンツェ]]・ラウレンツィアーナ図書館蔵)」が作られる。 |
* 586年 - メソポタミア北部ザグバの聖ヨハネ修道院で「{{仮リンク|ラブラの福音書|en|Rabbula Gospels}}([[フィレンツェ]]・ラウレンツィアーナ図書館蔵)」が作られる。 |
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* 587年 - 用明天皇 |
* 587年 - 用明天皇崩御、[[蘇我馬子]]が仏教受容反対派の物部氏を滅ぼす([[丁未の乱]])、[[崇峻天皇]]即位。 |
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* 588年 - 蘇我馬子の発願による日本最初の本格寺院の法興寺([[飛鳥寺]])の造営が始まる( - [[596年]])。 |
* 588年 - 蘇我馬子の発願による日本最初の本格寺院の法興寺([[飛鳥寺]])の造営が始まる( - [[596年]])。 |
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* 589年 |
* 589年 |
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* 590年 |
* 590年 |
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** ローマ教皇に[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]が即位。 |
** ローマ教皇に[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]が即位。 |
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** [[アイルランド]]の修道士コルンバヌスがリュクスイユ修道院を建てる。 |
** [[アイルランド]]の修道士[[コルンバヌス]]が[[ヴォージュ山脈]]に{{仮リンク|リュクスイユ修道院|en|Luxeuil Abbey}}を建てる。 |
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** サーサーン朝で{{仮リンク|バフラーム・チョービン|en|Bahram Chobin}}の反乱。 |
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* 590年頃 - [[エルサルバドル]]の[[ホヤ・デ・セレン]]遺跡がロマ・カルデーラ山の噴火によって埋没する。 |
* 590年頃 - [[エルサルバドル]]の[[ホヤ・デ・セレン]]遺跡がロマ・カルデーラ山の噴火によって埋没する。 |
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* 591年 - 東ローマ皇帝マウリキオスが[[カルタゴ]]に総督府を設置。 |
* 591年 - 東ローマ皇帝マウリキオスが[[カルタゴ]]に総督府を設置。 |
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** 隋で[[均田法]]が施行される。 |
** 隋で[[均田法]]が施行される。 |
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** [[太原]]南郊にソグド人を統括する検校薩保府の虞弘が埋葬される(隋代[[虞弘墓]]遺跡)。 |
** [[太原]]南郊にソグド人を統括する検校薩保府の虞弘が埋葬される(隋代[[虞弘墓]]遺跡)。 |
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** 崇峻天皇が |
** 崇峻天皇が弑逆され、推古天皇が即位。[[聖徳太子]]が推古天皇の摂政となる。 |
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* 593年 - 聖徳太子の発願による[[四天王寺]]の造営が始まる。 |
* 593年 - 聖徳太子の発願による[[四天王寺]]の造営が始まる。 |
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* 594年 |
* 594年 |
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** [[トゥールのグレゴリウス]]が『{{仮リンク|歴史十巻|fr|Histoire des Francs}}(フランク史)』を完成させ、この年に死去。 |
** [[トゥールのグレゴリウス]]が『{{仮リンク|歴史十巻|fr|Histoire des Francs}}(フランク史)』を完成させ、この年に死去。 |
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* 596年 - 教皇グレゴリウス1世により修道士[[カンタベリーのアウグスティヌス|アウグスティヌス]]がイングランド宣教に派遣される。 |
* 596年 - 教皇グレゴリウス1世により修道士[[カンタベリーのアウグスティヌス|アウグスティヌス]]がイングランド宣教に派遣される。 |
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* 597年 - ケント王[[エゼルベルト]]によりアウグスティヌスは布教を許され、初代[[カンタベリー大司教|カンタベリー司教]]に任ぜられる。 |
* 597年 - ケント王[[エゼルベルト (ケント王)|エゼルベルト]]によりアウグスティヌスは布教を許され、初代[[カンタベリー大司教|カンタベリー司教]]に任ぜられる。 |
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* 598年 - 隋で[[科挙]]が行われる。[[高句麗]]遠征([[隋の高句麗遠征]])に失敗する。 |
* 598年 - 隋で[[科挙]]が行われる。[[高句麗]]遠征([[隋の高句麗遠征]])に失敗する。 |
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* 599年 - [[東突厥]]の[[啓民可汗]]に隋の[[義成公主]]が嫁ぐ。 |
* 599年 - [[東突厥]]の[[啓民可汗]]に隋の[[義成公主]]が嫁ぐ。 |
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* [[537年]] - アーサー王の遠征中に[[モルドレッド]]が反乱を起こし、[[カムランの戦い]]で王が討伐した。しかし王は激戦の末、瀕死の重傷を負い、治療のため[[アヴァロン]]へ赴き、この地で最期を迎えることとなる。またアーサー王は未来のいつかに目覚めて人々を救うために帰ってくるため、ここで眠っているだけだという(「{{仮リンク|アーサー王帰還伝説|en|King Arthur's messianic return}}」。最古の記述は『[[カンブリア年代記]]』、[[ジェフリー・オブ・モンマス]]の『[[ブリタニア列王伝]]』などで発展)。 |
