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「慈眼寺 (大東市)」の版間の差分

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'''福聚山慈眼寺'''(ふくじゅさんじげんじ)は、[[大阪府]][[大東市]]野崎にある[[寺院]]。'''野崎観音'''(のざきかんのん)として知られる。本尊は[[十一面観音|十一面観世音菩薩]]。宗派は[[曹洞宗]]
'''慈眼寺'''(じげんじ)は、[[大阪府]][[大東市]]野崎にある[[曹洞宗]]の[[寺院]]。[[山号]]は福聚山(ふくじゅさん)。[[本尊]]は[[十一面観音]]。'''野崎観音'''(のざきかんのん)の通称で知られる。

[[愛知県]][[知立市]]に、宗派も山号も全く同じ慈眼寺が存在する。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[生駒山地]]北部の中腹に位置し、境内からは[[大阪平野]]を望むことができる。境内から[[野崎城 (河内国)|野崎城]]跡をへて吊り橋を通って[[飯盛山 (生駒山地)|飯盛山]]・[[飯盛山城]]跡などへ至る登山道があるため、休日は登山者の参詣も多い。
[[江戸時代]]より続く、有縁無縁問わずすべてのものに感謝を捧げる『野崎参り』で知られ、その期間である5月頭は参拝客で賑わう。[[人形浄瑠璃]]や[[落語]]の作品を通じても知られている。境内には[[南條神社]]や[[役小角]]像も鎮座し、[[神仏習合]]や[[修験道]]の歴史を今に伝えている。[[四天王]]によって守護される本堂には、[[十一面観音菩薩]]、[[普賢菩薩]]、[[文殊菩薩]]が祀られており、平成11年に完成した壁画「花蝶菩薩」には、[[十二星座]]が表現されている。本堂周囲には当寺中興の祖と位置付けられる[[遊女]]、[[江口の君]](江口の長者)を祀り、婦人病と子授けの御利益があるとされる江口堂や、一番から三十三番まである河内西国霊場すべてを拝むことができるという三十三所観音堂、[[釈迦]]の16人の弟子([[阿羅漢|十六羅漢]]、じゅうろくらかん)を祀り、北河内の遊び歌において「野崎観音十六羅漢、うちの親父は働かん」とユーモラスに歌われる羅漢堂などがある。ただし、羅漢堂は昭和26年に山崩れによって流失し、羅漢像そのものは修復されたものの、現在あるのは仮設堂である。境内からは吊り橋を通って[[河内飯盛山]]などへ至る登山道があり、休日は登山者も多い。また、毎週日曜日に本堂において[[座禅]]会を開いている。

5月頭の無縁経法要(「有縁無縁すべてのもの<ref>[http://www.nozakikannon.or.jp/cn10/pg80.html 恒例行事] 野崎観音公式ホームページ</ref>」に対し、感謝の読経を捧げる行事)は「野崎詣り(のざきまいり)」の通称で知られ、[[江戸時代]]より続く。「野崎詣り」の期間は参拝客で賑わう。

かつての「野崎詣り」は[[大阪|大坂]]から川を遡り、かつて[[生駒山]]の麓に存在した[[深野池]]まで舟で行くという参詣の風景が見られ、[[人形浄瑠璃]]や[[落語]]等のフィクション作品の舞台となっている([[#慈眼寺を舞台とした作品|後述]])。

毎週日曜日に[[座禅]]会が開かれており、毎月18日には[[写経]]会が開かれている。

[[愛知県]][[知立市]]の[[慈眼寺 (知立市)|慈眼寺]]は、宗派も山号も全く同じである<ref>[http://www.jigenji.jp/ 公式]</ref>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[天平勝宝]]年間(749年 - 757年)に[[インド]]から来朝した婆羅門僧正が[[行基]]に「野崎は[[釈迦]]が初めて仏法を説いた鹿野苑([[サルナート]])に似ている」と語り、それを受け行基が白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる。本尊は[[長谷寺]]の本尊と同木から彫られたという。
[[天平勝宝]]年間([[749]] - [[757年]])に[[天竺]]([[インド]]から来朝した[[婆羅門]]僧正が[[行基]]に「野崎は[[釈迦如来]]が初めて仏法を説いた[[鹿野苑]]([[サルナート]])に似ている」と語り、それを受け行基が白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる。本尊は[[長谷寺]]の本尊と同木から彫られたという。


