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|衆議院第2議員会館610号室
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'''江田 憲司'''(えだ けんじ、[[1956年]][[4月28日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[衆議院議員]](4期)[[結いの党]]代表。
'''江田 憲司'''(えだ けんじ、[[1956年]][[4月28日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[衆議院議員]](4期)[[結いの党]]代表。


通商産業大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、[[みんなの党]]幹事長などを歴任した。
通商産業大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、[[みんなの党]]幹事長などを歴任した。
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[[Category:岡山市出身の人物]]
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[[Category:1956年生]]
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2013年12月18日 (水) 14:20時点における版

日本の旗衆議院議員 江田憲司
生年月日 (1956-04-28) 1956年4月28日(68歳)
出身地 岡山県
出身校 東京大学
学位・資格 法学士
行政書士
前職 桐蔭横浜大学教授
内閣総理大臣秘書官
通商産業大臣秘書官
所属委員会 環境委員会
世襲
選出選挙区 神奈川8区
当選回数 4回
所属党派自由民主党→)
無所属→)
みんなの党→)
(無所属→)
結いの党
会館部屋番号 衆議院第2議員会館610号室
ウェブサイト 江田けんじNET
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江田 憲司(えだ けんじ、1956年4月28日 - )は、日本政治家衆議院議員(4期)、結いの党代表。

通商産業大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、みんなの党幹事長などを歴任した。

テレビ、選挙ポスターなどでは江田けんじと表記されている。

来歴・人物

岡山県岡山市出身。1979年東京大学法学部を卒業。大学在学中の1976年公務員試験及び旧司法試験の第二次試験択一式試験及び論文式試験に合格。翌1979年には旧司法試験に最終合格した。

通産官僚から首相秘書官へ

大学を卒業後は通商産業省に入省。大臣官房、生活産業局、資源エネルギー庁などを経て、1987年から1988年までハーバード大学国際問題研究所研究員として在米。帰国後は、工業技術院、産業政策局総務課長補佐、通商政策局経済協力室長を歴任。

村山内閣当時の通商産業大臣秘書官事務取扱として橋本龍太郎に仕えたことがきっかけとなり、橋本内閣では橋本の政務担当内閣総理大臣秘書官(首席秘書官)に現役官僚から当時39歳で異例の抜擢を受け、メディアは“官邸の森蘭丸”と報道した。橋本の下で中央省庁再編や金融改革等、重要案件の調整に当たった。橋本内閣総辞職と同時に退官。

政界入り

2000年6月25日第42回衆議院議員総選挙で神奈川8区から自由民主党公認で出馬したが、落選。その後、自民党を離党し、テレビ番組のコメンテーターなどをしながら無所属で政治活動を続けた。

2002年10月27日、第42回衆議院議員補欠選挙に神奈川8区から立候補して初当選。2003年第43回衆議院議員総選挙に神奈川8区から無所属で立候補して落選。2005年第44回衆議院議員総選挙で神奈川8区から無所属で立候補して当選。

2006年9月、2007年9月に行われた首班指名選挙では投票者(江田自身)の名前だけを書き、被投票者の氏名を書かず無効票を投じた(それぞれ選出されたのは安倍晋三福田康夫)。いずれの指名選挙でも、全衆議院議員で唯一の白票を投じている。2008年の指名選挙では過去2回の首班指名選挙で白票を投じたのとは違い、第一野党党首である民主党代表小沢一郎に投票した(後述)。

みんなの党から結いの党へ

2008年官僚国家日本を変える元官僚の会(脱藩官僚の会)を結成して代表幹事に就任。

2009年1月、自民党を離党した渡辺喜美と共に政治団体「国民運動体」を結成。同年5月に「国民運動体 日本の夜明け」へ改称し、渡辺と共にパートナー(共同代表)へ就任。同年8月の第45回衆議院議員総選挙に際して「みんなの党」を結党し、「パートナー(党務)」(幹事長に相当)に就任した。総選挙では再選され、同年9月に役員名称の変更で幹事長となった。