* [[537年]] - アーサー王の遠征中に[[モルドレッド]]が反乱を起こし、[[カムランの戦い]]で王が討伐した。しかし王は激戦の末、瀕死の重傷を負い、治療のため[[アヴァロン]]へ赴き、この地で最期を迎えることとなる。またアーサー王は未来のいつかに目覚めて人々を救うために帰ってくるため、ここで眠っているだけだという(「{{仮リンク|アーサー王帰還伝説|en|King Arthur's messianic return}}」。最古の記述は『[[カンブリア年代記]]』、[[ジェフリー・オブ・モンマス]]の『[[ブリタニア列王伝]]』などで発展)。 |
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* [[564年]] - [[洛陽]]が北周軍に包囲された時、敵の策謀を疑い門は閉じられたままだった。救援に来た北斉の将軍[[高長恭]](蘭陵王)が門前で兜を脱ぎ顔を晒したところ、類いまれな美貌を見て門兵が扉を開いた。以後もその美貌が兵卒たちの士気を下げることを恐れ、高長恭は常に異形の仮面をつけて戦い続けた([[雅楽]]「[[蘭陵王 (雅楽)|蘭陵王]]」)。 |
* [[564年]] - [[洛陽]]が北周軍に包囲された時、敵の策謀を疑い門は閉じられたままだった。救援に来た北斉の将軍[[高長恭]](蘭陵王)が門前で兜を脱ぎ顔を晒したところ、類いまれな美貌を見て門兵が扉を開いた。以後もその美貌が兵卒たちの士気を下げることを恐れ、高長恭は常に異形の仮面をつけて戦い続けた([[雅楽]]「[[蘭陵王 (雅楽)|蘭陵王]]」)。 |
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* [[557年]]以降 - [[581年]]頃 - [[北周]]から[[隋]]の間に[[長安]]にいた若者杜子春が財産を使い果たし、仙人の鉄冠子のもとで修行に励むが、ふとした過ちで不老長寿の夢を絶たれてしまう(原作は唐の李復言の伝奇小説『続玄怪録』の「杜子春伝」。日本の[[芥川龍之介]]の翻案小説『[[杜子春]]』は時代・場所のほか物語に大きく変更あり)。 |
* [[557年]]以降 - [[581年]]頃 - [[北周]]から[[隋]]の間に[[長安]]にいた若者杜子春が財産を使い果たし、仙人の鉄冠子のもとで修行に励むが、ふとした過ちで不老長寿の夢を絶たれてしまう(原作は唐の李復言の伝奇小説『続玄怪録』の「杜子春伝」。日本の[[芥川龍之介]]の翻案小説、『[[杜子春]]』は時代・場所のほか物語に大きく変更あり)。 |
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* [[562年]]以降 - ゲルマン諸族を打ち破り、帝国領土の回復に顕著な貢献したにもかかわらず、思いがけぬことで東ローマ皇帝[[ユスティニアヌス1世]]の寵を失った歴戦の勇士・老いた将軍[[ベリサリウス]]は、追放されて盲目にされたばかりでなく、陋巷で物乞いをして人々の慈悲にすがるような哀れな最期を迎えることになった({{仮リンク|ジャン・フランソワ・マルモンテル|en|Jean-François Marmontel}}の歴史小説『{{仮リンク|べリゼール|en|Bélisaire}}』、この小説に想を得た[[ジャック・ルイ・ダヴィッド]]の油彩画「施しを乞うベリサリウス([[リール美術館]]蔵)」も有名)。 |
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* [[565年]] - [[アイルランド]]人で[[アイオナ]]修道院長でもあった[[コルンバ]]は、[[スコットランド]]北部を布教する際に、人々を苦しめていた[[ネス川]]に潜む怪物を聖なる力で追い払った(ローナ修道院長{{仮リンク|アダムナン|en|Adomnán}}による『聖コルンバ伝(Vita Columbae)』。[[ネス湖]]の[[未確認生物]]「[[ネッシー]]」の最古の記録ともされる)。 |
* [[565年]] - [[アイルランド]]人で[[アイオナ]]修道院長でもあった[[コルンバ]]は、[[スコットランド]]北部を布教する際に、人々を苦しめていた[[ネス川]]に潜む怪物を聖なる力で追い払った(ローナ修道院長{{仮リンク|アダムナン|en|Adomnán}}による『聖コルンバ伝(Vita Columbae)』。[[ネス湖]]の[[未確認生物]]「[[ネッシー]]」の最古の記録ともされる)。 |
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* [[581年]]以降 - [[広東省]]の羅浮山麓は梅の名所で、隋の[[開皇]]年間に将軍趙師雄がここである清楚な美女に出会い、歓談し酒を酌み交わした。酔いが覚めるとただ一人。美女は梅花の精霊であった([[柳宗元]]「龍城録 趙師雄酔憩梅花下」に見える「羅浮仙伝説」)。 |
* [[581年]]以降 - [[広東省]]の羅浮山麓は梅の名所で、隋の[[開皇]]年間に将軍趙師雄がここである清楚な美女に出会い、歓談し酒を酌み交わした。酔いが覚めるとただ一人。美女は梅花の精霊であった([[柳宗元]]「龍城録 趙師雄酔憩梅花下」に見える「羅浮仙伝説」)。 |
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* [[585年]]以前 - 日本の[[敏達天皇]]の時代、[[元興寺]](飛鳥寺)の童子が怪死する事件が相次いだ。[[雷神]]により授かったとされる[[尾張]]出身の怪力の童子がその[[元興寺 (妖怪)|元興寺の妖怪]]を倒し、怪異は収まった。この童子こそ[[道場 (僧)|道場]]法師の前身である([[景戒]]『[[日本霊異記]]』)。 |
* [[585年]]以前 - 日本の[[敏達天皇]]の時代、[[元興寺]](飛鳥寺)の童子が怪死する事件が相次いだ。[[雷神]]により授かったとされる[[尾張]]出身の怪力の童子がその[[元興寺 (妖怪)|元興寺の妖怪]]を倒し、怪異は収まった。この童子こそ[[道場 (僧)|道場]]法師の前身である([[景戒]]『[[日本霊異記]]』)。 |
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* [[590年]]以降 - 若きペルシア王子ホスロー(後の皇帝[[ホスロー2世]])は[[アルメニア]]に赴き、その王女シーリーンと運命的な出会いを果たす。互いに惹かれ合うもホスローは、帝国の内乱を鎮圧するのに忙殺され、その鎮圧のため助力を仰ぐ東ローマ皇帝(カエサル)の王女マルヤムとの縁組を承諾せざるを得なくなる。互いにすれ違う二人を待ち受ける波乱万丈な運命はまだまだ続く([[ニザーミー]]『[[ホスローとシーリーン]]』)。 |
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== 時代の動向 == |
== 時代の動向 == |
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* [[ディオニュシウス・エクシグウス]]([[470年]]頃 - [[544年]]) - ローマの神学者・教会法学者・キリスト紀元([[西暦]])を案出。 |
* [[ディオニュシウス・エクシグウス]]([[470年]]頃 - [[544年]]) - ローマの神学者・教会法学者・キリスト紀元([[西暦]])を案出。 |