[[平安時代]][[江口の君]]が、難病治癒の報恩感謝ため現在の場所に寺を移転し、再興に尽力。
[[平安時代]]、[[遊女]]・[[江口の君]](江口の長者)が、難病治癒の報恩感謝するため現在の場所に寺を移転し、再興に尽力(同寺では中興の祖と位置付けられている。なお、寺院移転に関しては[[真言宗]]関与説がある)した


[[中世]]より衰微し特に[[永禄]]8年([[1565年]])には[[三好義興]][[松永久秀]]の戦にかかり、本尊を除いて全焼した。[[元和 (日本)|元和]]2年に([[1616年]])青厳によっ再興され、[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])に野崎参りが始まる。[[元禄]]・[[宝永]]年間(1688年 - 1710年)に野崎参りが盛んになるにつれ繁栄するようになった。
[[室町時代]]には当寺の方に[[河内国|河内]][[守護]][[畠山氏]]によって[[野崎城 (河内国)|野崎城]]が築城されたためにあって衰微した。特に[[永禄]]8年([[1565年]])には[[三好三人衆]][[松永久秀]]による合戦の兵火([[東大寺大仏殿の戦い]])にかかり、本尊を除いて全焼してる。


[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に青厳によって再興されると、[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])に「野崎詣り」が始まる。[[元禄]]・[[宝永]]年間([[1688年]] - [[1710年]])までに、同行事が盛んになるにつれて、門前が繁栄するようになった。
かつては西側一帯は[[大阪|大坂]]からつながる大きな[[池]](深野池)があり、大坂からは野崎参りの[[屋形船]]が行き来していた。[[大和川]]付け替え以降は[[寝屋川]]および支流の谷田川を行き来するようになった。 [[天満橋]]にあった[[八軒家船着場]]から上っていくのが有名であり、陸路を歩く参拝者と罵り合って競り勝てば一年の幸を得られたと伝えられている。

昭和47年([[1972年]])[[7月12日]]、 [[昭和47年7月豪雨]]により寺院裏手の山が崩れ、大書院が土砂で埋まって全壊する<ref>「文化財もメチャクチャ ゲリラ豪雨、八つ当たり」『朝日新聞』昭和47年(1972年)7月13日夕刊、3版、11面</ref>。

[[大阪みどりの百選]]に「野崎観音の緑」が選ばれている。


== 境内 ==
== 境内 ==
* 本堂 - [[1950年]]([[昭和]]25年)に尾瀧一峰和尚が日下大龍寺観音堂を譲り受けて移築したもの。[[元禄]]8年([[1695年]])の建物。[[四天王]]によって守護される本堂には、本尊の[[十一面観世音菩薩]]および、[[普賢菩薩]]、[[文殊菩薩]]が祀られている。[[1999年]]([[平成]]11年)に完成した壁画『花蝶菩薩』には、[[黄道十二星座]]が表現されている。
*正門
* 仮羅漢堂 - [[釈迦]]の16人の弟子である[[阿羅漢|十六羅漢]]像を祀る。北河内の遊び歌において「野崎観音十六羅漢、うちの親父は働かん」とユーモラスに歌われた。なお、本来の羅漢堂は[[1951年]](昭和26年)に山崩れによって流失した。羅漢像は修復されたものの、現在の建物は仮設である。
*楼門
* 江口の君堂 - 江口の君を祀り、婦人病と子授けの御利益があるとされる。
*三十三所観音堂
* 薬師堂
*南條神社
* お染久松の塚
*本堂
* [[役小角]]像
[[生駒山地]]北部の中腹に位置し、境内からは[[大阪平野]]を望むことができる。
* 庫裏
* 楼門(竜宮造)
* 地蔵堂
* 三十三所観音堂 - [[西国三十三所|西国三十三所観音霊場]]の観音像を祀る。
* [[鐘楼]] - [[梵鐘]]は[[宝永]]5年([[1708年]])作。
* 石造九重層塔(大東市指定有形文化財) - [[金石文]]によると[[永仁]]2年([[1294年]])に[[沙弥入蓮]]と[[秦氏]]によって造立されたものであり、北河内地方最古の層塔とされる。[[室戸台風]]で最上部を失い、八重層の塔となっていたが、[[1984年]](昭和59年)に地元の中学生によって最上部が発見され、[[2005年]]([[平成]]17年)に復元された。
* [[南條神社]] - 祭神:[[牛頭天王]]([[スサノオノミコト]])。[[神仏習合]]のなごりである。
* 山門(西門)


