コンテンツにスキップ

「永利勇吉」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
画像挿入
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
(6人の利用者による、間の8版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox baseball player
{{Infobox baseball player
|選手名 = 永利 勇吉
| 選手名 = 永利 勇吉
|英語表記 =
| 英語表記 =
|所属球団 =
| 所属球団 =
|背番号 =
| 背番号 =
|選手写真ファイル名 = Yukichi Nagatoshi 1950 Scan10013.jpg
| 画像 = Yukichi Nagatoshi 1950 Scan10013.jpg
|写真サイズ = 250
| 画像サイズ = 250
|写真のコメント = 1950年撮影
| 画像説明 = 1950年撮影
|国籍 = {{JPN}}
| 国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[福岡県]]
| 出身地 = [[福岡県]]
|生年月日 = [[1920年]][[12月9日]]
| 生年月日 = [[1920年]][[12月9日]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1920|12|9|1962|6|27}}
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1920|12|9|1962|6|27}}
|身長 = 170
| 身長 = 170
|体重 = 71
| 体重 = 71
|利き腕 = 右
| 利き腕 = 右
|打席 = 左
| 打席 = 左
|守備位置 = [[捕手]]
| 守備位置 = [[外野手]]・[[捕手]]
|プロ入り年度 = [[1948年]]
| プロ入り年度 = [[1948年]]
|ドラフト順位 =
| ドラフト順位 =
|初出場 = 1948年
| 初出場 = 1948年
|最終出場 = 1955年
| 最終出場 = 1955年
|年俸 =
| 年俸 =
|経歴 =
| 経歴 =
* [[福岡県立嘉穂高等学校|嘉穂中学校]]
* [[福岡県立嘉穂高等学校・附属中学校|嘉穂中学校]]
* [[立教大学硬式野球部|立教大学]]
* [[立教大学野球部|立教大学]]
* [[星野組硬式野球部|星野組]]
* [[星野組硬式野球部|星野組]]
* [[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]] (1948 - 1949)
* [[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]] (1948 - 1949)
29行目: 29行目:
* [[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]] (1951 - 1955)
* [[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]] (1951 - 1955)
}}
}}
'''永利 勇吉'''(ながとし ゆうきち、[[1920年]][[12月9日]] - [[1962年]][[6月27日]])は、[[福岡県]]出身の[[プロ野球選手]]([[捕手]])、[[野球解説者]]。
'''永利 勇吉'''(ながとし ゆうきち、[[1920年]][[12月9日]] - [[1962年]][[6月27日]])は、[[福岡県]]出身の[[プロ野球選手]]([[外野手]]・[[捕手]])、[[野球解説者]]。


== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
[[福岡県立嘉穂高等学校|嘉穂中学]]から[[立教大学]]へ進み、[[立教大学硬式野球部|野球部]]へ入部。当初は[[外野手]]だったが捕手難だったため[[1942年]]の春季リーグ前に捕手へコンバートされた。同年の春季リーグでは打率.500で[[首位打者]]を獲得した。
[[福岡県立嘉穂高等学校・附属中学校|嘉穂中学]]から[[立教大学]]へ進み、[[立教大学野球部|野球部]]へ入部。当初は[[外野手]]だったが捕手難だったため、{{by|1942年}}の春季リーグ前に捕手へコンバートされた。同年の春季リーグでは打率.500で[[首位打者]]を獲得した。


その後、[[社会人野球]]の強豪チームの[[星野組硬式野球部|星野組]]で[[荒巻淳]]らと共に[[都市対抗野球大会]]でプレーし、[[第19回都市対抗野球大会]]では[[本塁打]]2本を放ちこの大会チームは準優勝。永利は久慈賞を受賞した。
その後、[[社会人野球]]の強豪チームの[[星野組硬式野球部|星野組]]で[[荒巻淳]]らと共に[[都市対抗野球大会]]でプレーし、[[第19回都市対抗野球大会]]では[[本塁打]]2本を放ちこの大会チームは準優勝。永利は久慈賞を受賞した。