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* [[ヌルシアのベネディクトゥス]]([[480年]]頃 - [[547年]]) - 西方教会における修道制の創設者・モンテ・カッシーノ修道院を建立。 |
* [[ヌルシアのベネディクトゥス]]([[480年]]頃 - [[547年]]) - 西方教会における修道制の創設者・モンテ・カッシーノ修道院を建立。 |
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* [[スコラスティカ]]([[480年]]頃 - [[547年]]頃) - ヌルシアのベネディクトゥスの双子の姉妹・ベネディクト女子修道院の創設者。 |
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* [[ボエーティウス|ボエティウス]]([[480年]]頃 - [[524年]]頃) - 東ゴート王国の[[執政官]]で[[哲学者]]・[[神学者]]。著作に『[[哲学の慰め]]』がある。 |
* [[ボエーティウス|ボエティウス]]([[480年]]頃 - [[524年]]頃) - 東ゴート王国の[[執政官]]で[[哲学者]]・[[神学者]]。著作に『[[哲学の慰め]]』がある。 |
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* [[カッシオドルス]]([[485年]]頃 - [[585年]]頃) - 東ゴート王国の[[執政官]]で[[哲学者]]・[[神学者]]。ウィウァリウムの修道院に隠棲する。 |
* [[カッシオドルス]]([[485年]]頃 - [[585年]]頃) - 東ゴート王国の[[執政官]]で[[哲学者]]・[[神学者]]。ウィウァリウムの修道院に隠棲する。 |
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* [[トーティラ]](? - [[552年]]) - 東ゴート国王(在位[[541年]] - [[552年]])・[[ゴート戦争]]で東ローマ帝国軍に抵抗しタギナエの戦いで戦死。 |
* [[トーティラ]](? - [[552年]]) - 東ゴート国王(在位[[541年]] - [[552年]])・[[ゴート戦争]]で東ローマ帝国軍に抵抗しタギナエの戦いで戦死。 |
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* [[アルボイン]]([[526年]]? - [[572年]]) - [[ランゴバルド王国]]の初代国王(在位[[560年]] - [[572年]])・東ローマ支配を覆す。 |
* [[アルボイン]]([[526年]]? - [[572年]]) - [[ランゴバルド王国]]の初代国王(在位[[560年]] - [[572年]])・東ローマ支配を覆す。 |
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* フォルトゥナトゥス([[530年]]頃 - [[610年]]頃) - イタリアのラテン詩人・聖十字架の賛歌「王の旗が進む」や『聖ラデグンディス伝』がある。 |
* {{仮リンク|フォルトゥナトゥス|en|Venantius Fortunatus}}([[530年]]頃 - [[610年]]頃) - イタリアのラテン詩人・聖十字架の賛歌「王の旗が進む」や『聖ラデグンディス伝』がある。 |
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* [[グレゴリウス1世]]([[540年]] - [[604年]])- ローマ教皇(在位[[590年]] - [[604年]])・ゲルマン系諸民族への宣教を推進。 |
* [[グレゴリウス1世]]([[540年]] - [[604年]])- ローマ教皇(在位[[590年]] - [[604年]])・ゲルマン系諸民族への宣教を推進。 |
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* [[テウデベルト1世]]([[500年]]頃 - [[547年]]/[[548年]]) - [[メロヴィング朝]][[フランク王国]]のランス([[アウストラシア]])王。 |
* [[テウデベルト1世]]([[500年]]頃 - [[547年]]/[[548年]]) - [[メロヴィング朝]][[フランク王国]]のランス([[アウストラシア]])王。 |
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* [[テウデバルド]]([[535年]] - [[555年]]) - メロヴィング朝フランク王国のランス(アウストラシア)王・テウデベルト1世の子。 |
* [[テウデバルド]]([[535年]] - [[555年]]) - メロヴィング朝フランク王国のランス(アウストラシア)王・テウデベルト1世の子。 |
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* フレデグンデ(? - [[597年]]) - フランク王国[[ネウストリア]]王[[キルペリク1世]]の王妃・ブルンヒルデの政敵。 |
* [[フレデグンデ]](? - [[597年]]) - フランク王国[[ネウストリア]]王[[キルペリク1世]]の王妃・ブルンヒルデの政敵。 |
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* [[ブルンヒルド]]([[543年]]頃 - [[613年]]) - フランク王国[[アウストラシア]]王[[シギベルト1世]]の王妃・フレデグンデの政敵。 |
* [[ブルンヒルド]]([[543年]]頃 - [[613年]]) - フランク王国[[アウストラシア]]王[[シギベルト1世]]の王妃・フレデグンデの政敵。 |
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* ゲルマヌス([[496年]] - [[576年]]) - パリ司教・フランク王国のキリスト教化につとめサンジェルマン |
* {{仮リンク|パリのゲルマヌス|en|Germain of Paris}}([[496年]] - [[576年]]) - パリ司教・フランク王国のキリスト教化につとめ[[サン=ジェルマン=デ=プレ教会]]にその名が残る。 |
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* [[トゥールのグレゴリウス]]([[530年]]頃 - [[594年]]頃) - [[フランク王国]]の司教・年代記作家で『歴史十巻(フランク史)』の著者。 |
* [[トゥールのグレゴリウス]]([[530年]]頃 - [[594年]]頃) - [[フランク王国]]の司教・年代記作家で『歴史十巻(フランク史)』の著者。 |
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* アルルのカエサリウス([[468年]]/[[470年]] - [[542年]]) - [[レランス島|レランス]]の修道院長・[[アルル]]の司教・ガリア教会の復興を指揮する。 |
* アルルのカエサリウス([[468年]]/[[470年]] - [[542年]]) - [[レランス島|レランス]]の修道院長・[[アルル]]の司教・ガリア教会の復興を指揮する。 |
