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「柳生俊則」の版間の差分

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[[蝦夷地|蝦夷]][[松前藩]]主[[松前邦広]]の次男。正室は[[柳生俊峯]]の娘。子は[[柳生俊永]](次男)、[[柳生俊睦]](三男)。官位は従五位下、采女正、[[能登国|能登]]守、[[但馬国|但馬]]守。
[[蝦夷地|蝦夷]][[松前藩]]主[[松前邦広]]の次男。正室は[[柳生俊峯]]の娘。子は[[柳生俊永]](次男)、[[柳生俊睦]](三男)。官位は従五位下、采女正、[[能登国|能登]]守、[[但馬国|但馬]]守。


松前で生まれる。通称は為次郎、采女。初名は賢広、満広、俊満。延享4年(1747年)1月15日、将軍[[徳川家重]]にお目見えする。[[宝暦]]3年([[1753年]])7月29日、先代藩主の俊峯の娘と結婚して婿養子とな、宝暦13年([[1763年]])の俊峯の死去により跡を継いだ。[[天明]]8年([[1788年]])、将軍[[徳川家斉]]の剣術指南役を務めている。文化4年([[1807年]])8月5日、養嗣子の[[柳生俊豊|俊豊]]に家督を譲って隠居し、文化13年(1816年)6月5日に87歳で死去した。
松前で生まれる。通称は為次郎、采女。初名は賢広、満広、俊満。延享4年(1747年)1月15日、将軍[[徳川家重]]にお目見えする。[[宝暦]]3年([[1753年]])7月29日、先代藩主の俊峯の娘と結婚して婿養子となる。同年9月18日将軍徳川家重にお目見えする。宝暦13年([[1763年]])10月22日、養父俊峯の死去により跡を継いだ。同年12月9日、従五位下采女正に叙任した。[[天明]]8年([[1788年]])、将軍[[徳川家斉]]の剣術指南役を務めている。文化4年([[1807年]])8月5日、養嗣子の[[柳生俊豊|俊豊]]に家督を譲って隠居し、文化13年(1816年)6月5日に87歳で死去した。
[[ファイル:Hotokuji11s5s3200.jpg|thumb|220px|[[芳徳寺]]境内にある柳生一族の墓所。右端が俊則の墓]]
[[ファイル:Hotokuji11s5s3200.jpg|thumb|220px|[[芳徳寺]]境内にある柳生一族の墓所。右端が俊則の墓]]
墓所は[[東京都]][[練馬区]]桜台の広徳寺と[[奈良県]][[奈良市]]柳生町の[[芳徳寺]]。
墓所は[[東京都]][[練馬区]]桜台の広徳寺と[[奈良県]][[奈良市]]柳生町の[[芳徳寺]]。

2016年6月19日 (日) 05:30時点における版

柳生 俊則(やぎゅう としのり、享保15年(1730年)- 文化13年6月5日1816年6月29日))は、大和柳生藩の第8代藩主。

蝦夷松前藩松前邦広の次男。正室は柳生俊峯の娘。子は柳生俊永(次男)、柳生俊睦(三男)。官位は従五位下、采女正、能登守、但馬守。

松前で生まれる。通称は為次郎、采女。初名は賢広、満広、俊満。延享4年(1747年)1月15日、将軍徳川家重にお目見えする。宝暦3年(1753年)7月29日、先代藩主の俊峯の娘と結婚して婿養子となる。同年9月18日、将軍徳川家重にお目見えする。宝暦13年(1763年)10月22日、養父俊峯の死去により跡を継いだ。同年12月9日、従五位下采女正に叙任した。天明8年(1788年)、将軍徳川家斉の剣術指南役を務めている。文化4年(1807年)8月5日、養嗣子の俊豊に家督を譲って隠居し、文化13年(1816年)6月5日に87歳で死去した。

芳徳寺境内にある柳生一族の墓所。右端が俊則の墓

墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