2013年8月7日、みんなの党幹事長を代表の渡辺喜美の発議により解任される。同年12月9日、みんなの党の議員13名と共に離党を表明。その後、みんなの党を除名処分となる[1]。12月18日、新党を旗揚げし、結いの党代表に就任[2]

年譜

政策・主張

無所属議員として

いかなる政党・会派にも属さない完全無所属の立場を取り、野党の動向に関わらず、政府案に賛成をすることも反対することもあった。2005年の衆議院選挙で郵政民営化が有権者の支持を得たことを理由に、首班指名選挙では小泉純一郎を支持し、翌10月に採決された郵政民営化法案に賛成票を投じた。2006年3月2日の本会議では一般会計予算案に賛成票を投じた[要出典]2009年に「みんなの党」へ参加し、無所属生活に終止符を打った。

テロ対策特別措置法に対して

第168臨時国会に際しては、テロ対策特別措置法に基づく海上自衛隊の給油活動など、安全保障政策に関する質問主意書を多く提出している。その中には『自衛隊のホームページに関する質問主意書(2007年10月5日)』中「シビリアンコントロールの観点からも…自衛隊が作成するホームページ、ビデオ…の構成、内容等については…大臣、事務次官、局長といったポストの人間がしっかりとチェックすべきではないか」というような質問もある[要出典]

麻生太郎政権に対して

2008年9月に発足した麻生内閣に対して、自身の公式サイトで「今日から、一日も早い麻生政権打倒に向けて行動を起こそうと思う。なぜなら、麻生政権が続く限り、日本の将来はないと考えるからだ」と意思表明した。その理由として、麻生が第2次橋本内閣でマクロ経済上の影響を判断する責任者の経済企画庁長官を務めていながら、総裁選で「橋本政権で13兆円の目論み違いがあった。ここから学習しないのは愚かだ」と発言したことや、麻生の部下だった大来洋一が麻生は「万事、よきにはからえ」だったと証言していること、麻生セメントや麻生病院を立て直したのは麻生の弟であり、麻生が会社を辞した時に父・太賀吉が「太郎が早く会社をやめてくれてよかった」と話したことなどを挙げ、麻生が日本を90年代の「失われた10年」に引き戻す危険性が極めて高いと批判した[3]

先述のとおり、麻生を選出する首班指名選挙では民主党代表小沢一郎に投票した。

民主党政権に対して

民主党政権における元次官OBの天下り問題について批判している。行政刷新会議による「事業仕分け」については、一部の予算査定作業を国民に見える形で透明化した点を評価する一方で、経済財政運営の国家戦略において全体構図や基本方針のようなマクロフレームがない以上はミクロフレームにおける事業仕分けの評価ができない問題や仕分け対象の選定基準が不明瞭である問題を指摘している。また、普天間基地問題では「自民党政権時代の合意を再検証の必要性」は認めた上で、橋本内閣の首相秘書官時代に普天間飛行場返還に携わった経緯から、「米国や沖縄の基地自治体および移転先候補自治体など調整先が多数あり、移転先を決定する過程で首相以下関係閣僚が用意周到かつ内々に行う性格を持つ政策である」と指摘し、内閣として具体的な統一方針が定まらない状況を批判している[要出典]

政治団体による不動産購入

江田自身が代表を務める政治団体「憲政研究会」の2006年度政治資金収支報告書(2007年3月23日報告)によると、2003年4月1日に横浜市青葉区内の建物を840万円で購入したと記載されている[4][5]

なお、当該不動産購入に関して、江田は2010年1月28日に自らのホームページで「『政治資金管理団体』の事務所なのだから、そのお金でプレハブを建てるのは、献金の目的にも沿っているし、法的道義的にも当時、何ら問題は無い」とコメントした(その後、当該記事はホームページから削除されている)[6]

人物像

吉田拓郎の大ファンで、無頼の生き方に憧れ、大きな影響を受けたという[7]

テレビ出演

他、ワイドショーコメンテーターバラエティ番組など。

主な著書

単著

共著

参考文献

脚注

関連項目

外部リンク

先代
(結成)
みんなの党幹事長
初代:2009年- 2013年
(当初は「パートナー(党務)」)
次代
浅尾慶一郎