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* [[トリボニアヌス]](? - [[543年]]/[[545年]]) - 東ローマ帝国の法務官僚。『ローマ法大全』を編纂。 |
* [[トリボニアヌス]](? - [[543年]]/[[545年]]) - 東ローマ帝国の法務官僚。『ローマ法大全』を編纂。 |
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* [[アンティオキアのセウェロス]]([[465年]]頃 - [[538年]]) - [[アンティオキア]]総主教・[[非カルケドン派正教会]]を指導し[[合性論]]を構築する。 |
* [[アンティオキアのセウェロス]]([[465年]]頃 - [[538年]]) - [[アンティオキア]]総主教・[[非カルケドン派正教会]]を指導し[[合性論]]を構築する。 |
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* ヤコボス・バラダイオス([[500年]]頃? - [[578年]]) - 東ローマ帝国の[[エデッサ]]主教・[[合性論]]の[[シリア正教会]](ヤコブ派)をシリアで組織する。 |
* ヤコボス・バラダイオス([[500年]]頃? - [[578年]]) - 東ローマ帝国の[[シャンルウルファ|エデッサ]]主教・[[合性論]]の[[シリア正教会]](ヤコブ派)をシリアで組織する。 |
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* [[ダマスキオス]]([[458年]]頃 - [[538年]]以降) - アテネの[[アカデメイア]]学園最後の学頭。ユスティニアヌス帝の学園封鎖に立ち会う。 |
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* [[ヨハネス・ピロポノス]]([[490年]] - [[570年]]) - アレクサンドリアの哲学者・アリストテレスの注釈批判を行う・後年は神学者として『証人』を執筆 |
* [[ヨハネス・ピロポノス]]([[490年]] - [[570年]]) - アレクサンドリアの哲学者・アリストテレスの注釈批判を行う・後年は神学者として『証人』を執筆 |
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* [[トラレスのアンテミオス]]([[474年]] - [[534年]]) - 東ローマ帝国の建築家・数学者・[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]を設計し建立する。 |
* [[トラレスのアンテミオス]]([[474年]] - [[534年]]) - 東ローマ帝国の建築家・数学者・[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]を設計し建立する。 |
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* マズダク(? - [[524年]]/[[528年]]) - サーサーン朝の宗教家・[[マズダク教]]の開祖・カワードに庇護されるがホスロー1世に弾圧される。 |
* マズダク(? - [[524年]]/[[528年]]) - サーサーン朝の宗教家・[[マズダク教]]の開祖・カワードに庇護されるがホスロー1世に弾圧される。 |
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* [[ホスロー1世]](? - [[579年]]) - サーサーン朝ペルシア帝国の[[シャー]](在位[[531年]] - [[579年]])・中央アジアや東ローマへの対外遠征を行う。 |
* [[ホスロー1世]](? - [[579年]]) - サーサーン朝ペルシア帝国の[[シャー]](在位[[531年]] - [[579年]])・中央アジアや東ローマへの対外遠征を行う。 |
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* アンタラ・イブン・シャッダード([[525年]] - [[608年]]) - [[ジャーヒリーヤ]]時代の[[アラビア]]の英雄・詩人としても有名で『アンタラ物語』のモデル。 |
* {{仮リンク|アンタラ・イブン・シャッダード|en|Antarah ibn Shaddad}}([[525年]] - [[608年]]) - [[ジャーヒリーヤ]]時代の[[アラビア]]の英雄・詩人としても有名で『アンタラ物語』のモデル。 |
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=== 中央アジア === |
=== 中央アジア === |
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* [[継体天皇]]([[450年]]? - [[531年]]) - 第26代天皇(在位[[507年]] - [[531年]])。 |
* [[継体天皇]]([[450年]]? - [[531年]]) - 第26代天皇(在位[[507年]] - [[531年]])。 |
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* [[筑紫君磐井]](? - [[528年]]?) - 古墳時代末の九州北部の豪族・[[磐井の乱]]を起こす。 |
* [[筑紫君磐井]](? - [[528年]]?) - 古墳時代末の九州北部の豪族・[[磐井の乱]]を起こす。 |
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* [[物部麁鹿火]](? - [[536年]]) - 古墳時代の豪族・継体天皇の擁立に貢献・磐井の乱を鎮圧。 |
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* [[大伴金村]](生没年不詳)- 古墳時代末の豪族・[[大連 (古代日本)|大連]]・朝鮮半島での[[任那]]滅亡に伴い失脚。 |
* [[大伴金村]](生没年不詳)- 古墳時代末の豪族・[[大連 (古代日本)|大連]]・朝鮮半島での[[任那]]滅亡に伴い失脚。 |
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* [[欽明天皇]]([[509年]] - [[571年]]) - 第29代天皇(在位[[539年]] - [[571年]])・この時代に仏教公伝。 |
* [[欽明天皇]]([[509年]] - [[571年]]) - 第29代天皇(在位[[539年]] - [[571年]])・この時代に仏教公伝。 |
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
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千年紀: | 1千年紀 |
---|---|
世紀: | 5世紀 - 6世紀 - 7世紀 |
十年紀: |
500年代 510年代 520年代 530年代 540年代 550年代 560年代 570年代 580年代 590年代 |