==文化財==
== 文化財 ==
=== 大東市指定有形文化財 ===
[[画像:Jigenji4.jpg|thumb|石造九重層塔]]
[[画像:Jigenji4.jpg|thumb|石造九重層塔]]
* 木造[[十一面観音|十一面観音菩薩]]立像 - 当寺の本尊。制作時期は平安時代中頃とされる。当初は聖観音立像であったが、江戸時代前期に十一面観音立像の姿に改変された。
*本堂壁画「花蝶菩薩」
* 石造九重層塔
*石造九(八)重層塔 - [[金石文]]によると[[1294年]]に[[沙弥入蓮]]と[[秦氏]]によって造立されたものであり、北河内地方最古の層塔とされる。[[室戸台風]]で最上部を失い、八重層の塔となっていたが昭和59年に最上部が地元中学生により発見され、平成17年に復元された。
*涅槃絵図
いずれも大東市の[[有形文化財]]である。


=== その他 ===
== 慈眼寺を舞台とした作品 ==
* 涅槃絵図
*[[近松門左衛門]]『[[女殺油地獄]]』
* 本堂壁画『花蝶菩薩』
*[[近松半二]]『版歌祭文』

*[[歌舞伎]]・[[人形浄瑠璃]]『野崎村』
== 前後の札所 ==
*[[落語]]『のざきまいり』
; [[河内西国霊場|河内西国三十三箇所]]
*[[東海林太郎]]『野崎小唄』
: 33 [[長栄寺 (東大阪市)|長栄寺]] - '''特別客番 慈眼寺''' - 特別客番 [[大念佛寺]]


== 交通 ==
== 交通 ==
かつて西側一帯には付近の川([[大和川]]付け替え以降は[[寝屋川]]および支流の谷田川)につながる大きな池・[[深野池]]があり、大坂側のターミナルである[[天満橋]]の[[八軒家船着場|八軒家浜]]から深野池にかけて「野崎詣り」の参拝客向けの[[屋形船]]が行き来していた。船の搭乗客の間では、陸路を歩く参拝者と罵り合う風習があったといい、競り勝てば一年の幸を得られる、と信じられたと伝わっている。
===鉄道===

*[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[片町線|片町線(学研都市線)]] [[野崎駅 (大阪府)|野崎駅]]から東へ約1km。
; 鉄道
===バス===
*[[近鉄バス]] 国170号線「野崎観音前」バス停から東へ約200m
: [[片町線|学研都市線]]([[西日本旅客鉄|JR西日本]])[[野崎駅 (大阪府)|野崎駅]]から東へ約1km
; バス
: [[近鉄バス]]「野崎観音前」バス停([[国道170号]]上)から東へ約200m。

== 慈眼寺を舞台とした作品 ==
* [[人形浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]『[[女殺油地獄]]』([[近松門左衛門]])
* 人形浄瑠璃・歌舞伎『新版歌祭文』([[近松半二]]) - 通称『[[新版歌祭文|野崎村]]』。
* [[上方落語]]『[[野崎詣り]]』
* 『野崎小唄』(作詞:[[今中楓渓]] 作曲:[[大村能章]] 歌:[[東海林太郎]])

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[日本の寺院一覧]]
*[[日本の寺院一覧]]
*[[慈眼寺]]
*[[飯盛山城]]
*[[野崎城 (河内国)]]

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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Jigenji (Daito, Osaka)}}
*[http://www.nozakikannon.or.jp/ 野崎観音公式ホームページ]
*[http://www.city.daito.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/57/nozakikannon(jigenji).pdf 野崎観音 - 大東市]
*[http://www.jigenji.jp/ 愛知県にある宗派が同じの慈眼寺ホームページ]


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[[Category:近畿地方の禅寺]]
[[Category:曹洞宗の寺院]]
[[Category:大阪府の寺]]
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2022年10月21日 (金) 07:45時点における最新版

