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「柳生俊則」の版間の差分

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'''柳生 俊則'''('''やぎゅう としのり'''、[[享保]]15年([[1730年]]) - [[文化 (元号)|文化]]13年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1816年]][[6月29日]]))は、[[大和国]][[柳生藩]]の第8代藩主。
'''柳生 俊則'''('''やぎゅう としのり'''、[[享保]]15年([[1730年]]) - [[文化 (元号)|文化]]13年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1816年]][[6月29日]]))は、[[大和国|大和]][[柳生藩]]の第8代藩主。


[[蝦夷]][[福山藩]]主[[松前邦広]]の次男。正室は[[柳生俊峯]]の娘。子は[[柳生俊永]](次男)、[[柳生俊睦]](三男)。官位は従五位下、采女正、[[能登国|能登]]守、[[但馬国|但馬]]守。
[[蝦夷]][[松前藩]]主[[松前邦広]]の次男。正室は[[柳生俊峯]]の娘。子は[[柳生俊永]](次男)、[[柳生俊睦]](三男)。官位は従五位下、采女正、[[能登国|能登]]守、[[但馬国|但馬]]守。


享保15年(1730年)、松前で生まれる。[[宝暦]]3年([[1753年]])7月29日、先代藩主の俊峯の娘と結婚して婿養子となり、宝暦13年([[1763年]])の俊峯の死去により後を継いだ。[[天明]]8年([[1788年]])、将軍・[[徳川家斉]]の剣術指南役を務めている。文化4年([[1807年]])8月5日、養嗣子の[[柳生俊豊]]に家督を譲って隠居し、文化13年(1816年)6月5日に87歳で死去した。墓所:[[東京都]][[練馬区]]桜台の広徳寺。
享保15年(1730年)、松前で生まれる。[[宝暦]]3年([[1753年]])7月29日、先代藩主の俊峯の娘と結婚して婿養子となり、宝暦13年([[1763年]])の俊峯の死去により後を継いだ。[[天明]]8年([[1788年]])、将軍・[[徳川家斉]]の剣術指南役を務めている。文化4年([[1807年]])8月5日、養嗣子の[[柳生俊豊]]に家督を譲って隠居し、文化13年(1816年)6月5日に87歳で死去した。墓所:[[東京都]][[練馬区]]桜台の広徳寺。

2008年3月19日 (水) 00:37時点における版

柳生 俊則やぎゅう としのり享保15年(1730年) - 文化13年6月5日1816年6月29日))は、大和柳生藩の第8代藩主。

蝦夷松前藩松前邦広の次男。正室は柳生俊峯の娘。子は柳生俊永(次男)、柳生俊睦(三男)。官位は従五位下、采女正、能登守、但馬守。

享保15年(1730年)、松前で生まれる。宝暦3年(1753年)7月29日、先代藩主の俊峯の娘と結婚して婿養子となり、宝暦13年(1763年)の俊峯の死去により後を継いだ。天明8年(1788年)、将軍・徳川家斉の剣術指南役を務めている。文化4年(1807年)8月5日、養嗣子の柳生俊豊に家督を譲って隠居し、文化13年(1816年)6月5日に87歳で死去した。墓所:東京都練馬区桜台の広徳寺。

先代
柳生俊峯
柳生氏(柳生藩8代)藩主
1763 - 1807
次代
柳生俊豊