6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。
できごと
[編集]500年代
[編集]詳細は「500年代」を参照
- 502年 - 南朝の斉に代わり蕭衍(武帝)が梁を建てる
- 503年 - 「癸未年八月」の干支銘をもつ人物画像鏡が和歌山県橋本市の隅田八幡神社に伝わる(癸未年を443年とする説もある)。
- 504年 - 東ゴート国王テオドリックがゲピド族をカルパティア山脈周辺から放逐する。
- 506年 - アルメニア使徒教会の全主教会議により、カルケドン信条の不採択が決定される(アルメニア使徒教会の独立)。
- 507年
- 507年-511年頃 - フランク国王クローヴィス1世のもとで「サリカ法典」が編纂される。
- 507年頃 - バーミヤンの大仏(東大仏)が建造される(西大仏は551年頃)。
510年代
[編集]詳細は「510年代」を参照
- 510年代 - エフタルのトラマーナ王と続くミヒラクラ王がインドにたびたび侵入する。
- インドに定着したミヒラクラ王により大規模なインドにおける仏教の弾圧(破仏)が行われる。
- 511年
- 512年
- 513年 - 百済から五経博士の段楊爾が来日する(日本最古の五経博士の記録)。
- 515年 - 北魏で大乗の乱が起こる。
- 518年 - ガリラヤ湖畔のベト・アルファのシナゴーグの床モザイク壁画が作成される( - 527年)。
520年代
[編集]詳細は「520年代」を参照
- 520年
- 520年頃
- スウェーデン・ウプサラ大学カロリーネ図書館所蔵のゴート語訳『コデックス・アルゲンティウス(銀文字聖書)』が作成される。
- 523年
- 524年頃 - 東ゴート王国の執政官であったボエティウスが処刑される。この時期までに『哲学の慰め』が執筆される。
- 525年
- 525年頃
- 526年
- 526年 - 539年
- 527年
- 527年 - 565年頃
- 528年
- 529年
530年代
[編集]詳細は「530年代」を参照
- 530年 - ユスティニアヌス1世が古代ローマ法の集大成である『ローマ法大全』編纂を命じる(533年完成)。
- 531年
- 532年
- 533年
- 534年
- 534年頃
- 535年
- 536年 - 安閑天皇崩御、宣化天皇即位。
- 537年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によりニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂が再建される。
- 現存するイスタンブールの「アヤソフィア」は再建されたこの3代目の建物を指す。
- 538年
- 539年
540年代
[編集]詳細は「540年代」を参照
- 540年
- 540年頃 - ベネディクトゥスが「ベネディクトゥスの修道規則」を定める。
- 541年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世がローマ共和政以来の執政官(コンスル)を廃止する。
- 542年 - 570年 - ヨルダン西部マダバの聖ゲオルギオス教会の床モザイクに中東地域の地図が描かれる(マダバ地図)。
- 543年
- 東ローマ帝国で「ユスティニアヌスのペスト」が大流行。
- 東ゴート国王トーティラがヌルシアのベネディクトゥスを訪問。
- ヌビアのノバティア王国がキリスト教に改宗する。
- 543年頃
- 546年
- 546年頃 - ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂が献堂される。
- 548年 - 梁で侯景の乱。翌年には建康が陥落し梁の武帝が憤死。
- 549年 - ラヴェンナ近郊のサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂が献堂される。
550年代
[編集]詳細は「550年代」を参照
- 550年
- 550年頃
- インドでグプタ朝が完全に滅亡。
- サーサーン朝のホスロー1世によりクテシフォンに「ホスローのイーワーン」が建立される。
- ネストリウス派の修道士により中央アジアから東ローマ帝国に絹の製法が伝えられる(東ローマ帝国の養蚕伝来)。
- 552年
- 553年 - 第2コンスタンティノポリス公会議で「三章問題」が討議されその著作が排斥される。
- 554年
- 555年
- 556年
- 557年
- 梁を滅ぼした陳霸先(武帝)が陳を建国。
- コンスタンティノポリス大地震。
- コンスタンティノポリス城壁や、ハギア・ソフィア大聖堂ドーム部分(翌558年に崩壊)に大きな被害が生じる。
- 558年
- サーサーン朝ペルシアのホスロー1世が突厥の室点蜜(イステミ)と同盟し、ゴル・ザリウンの戦い(ブハラの戦い)でエフタルを滅ぼす。
- クロタール1世によりフランク王国が再統一される( - 561年)。
560年代
[編集]詳細は「560年代」を参照
- 560年 - 西ゴート国王アタナギルドがトレドに遷都。
- 562年
- 563年 - 修道士コルンバがスコットランド西海のヘブリディーズ諸島アイオナ島に新たなアイオナ修道院を創建する。
- 564年 - 大英博物館所蔵のトゥルム遺跡出土の「トゥルム石碑1」に刻まれている年はこの年のもの。
- 565年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が死去。
- 567年 - ゲピド王国がランゴバルド人に征服され、国王クニムンドが殺害される。
- 568年
- 569年
570年代
[編集]詳細は「570年代」を参照
- 570年
- 571年 - 北斉の高官徐顕秀の墓が山西省太原に作られる。
- 572年
- 574年 - 北周の武帝の廃仏が始まる(建徳の廃仏、三武一宗の法難の一つ)。
- 576年 - 新羅の真興王によって花郎が組織される。
- 577年 - 北周が北斉を滅ぼし華北を統一する。
- 578年 - 世界最古の会社である金剛組(大阪市)が創設される。
- 579年 - 西ゴート王子ヘルメネギルドのカトリック改宗と、父王レオヴィギルドへの反乱。
580年代
[編集]詳細は「580年代」を参照
- 580年頃 - スラヴ人が北ギリシャに侵入する。
- 581年
- 582年
- 583年
- 584年
- 585年
- 586年 - メソポタミア北部ザグバの聖ヨハネ修道院で「ラブラの福音書(フィレンツェ・ラウレンツィアーナ図書館蔵)」が作られる。
- 587年 - 用明天皇崩御、蘇我馬子が仏教受容反対派の物部氏を滅ぼす(丁未の乱)、崇峻天皇即位。
- 588年 - 蘇我馬子の発願による日本最初の本格寺院の法興寺(飛鳥寺)の造営が始まる( - 596年)。
- 589年
590年代
[編集]詳細は「590年代」を参照
- 590年
- 590年頃 - エルサルバドルのホヤ・デ・セレン遺跡がロマ・カルデーラ山の噴火によって埋没する。
- 591年 - 東ローマ皇帝マウリキオスがカルタゴに総督府を設置。
- 592年
- 593年 - 聖徳太子の発願による四天王寺の造営が始まる。
- 594年
- 法隆寺五重塔心柱のヒノキ材の伐採年代が年輪年代法によりこの年(推古2年)のものと判明している。
- トゥールのグレゴリウスが『歴史十巻(フランク史)』を完成させ、この年に死去。
- 596年 - 教皇グレゴリウス1世により修道士アウグスティヌスがイングランド宣教に派遣される。