慈眼寺

本堂
所在地 大阪府大東市野崎2丁目7-1
位置 北緯34度43分9.11秒 東経135度38分40.83秒 / 北緯34.7191972度 東経135.6446750度 / 34.7191972; 135.6446750
山号 福聚山
宗派 曹洞宗
本尊 十一面観音(市指定有形文化財
創建年 天平勝宝年間(749年 – 757年
開山 伝・行基
正式名 福聚山慈眼禪寺
別称 野崎観音
札所等 河内西国三十三箇所特別客番
文化財 木造十一面観音菩薩、石造九重層塔(市指定有形文化財)
公式サイト 野崎観音 of のざき観音
法人番号 7122005001657 ウィキデータを編集
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慈眼寺(じげんじ)は、大阪府大東市野崎にある曹洞宗寺院山号は福聚山(ふくじゅさん)。本尊十一面観音野崎観音(のざきかんのん)の通称で知られる。

概要

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生駒山地北部の中腹に位置し、境内からは大阪平野を望むことができる。境内から野崎城跡をへて吊り橋を通って飯盛山飯盛山城跡などへ至る登山道があるため、休日は登山者の参詣も多い。

5月頭の無縁経法要(「有縁無縁すべてのもの[1]」に対し、感謝の読経を捧げる行事)は「野崎詣り(のざきまいり)」の通称で知られ、江戸時代より続く。「野崎詣り」の期間は参拝客で賑わう。

かつての「野崎詣り」は大坂から川を遡り、かつて生駒山の麓に存在した深野池まで舟で行くという参詣の風景が見られ、人形浄瑠璃落語等のフィクション作品の舞台となっている(後述)。

毎週日曜日に座禅会が開かれており、毎月18日には写経会が開かれている。

愛知県知立市慈眼寺は、宗派も山号も全く同じである[2]

歴史

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天平勝宝年間(749年 - 757年)に天竺インド)から来朝した婆羅門僧正が行基に「野崎は釈迦如来が初めて仏法を説いた鹿野苑サールナート)に似ている」と語り、それを受けた行基が、白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる。本尊は長谷寺の本尊と同木から彫られたという。

平安時代遊女江口の君(江口の長者)が、難病治癒の報恩を感謝するため現在の場所に寺を移転し、再興に尽力(同寺では中興の祖と位置付けられている。なお、寺院移転に関しては真言宗関与説がある)した。

室町時代には当寺の後方に河内守護畠山氏によって野崎城が築城されたために戦火にあって衰微した。特に永禄8年(1565年)には三好三人衆松永久秀による合戦の兵火(東大寺大仏殿の戦い)にかかり、本尊を除いて全焼している。

元和2年(1616年)に青厳によって再興されると、天和2年(1682年)に「野崎詣り」が始まる。元禄宝永年間(1688年 - 1710年)までに、同行事が盛んになるにつれて、門前が繁栄するようになった。

昭和47年(1972年7月12日昭和47年7月豪雨により寺院裏手の山が崩れ、大書院が土砂で埋まって全壊する[3]

大阪みどりの百選に「野崎観音の緑」が選ばれている。

境内

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文化財

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大東市指定有形文化財

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石造九重層塔
  • 木造十一面観音菩薩立像 - 当寺の本尊。制作時期は平安時代中頃とされる。当初は聖観音立像であったが、江戸時代前期に十一面観音立像の姿に改変された。
  • 石造九重層塔

その他

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  • 涅槃絵図
  • 本堂壁画『花蝶菩薩』

前後の札所

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河内西国三十三箇所
33 長栄寺 - 特別客番 慈眼寺 - 特別客番 大念佛寺

交通

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かつて西側一帯には付近の川(大和川付け替え以降は寝屋川および支流の谷田川)につながる大きな池・深野池があり、大坂側のターミナルである天満橋八軒家浜から深野池にかけて「野崎詣り」の参拝客向けの屋形船が行き来していた。船の搭乗客の間では、陸路を歩く参拝者と罵り合う風習があったといい、競り勝てば一年の幸を得られる、と信じられたと伝わっている。

鉄道
学研都市線JR西日本野崎駅から東へ約1km。
バス
近鉄バス「野崎観音前」バス停(国道170号上)から東へ約200m。

慈眼寺を舞台とした作品

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脚注

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  1. ^ 恒例行事 野崎観音公式ホームページ
  2. ^ 公式
  3. ^ 「文化財もメチャクチャ ゲリラ豪雨、八つ当たり」『朝日新聞』昭和47年(1972年)7月13日夕刊、3版、11面

関連項目

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外部リンク

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