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'''上杉 勝道'''(うえすぎ かつみち、[[文政]]9年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]([[1826年]][[4月5日]])- [[明治]]29年([[1896年]])[[3月22日]])は、[[出羽国]][[米沢藩#支藩|米沢新田藩]]の第5代(最後)の藩主。[[米沢藩]]主・[[上杉斉定]]の四男、[[上杉斉憲]]の弟。第4代藩主・[[上杉勝義]]の甥で養子。正室は[[谷衛昉]]の娘。官位は従五位下、[[駿河国|駿河]]守。
'''上杉 勝道'''(うえすぎ かつみち、[[文政]]9年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]([[1826年]][[4月5日]])- [[明治]]29年([[1896年]])[[3月22日]])は、[[出羽国]][[米沢藩#支藩|米沢新田藩]]の第5代(最後)の藩主。[[米沢藩]]主・[[上杉斉定]]の四男、[[上杉斉憲]]の弟。第4代藩主・[[上杉勝義]]の甥で養子。正室は[[谷衛昉]]の娘。官位は従五位下、[[駿河国|駿河]]守。


[[天保]]13年([[1842年]])3月9日の勝義の隠居により[[家督]]を継いだ。藩政においては洋式軍制を奨励した。また、本藩である[[米沢藩]]の藩政にも協力している。[[戊辰戦争]]においても出陣して活躍した。明治2年([[1869年]])7月、新田藩の所領を本藩に返し、新田藩は廃藩となった。
[[天保]]13年([[1842年]])3月9日の勝義の隠居により[[家督]]を継いだ。天保14年12月18日、従五位下駿河守に叙任する。藩政においては洋式軍制を奨励した。また、本藩である[[米沢藩]]の藩政にも協力している。[[戊辰戦争]]においても出陣して活躍した。明治2年([[1869年]])7月、新田藩の所領を本藩に返し、新田藩は廃藩となった。


明治3年([[1870年]])11月7日[[明治天皇]]の次侍従に就任する。年7月解任される。明治17([[1884年]])78日[[子爵]]となる。明治29年(1896年)3月22に死去た。[[享年]]71。家督は養子[[上杉勝賢|勝賢]](兄[[上杉斉憲|斉憲]]の四男)が継いだ。
明治3年([[1870年]])11月7日[[明治天皇]]の次侍従に就任する。明治4年7月28日、解任される。明治57月29日、隠居養子[[上杉勝賢|勝賢]](亨、兄[[上杉斉憲|斉憲]]の四男)が家督を継いだ。明治29年(1896年)3月22日に死去した。[[享年]]71


{{米沢新田藩主|5代|1842年 - 1869年}}
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2013年5月22日 (水) 13:36時点における版

上杉 勝道(うえすぎ かつみち、文政9年2月28日1826年4月5日)- 明治29年(1896年3月22日)は、出羽国米沢新田藩の第5代(最後)の藩主。米沢藩主・上杉斉定の四男、上杉斉憲の弟。第4代藩主・上杉勝義の甥で養子。正室は谷衛昉の娘。官位は従五位下、駿河守。

天保13年(1842年)3月9日の勝義の隠居により家督を継いだ。天保14年12月18日、従五位下駿河守に叙任する。藩政においては洋式軍制を奨励した。また、本藩である米沢藩の藩政にも協力している。戊辰戦争においても出陣して活躍した。明治2年(1869年)7月、新田藩の所領を本藩に返し、新田藩は廃藩となった。

明治3年(1870年)11月7日明治天皇の次侍従に就任する。明治4年7月28日、解任される。明治5年7月29日、隠居し、養子勝賢(亨、兄斉憲の四男)が家督を継いだ。明治29年(1896年)3月22日に死去した。享年71。