[[1948年]]に[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]に入団。[[1950年]]に[[宇高勲]]に引き抜かれ[[西日本パイレーツ]]へ移籍となる。西日本解散し翌年に[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]へ移籍となり、[[1955年]]に[[引退]]した。
{{by|1948年}}に[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]に入団。{{by|1950年}}に[[宇高勲]]に引き抜かれ[[西日本パイレーツ]]へ移籍となる。同年は開幕から5番・[[左翼手]]を務めたが、シーズン途中に[[関口清治]]と守備位置を交換し、3番・[[右翼手]]に定着した。シーズン終了後、西日本解散に伴い、[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]へ移籍したが西鉄では[[深見安博]]、関口清治、[[塚本悦郎]]らとの競争で準レギュラーに留まり、{{by|1955年}}に[[引退]]した。


その後、[[九州朝日放送]](KBC)野球解説者・[[日刊スポーツ]][[野球評論家]](1958年から)として活動していたが、[[1962年]][[6月27日]]午前0時50分、[[福岡市]][[博多区]]東領町2丁目の[[九州旅客鉄道|国鉄]][[鹿児島本線]][[博多駅|博多]]-[[竹下駅|竹下]]間の6号[[踏切]]東60mの地点で、通行中の貨物列車([[鳥栖駅|鳥栖]]発[[門司駅|門司操車場]]行き)に飛び込み自殺した。当時、野球評論を担当していた[[日刊スポーツ]]の原稿用紙に書かれた遺書には「能力もなく忘れられるばかりで浮かびあがるとしてもますますあせって浮かびあがれない」などと書かれていた。ちなみに現役中だった[[1954年]][[8月9日]]にも薬物による自殺未遂を起こしてい。満41歳没。死の直前の[[6月21日]]には、[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]VS[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]([[平和台球場]])のラジオ中継の解説、22日にはラジオ番組に出演したばかりだったという。
その後、[[九州朝日放送]](KBC)野球解説者・[[日刊スポーツ]][[野球評論家]](1958年から)として活動していたが、{{by|1962年}}[[6月27日]]午前0時50分、[[福岡市]][[博多区]]東領町2丁目の[[九州旅客鉄道|国鉄]][[鹿児島本線]][[博多駅|博多]]-[[竹下駅|竹下]]間の6号[[踏切]]東60mの地点で、通行中の貨物列車([[鳥栖駅|鳥栖]]発[[門司駅|門司操車場]]行き)に飛び込み自殺した。
当時、野球評論を担当していた[[日刊スポーツ]]の原稿用紙に書かれた遺書には「能力もなく忘れられるばかりで浮かびあがるとしてもますますあせって浮かびあがれない」などと書かれていた。ちなみに現役中だった{{by|1954年}}[[8月9日]]にも薬物による自殺未遂を起こしてい。満41歳没。
死の直前の[[6月21日]]には、[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]VS[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]([[平和台球場]])のラジオ中継の解説、22日にはラジオ番組に出演したばかりだったという。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
45行目: 49行目:
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1948}}
|style="text-align: center;"|{{by2|1948}}
|rowspan="2" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[オリックスバファローズ|阪急]]
|rowspan="2" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[オリックスバファローズ|阪急]]
|19||48||42||4||10||1||0||1||14||8||0||0||0||--||6||--||0||13||--||.238||.333||.333||.667
|19||48||42||4||10||1||0||1||14||8||0||0||0||--||6||--||0||13||--||.238||.333||.333||.667
|-
|-
97行目: 101行目:
* [[西日本パイレーツの選手一覧]]
* [[西日本パイレーツの選手一覧]]
* [[埼玉西武ライオンズの選手一覧]]
* [[埼玉西武ライオンズの選手一覧]]
* [[自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
104行目: 109行目:
{{DEFAULTSORT:なかとし ゆうきち}}
{{DEFAULTSORT:なかとし ゆうきち}}
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:福岡県立嘉穂高等学校出身の人物]]
[[Category:立教大学野球部の選手]]
[[Category:立教大学野球部の選手]]
[[Category:星野組硬式野球部の選手]]
[[Category:星野組硬式野球部の選手]]
111行目: 117行目:
[[Category:野球解説者]]
[[Category:野球解説者]]
[[Category:福岡県出身の人物]]
[[Category:福岡県出身の人物]]
[[Category:自殺した人物]]
[[Category:自殺した日本の人物]]
[[Category:鉄道事故死した人物]]
[[Category:鉄道事故死した人物]]
[[Category:1920年生]]
[[Category:1920年生]]