- 597年 - ケント王エゼルベルトによりアウグスティヌスは布教を許され、初代カンタベリー司教に任ぜられる。
- 598年 - 隋で科挙が行われる。高句麗遠征(隋の高句麗遠征)に失敗する。
- 599年 - 東突厥の啓民可汗に隋の義成公主が嫁ぐ。
- 599年頃 - 西突厥の泥利可汗を記念するソグド語碑文がイリ地方の昭蘇石人に刻まれる。
600年代
[編集]詳細は「600年代」を参照
伝説・架空のできごと
[編集]- 502年 - 514年 - 梁の武帝は風狂の僧宝誌を尊崇し、その肖像画を描かせるべく三人の画家を遣わした。宝誌が画家たちの前で自らの顔に裂け目を入れ、顔の皮を左右に拡げると、中から十一面観音菩薩の顔が現れた。かくして画家たちが描いた肖像画を見て武帝は再度宝誌を追うが、その姿を二度と見ることはなかった(原型は南朝梁の慧皎『高僧伝』巻10。『宇治拾遺物語』他の記述に発展。京都市西住寺の宝誌和尚像も有名)。
- 502年 - 549年 - 梁の武帝の治世に活躍した画家の張僧繇が金陵安楽寺の壁画に龍を描き、ややあって目を書き入れたところ龍が画中から動き出し瞬く間に天上に駆け上っていった(張彦遠『歴代名画記』「画竜点睛を欠く」の故事。他の出典として『水衡記』)。
- 507年 - 越前国味真野に住んでいた、応神天皇の子孫である大迹部皇子(男大迹皇子・継体天皇)のもとに急使が届き、次の帝の候補として白羽の矢が立てられた。皇子は都への旅路を急ぐかたわら、この地に残すことになる恋人照日の前に使者を送り、手紙と愛用した花筐(はながたみ(花籠))を届けさせる(世阿弥の謡曲「花筐」)。
- 528年 - コネチカット州ハートフォード出身のハンク・モーガンは、兵器工場の職長であった。ある日モーガンは部下に殴られて気絶する。意識を取り戻すと目の前には騎士がいて、騎士に連れて行かれた先はキャメロットだった。モーガンは自分がかのアーサー王宮廷にいることを知る(マーク・トウェインの小説『アーサー王宮廷のヤンキー』)。
- 537年 - アーサー王の遠征中にモルドレッドが反乱を起こし、カムランの戦いで王が討伐した。しかし王は激戦の末、瀕死の重傷を負い、治療のためアヴァロンへ赴き、この地で最期を迎えることとなる。またアーサー王は未来のいつかに目覚めて人々を救うために帰ってくるため、ここで眠っているだけだという(「アーサー王帰還伝説」。最古の記述は『カンブリア年代記』、ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王伝』などで発展)。
- 564年 - 洛陽が北周軍に包囲された時、敵の策謀を疑い門は閉じられたままだった。救援に来た北斉の将軍高長恭(蘭陵王)が門前で兜を脱ぎ顔を晒したところ、類いまれな美貌を見て門兵が扉を開いた。以後もその美貌が兵卒たちの士気を下げることを恐れ、高長恭は常に異形の仮面をつけて戦い続けた(雅楽「蘭陵王」)。
- 557年以降 - 581年頃 - 北周から隋の間に長安にいた若者杜子春が財産を使い果たし、仙人の鉄冠子のもとで修行に励むが、ふとした過ちで不老長寿の夢を絶たれてしまう(原作は唐の李復言の伝奇小説『続玄怪録』の「杜子春伝」。日本の芥川龍之介の翻案小説、『杜子春』は時代・場所のほか物語に大きく変更あり)。
- 562年以降 - ゲルマン諸族を打ち破り、帝国領土の回復に顕著な貢献したにもかかわらず、思いがけぬことで東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の寵を失った歴戦の勇士・老いた将軍ベリサリウスは、追放されて盲目にされたばかりでなく、陋巷で物乞いをして人々の慈悲にすがるような哀れな最期を迎えることになった(ジャン・フランソワ・マルモンテルの歴史小説『べリゼール』、この小説に想を得たジャック・ルイ・ダヴィッドの油彩画「施しを乞うベリサリウス(リール美術館蔵)」も有名)。
- 565年 - アイルランド人でアイオナ修道院長でもあったコルンバは、スコットランド北部を布教する際に、人々を苦しめていたネス川に潜む怪物を聖なる力で追い払った(ローナ修道院長アダムナンによる『聖コルンバ伝(Vita Columbae)』。ネス湖の未確認生物「ネッシー」の最古の記録ともされる)。
- 581年以降 - 広東省の羅浮山麓は梅の名所で、隋の開皇年間に将軍趙師雄がここである清楚な美女に出会い、歓談し酒を酌み交わした。酔いが覚めるとただ一人。美女は梅花の精霊であった(柳宗元「龍城録 趙師雄酔憩梅花下」に見える「羅浮仙伝説」)。
- 585年以前 - 日本の敏達天皇の時代、元興寺(飛鳥寺)の童子が怪死する事件が相次いだ。雷神により授かったとされる尾張出身の怪力の童子がその元興寺の妖怪を倒し、怪異は収まった。この童子こそ道場法師の前身である(景戒『日本霊異記』)。
- 590年以降 - 若きペルシア王子ホスロー(後の皇帝ホスロー2世)はアルメニアに赴き、その王女シーリーンと運命的な出会いを果たす。互いに惹かれ合うもホスローは、帝国の内乱を鎮圧するのに忙殺され、その鎮圧のため助力を仰ぐ東ローマ皇帝(カエサル)の王女マルヤムとの縁組を承諾せざるを得なくなる。互いにすれ違う二人を待ち受ける波乱万丈な運命はまだまだ続く(ニザーミー『ホスローとシーリーン』)。
時代の動向
[編集]東アジア
[編集]大陸
[編集]華北を統一していた北朝北魏の政権中枢が前世紀末に南遷し漢化政策を推し進めた結果、モンゴル高原から南下する柔然の侵攻からの国土防衛を担っていた六つの軍事駐屯地、すなわち鎮の軍隊が著しい地位低下に見舞われ不満を募らせた末に反乱を起こす(六鎮の乱)。戦乱の末に北魏は東西に分裂し、懐朔鎮出身の高歓率いる六鎮の主力と山東系の漢人貴族が結びついて北魏皇族を戴く東魏と、武川鎮出身の宇文泰率いる武川鎮軍閥が関中に拠って北魏皇族を戴く西魏が成立する。やがて東魏では高氏、西魏では宇文氏が皇位に登り北斉、北周が成立する。当初の劣勢を跳ね返した北周が北斉を下して華北を再統一するが、北周政府の実権を掌握したやはり武川鎮軍閥軍閥出身の楊氏(普六茹氏)への禅譲が行われて隋が成立し、この政権のもとで柔然に代わって北方から圧力をかけてくる突厥に内部離間を誘って東西分裂により弱体化させることに成功するとともに南朝の陳が征服され、西晋滅亡以来の南北朝統一が成る。
朝鮮半島
[編集]日本
[編集]日本では古墳時代後期にあたる。ただし、泊瀬部大王(後の崇峻天皇)が暗殺され異母姉の額田部皇女(後の推古天皇)が立てられた崇峻天皇5年(592年)以降、または厩戸王(後の聖徳太子)が摂政になった推古天皇元年(593年)以降は、飛鳥時代に区分される場合もある。
- それまでのヤマト王権の王統嫡流が断絶し、誉田別尊大王(後の応神天皇)五世の子孫とされ越前と近江に地盤を持ち尾張連草香の娘を妃としていた男大迹王(後の継体天皇)が、大伴氏、物部氏、巨勢氏らにより畿内に迎えられて前王統の手白香皇女を皇后に迎え、治天下大王として擁立される。やがてこの継体系の王家は新興の蘇我氏と結びつき、武川鎮軍閥系の政権によって大陸が華北の再統一から南北朝の統一へと向かう中、前世紀の「倭の五王」後に途絶えていた活発な東アジア外交を再開する。
- 考古学の発掘研究によればこの世紀の半ばになって日本列島での鉄鉱石からの製鉄遺構が初めて出現する。同時期に大陸では倭国が弥生時代以来鉄素材の供給源としていた弁韓の後身加羅諸国が新羅に併合されている。
- 前世紀に九州などで造られ始めていた古墳の横穴式石室が全国規模で普及する。