2024年9月25日 (水) 09:33時点における最新版

永利 勇吉
1950年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県
生年月日 1920年12月9日
没年月日 (1962-06-27) 1962年6月27日(41歳没)
身長
体重
170 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手捕手
プロ入り 1948年
初出場 1948年
最終出場 1955年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

永利 勇吉(ながとし ゆうきち、1920年12月9日 - 1962年6月27日)は、福岡県出身のプロ野球選手外野手捕手)、野球解説者

来歴・人物

[編集]

嘉穂中学から立教大学へ進み、野球部へ入部。当初は外野手だったが、捕手難だったため、1942年の春季リーグ前に捕手へコンバートされた。同年の春季リーグでは打率.500で首位打者を獲得した。

その後、社会人野球の強豪チームの星野組荒巻淳らと共に都市対抗野球大会でプレーし、第19回都市対抗野球大会では本塁打2本を放ちこの大会チームは準優勝。永利は久慈賞を受賞した。

1948年阪急ブレーブスに入団。1950年宇高勲に引き抜かれ西日本パイレーツへ移籍となる。同年は開幕から5番・左翼手を務めたが、シーズン途中に関口清治と守備位置を交換し、3番・右翼手に定着した。シーズン終了後、西日本の解散に伴い、西鉄ライオンズへ移籍したが、西鉄では深見安博、関口清治、塚本悦郎らとの競争で準レギュラーに留まり、1955年引退した。

その後、九州朝日放送(KBC)野球解説者・日刊スポーツ野球評論家(1958年から)として活動していたが、1962年6月27日午前0時50分、福岡市博多区東領町2丁目の国鉄鹿児島本線博多竹下間の6号踏切東60mの地点で、通行中の貨物列車(鳥栖門司操車場行き)に飛び込み自殺した。

当時、野球評論を担当していた日刊スポーツの原稿用紙に書かれた遺書には「能力もなく忘れられるばかりで浮かびあがるとしてもますますあせって浮かびあがれない」などと書かれていた。ちなみに現役中だった1954年8月9日にも薬物による自殺未遂を起こしている。満41歳没。

死の直前の6月21日には、西鉄VS南海平和台球場)のラジオ中継の解説、22日にはラジオ番組に出演したばかりだったという。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1948 阪急 19 48 42 4 10 1 0 1 14 8 0 0 0 -- 6 -- 0 13 -- .238 .333 .333 .667
1949 78 172 157 13 36 3 2 2 49 17 0 0 0 -- 14 -- 1 33 -- .229 .297 .312 .609
1950 西日本 132 582 497 90 151 20 12 21 258 80 15 10 0 -- 82 -- 3 54 14 .304 .405 .519 .925
1951 西鉄 90 320 262 40 77 11 7 14 144 45 7 7 1 -- 53 -- 4 41 4 .294 .420 .550 .970
1952 75 280 238 33 52 5 5 9 94 31 6 5 1 -- 36 -- 5 42 3 .218 .333 .395 .728
1953 94 307 265 32 58 7 8 4 93 20 3 8 1 -- 39 -- 2 41 4 .219 .324 .351 .674
1954 90 250 211 26 39 7 1 3 57 20 4 0 1 1 35 -- 2 36 3 .185 .306 .270 .577
1955 75 161 147 13 27 4 0 5 46 13 1 0 0 1 11 1 2 29 1 .184 .250 .313 .563
通算:8年 653 2120 1819 251 450 58 35 59 755 234 36 30 4 2 276 1 19 289 29 .247 .352 .415 .767
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

[編集]
  • 4 (1948年 - 1949年)
  • 27 (1950年)
  • 25 (1951年 - 1953年)
  • 10 (1954年 - 1955年)

関連情報

[編集]

ラジオ出演

[編集]

テレビ出演

[編集]

※KBC解説者時代(1959 - 1962)のテレビキー局系列におけるプロ野球中継の現行タイトル(当時は、フジテレビ系・NETテレビ〔現:テレビ朝日〕系のクロスネット局だった。現在は、テレビ朝日系シングルネット)。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]