- この世紀の後期になると畿内では前方後円墳がつくられなくなり、前方後円墳の伝統を保持していた天皇陵含む大型古墳も渟中倉太珠敷大王(後の敏達天皇)の陵墓を最後に以後方墳となる。関東でも群集墳が盛んに造られるようになる。ヤマト王権中央、さらには地方首長の統治下でも仏教の導入が進行し、前方後円墳と結びついていた首長祭祀は以後氏寺における仏教儀礼が担うようになる。
西アジア
[編集]南アジア
[編集]東南アジア
[編集]ヨーロッパ
[編集]人物
[編集]地中海世界とヨーロッパ
[編集]イタリア(東ゴート王国からランゴバルド王国まで)
[編集]- ディオニュシウス・エクシグウス(470年頃 - 544年) - ローマの神学者・教会法学者・キリスト紀元(西暦)を案出。
- ヌルシアのベネディクトゥス(480年頃 - 547年) - 西方教会における修道制の創設者・モンテ・カッシーノ修道院を建立。
- スコラスティカ(480年頃 - 547年頃) - ヌルシアのベネディクトゥスの双子の姉妹・ベネディクト女子修道院の創設者。
- ボエティウス(480年頃 - 524年頃) - 東ゴート王国の執政官で哲学者・神学者。著作に『哲学の慰め』がある。
- カッシオドルス(485年頃 - 585年頃) - 東ゴート王国の執政官で哲学者・神学者。ウィウァリウムの修道院に隠棲する。
- トーティラ(? - 552年) - 東ゴート国王(在位541年 - 552年)・ゴート戦争で東ローマ帝国軍に抵抗しタギナエの戦いで戦死。
- アルボイン(526年? - 572年) - ランゴバルド王国の初代国王(在位560年 - 572年)・東ローマ支配を覆す。
- フォルトゥナトゥス(530年頃 - 610年頃) - イタリアのラテン詩人・聖十字架の賛歌「王の旗が進む」や『聖ラデグンディス伝』がある。
- グレゴリウス1世(540年 - 604年)- ローマ教皇(在位590年 - 604年)・ゲルマン系諸民族への宣教を推進。
フランク王国
[編集]- クロタール1世(497年 - 561年) - メロヴィング朝フランク王国ソワソンの王(在位511年 - 561年)・ブルグント王国を滅ぼす。
- テウデベルト1世(500年頃 - 547年/548年) - メロヴィング朝フランク王国のランス(アウストラシア)王。
- テウデバルド(535年 - 555年) - メロヴィング朝フランク王国のランス(アウストラシア)王・テウデベルト1世の子。
- フレデグンデ(? - 597年) - フランク王国ネウストリア王キルペリク1世の王妃・ブルンヒルデの政敵。
- ブルンヒルド(543年頃 - 613年) - フランク王国アウストラシア王シギベルト1世の王妃・フレデグンデの政敵。
- パリのゲルマヌス(496年 - 576年) - パリ司教・フランク王国のキリスト教化につとめサン=ジェルマン=デ=プレ教会にその名が残る。
- トゥールのグレゴリウス(530年頃 - 594年頃) - フランク王国の司教・年代記作家で『歴史十巻(フランク史)』の著者。
- アルルのカエサリウス(468年/470年 - 542年) - レランスの修道院長・アルルの司教・ガリア教会の復興を指揮する。
イングランド・アイルランド
[編集]- クロンファートのブレンダン(484年頃 - 578年頃) - アイルランドの修道士・各地への宣教で知られ『聖ブレンダンの航海』で伝説化される。
- ギルダス(494年/516年 - 570年) - イングランドの司祭・その知識と文才で「賢明なるギルダス」と呼ばれ著作『ブリトン人の没落』を残す。
- コルンバ(521年 - 597年) - アイルランド出身の修道士・アイオナ修道院を創建し各地へ宣教・コルンバヌスは弟子。
- カンタベリーのアウグスティヌス(? - 604年/605年)- 初代カンタベリー大司教・ケント国王エゼルベルフトを洗礼する。
西ゴート王国
[編集]- セビリャのレアンデル(549年以前 - 599年/601年) - セビリャ大司教・国王レカレド1世の改宗に活躍・後継の大司教イシドールスは実弟。
- レカレド1世(559年頃 - 601年) - 西ゴート王国国王(在位586年 - 601年)・アリウス派からカトリック教会に改宗。
東ローマ帝国
[編集]- ユスティニアヌス1世(482年 - 565年) - 東ローマ皇帝(在位527年 - 565年)。東ローマ帝国の最大版図を築いた。
- テオドラ(500年頃? - 548年)- 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の皇后。ニカの反乱で窮地に至った皇帝を励ます。
- マウリキウス(539年 - 602年) - 東ローマ皇帝(在位582年 - 602年)・帝国再建のため各地に総督府を設置・フォカスに暗殺される。
- ベリサリウス(505年 - 565年) - 東ローマ帝国の将軍・サーサーン朝やヴァンダル王国/東ゴート王国との戦いに勝利。
- ナルセス(478年 - 573年) - 東ローマ帝国の政治家・宦官・将軍。解任されたベリサリウスを継ぎイタリアの東ゴート王国を征服。
- カイサレイアのプロコピオス(生没年不詳) - 東ローマ帝国の歴史家。ユスティニアヌスの再征服に関する『戦史』『秘史』の著者。
- ヨルダネス(? - 578年頃) - 東ローマ帝国の歴史家。『ゴート人の歴史』はゴートに関する最重要史料。
- トリボニアヌス(? - 543年/545年) - 東ローマ帝国の法務官僚。『ローマ法大全』を編纂。
- アンティオキアのセウェロス(465年頃 - 538年) - アンティオキア総主教・非カルケドン派正教会を指導し合性論を構築する。
- ヤコボス・バラダイオス(500年頃? - 578年) - 東ローマ帝国のエデッサ主教・合性論のシリア正教会(ヤコブ派)をシリアで組織する。
- ダマスキオス(458年頃 - 538年以降) - アテネのアカデメイア学園最後の学頭。ユスティニアヌス帝の学園封鎖に立ち会う。
- ヨハネス・ピロポノス(490年 - 570年) - アレクサンドリアの哲学者・アリストテレスの注釈批判を行う・後年は神学者として『証人』を執筆
- トラレスのアンテミオス(474年 - 534年) - 東ローマ帝国の建築家・数学者・ハギア・ソフィア大聖堂を設計し建立する。
- ミレトスのイシドロス(生没年不詳) - 東ローマ帝国の建築家・数学者・トラレスのアンテミオスと協力しハギア・ソフィア大聖堂を建立。
- カエサレアのプリスキアヌス(生没年不詳) - 東ローマ帝国で活躍した北アフリカ出身のラテン文法学者・『文法学教程』は後世に影響。
- コスマス・インディコプレウステース(生没年不詳) - エジプト出身の商人・修道士・インド洋貿易にまつわる『キリスト教地誌』を残す。
西アジア
[編集]- マズダク(? - 524年/528年) - サーサーン朝の宗教家・マズダク教の開祖・カワードに庇護されるがホスロー1世に弾圧される。
- ホスロー1世(? - 579年) - サーサーン朝ペルシア帝国のシャー(在位531年 - 579年)・中央アジアや東ローマへの対外遠征を行う。
- アンタラ・イブン・シャッダード(525年 - 608年) - ジャーヒリーヤ時代のアラビアの英雄・詩人としても有名で『アンタラ物語』のモデル。
中央アジア
[編集]- ミヒラクラ(? - 533年以降) - エフタルの王(在位512年 - 528年頃)・大規模な仏教弾圧を実施。
- 伊利可汗(? - 552年) - 突厥の可汗(カガン)(在位552年)・柔然から独立・西魏に遣使し長楽公主と婚姻する
- 木汗可汗(? - 572年) - 突厥の可汗(カガン)(在位553年 - 572年)・柔然を滅ぼしエフタルを攻略して突厥に最盛期をもたらす。
- バヤン(? - 602年) - アヴァールの王(カガン)(在位562年 - 602年)・ドナウ川を渡りゲピド王国を倒しアヴァール王国を建国。
南アジア
[編集]- アリヤバータ(476年 - 550年頃) - インドのグプタ朝の数学者・天文学者・著作『アーリヤバティーヤ』では円周率の近似値などに言及。
- ディグナーガ(陳那)(480年頃 - 540年頃) - インド仏教の有相唯識派の学僧・「因明学」と呼ばれる仏教論理学を確立した。
- プラケーシン1世(? - 566年) - インド・デカン高原の前期チャールキヤ朝の初代君主(在位543年頃 - 566年)。
- バーヴァヴィヴェーカ(清弁)(490年頃 - 570年頃) - インド仏教の中観派の学僧・空の思想を積極的に論証する(自立論証派)。
- ダンディン(6 - 7世紀) - インドの文人・小説『ダシャクマーラチャリタ(十王子物語)』や詩論『カーヴィヤーダルシャ(詩作の鏡)』がある。
東アジア
[編集]南朝
[編集]- 蕭衍(464年 - 549年) - 南朝梁の初代皇帝(武帝)(在位502年 - 549年)・仏教保護政策により「皇帝菩薩」と称される。
- 達磨(ボーディダルマ)(? - 528年頃?) - インド出身の僧侶で禅宗の開祖。梁の武帝と交流があったか。
- 朱异(483年 - 549年) - 南朝の梁の政治家・東魏から亡命した将軍侯景を受け入れ反乱を誘発させた。
- 侯景(503年 - 552年) - 北朝東魏から南朝梁へ降った軍人・侯景の乱を起こし建康を占領・梁の武帝を餓死させる。
- 宝誌(418年 - 514年) - 南朝宋から梁の僧侶・神異や予言で知られ「野馬台詩」の作者に擬せられる。
- 陶弘景(456年 - 536年) - 南朝梁の医学者・科学者・梁の武帝の信任が厚く「山中宰相」とも呼ばれる。著作に『真誥』など。
- 劉勰(466年? - 532年) - 南朝梁の文学評論家。中国で最初の体系的な文芸理論書『文心雕竜』を著す。
- 周興嗣(470年? - 521年) - 南朝斉から梁の官僚・文章家・初学者の漢字習得用テキスト『千字文』の撰者。
- 慧皎(497年 - 554年) - 南朝梁の僧侶・後漢から梁までの中国僧の事跡を集めた『高僧伝』の撰者。
- 真諦(499年 - 569年) - インド出身の訳経僧・四大訳経家の一人・梁から陳の時代に『摂大乗論』『倶舎論』を翻訳。
- 蕭統(昭明太子)(501年 - 531年) - 南朝梁の武帝の皇太子・文章家・詩文のアンソロジー『文選』の撰者。
- 王僧弁(? - 555年) - 南朝梁の将軍・侯景の反乱を鎮圧し元帝を擁立・江陵失陥後は陳霸先と対立し敗死する。
- 陳霸先(503年 - 559年) - 南朝陳の初代皇帝(武帝)(在位557年 - 559年)。王僧弁の残党の反乱に苦慮する。
- 徐陵(507年 - 583年) - 南朝梁から陳の文学者・政治家・梁の太子蕭綱(後の簡文帝)の命で『玉台新詠』を編纂。
北朝
[編集]- 鄭道昭(? - 516年) - 北朝北魏の官僚・書家・六朝楷書の代表作である「鄭文公碑」が残る。
- 宋雲(活躍時期518年 - 522年) - 北朝北魏の官僚(僧官か)・西域からインドに赴き経典を求めた・『宋雲行記』が残る。
- 酈道元(469年 - 527年) - 北朝北魏の官人・地理学者として『水経注』をまとめる。
- 曇鸞(476年 - 542年) - 北朝北魏の僧侶・中国浄土教の祖・道綽や善導さらに法然や親鸞に影響・著作に『浄土論註』がある。
- 爾朱栄(493年 - 530年) - 北朝北魏の軍人・河陰の変で霊太后を倒し六鎮の乱を鎮圧して北魏の全権を掌握。
- 高歓(496年 - 547年) - 北朝北魏の政治家・孝静帝を擁立し鄴に東魏政権を立てる・子孫は北斉の皇帝となる。
- 宇文泰(505年 - 556年) - 北朝北魏の政治家・孝武帝を擁立し長安に西魏政権を立てる・子孫は北周の皇帝となる。
- 賈思勰(活躍時期532年頃 - 549年頃) - 北朝北魏の官僚・中国最古の総合的農書『斉民要術』をまとめる。
- 楊衒之(生没年不詳) - 北朝北魏末から東魏の人・洛陽の仏寺の繁栄を記録した『洛陽伽藍記』の撰者。
- 斛律光(515年 - 572年) - 北斉の将軍・宰相・高長恭とともに北斉を支えるが後主によって粛清される・「落鳥都督」と呼ばれる
- 高長恭(541年 - 573年) - 北斉の皇族(蘭陵王)・武勲がありながら「音容兼美」と称され雅楽「蘭陵王」のモデルとなる。
- 宇文邕(武帝)(543年 - 578年) - 北周の皇帝(在位560年 - 578年)・北斉を滅ぼし北中国を統一・周武の法難(廃仏)を実施。
- 衛元嵩(生没年不詳) - 北周の廃仏論者・もとは予言をする風狂の僧として知られ後に還俗・北周武帝の廃仏に影響を与える。
隋
[編集]- 顔之推(531年 - 591年以降) - 南北朝時代から隋の学者・著書に『顔氏家訓』がある。孫は唐に仕えた顔師古。
- 智顗(538年 - 597年) - 南北朝時代から隋の僧侶・天台宗の第三祖(事実上の開祖)・智者大師・著書に『摩訶止観』がある。
- 信行(540年 - 594年) - 北斉から隋の僧侶・三階教の開祖・長安真寂寺(化度寺)に招かれるが死後に宗派は弾圧される。
- 楊堅(文帝)(541年 - 604年) - 隋の初代皇帝(在位581年 - 604年)・陳を滅ぼし南北朝を統一・その治世が「開皇の治」。
朝鮮
[編集]- 武寧王(462年 - 523年) - 百済の第25代国王(在位502年 - 523年)・宋山里古墳群の武寧王陵からは墓誌や副葬品が発見される。
- 聖王(聖明王)(? - 554年) - 百済の第26代国王(在位523年 - 554年)・日本に仏教を伝える(仏教公伝)・新羅との戦いで戦死。
日本
[編集]- 継体天皇(450年? - 531年) - 第26代天皇(在位507年 - 531年)。
- 筑紫君磐井(? - 528年?) - 古墳時代末の九州北部の豪族・磐井の乱を起こす。
- 物部麁鹿火(? - 536年) - 古墳時代の豪族・継体天皇の擁立に貢献・磐井の乱を鎮圧。
- 大伴金村(生没年不詳)- 古墳時代末の豪族・大連・朝鮮半島での任那滅亡に伴い失脚。
- 欽明天皇(509年 - 571年) - 第29代天皇(在位539年 - 571年)・この時代に仏教公伝。
- 物部守屋(? - 587年) - 飛鳥時代の豪族・大連・崇仏論争で排仏を唱え丁未の乱で滅ぼされる。
- 蘇我馬子(551年? - 626年) - 飛鳥時代の豪族・大臣(嶋大臣)・崇仏論争で崇仏を唱え丁未の乱に勝利。
- 司馬達等(生没年不詳) - 飛鳥時代の渡来人・娘に日本最初の出家者善信尼、孫に仏師鞍作止利がいる。
- 推古天皇(554年 - 628年) - 第33代天皇(在位592年 - 628年)・日本最初の女帝。
- 聖徳太子(厩戸皇子)(574年 - 622年) - 推古天皇の摂政・用明天皇の皇子。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 石弘之著『歴史を変えた火山噴火ー自然災害の環境史ー』刀水書房 2012年 84ページ
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、6世紀に関するカテゴリがあります。