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「ロバート・ド・ヴィアー (アイルランド公)」の版間の差分

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[[アイルランド公爵]]および[[ダブリン侯爵]]および第9代[[オックスフォード伯爵]]'''ロバート・ド・ヴィアー'''({{lang-en|Robert de Vere, Duke of Ireland, Marquess of Dublin, and 9th Earl of Oxford}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]]}}、[[1362年]][[1月16日]] - [[1392年]][[11月22日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の貴族。
[[アイルランド公爵]]および[[ダブリン侯爵]]および第9代[[オックスフォード伯爵]]'''ロバート・ド・ヴィアー'''({{lang-en|Robert de Vere, Duke of Ireland, Marquess of Dublin, and 9th Earl of Oxford}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]]}}、[[1362年]][[1月16日]] - [[1392年]][[11月22日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の貴族。


[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]の側近だが、{{仮リンク|訴追派貴族|en|Lords Appellant}}らの策動で反逆罪に問われて失脚した。
[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]の側近だが、[[訴追派貴族]]らの策動で反逆罪に問われて失脚した。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
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しかし1380年代に幼い国王[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]と親しい友人となり、それがきっかけとなって国王側近として急速に台頭する{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=549}}。[[1385年]]には一代限りの爵位としてダブリン侯爵(イングランドで初めての[[侯爵]]位)、ついで翌1386年には{{仮リンク|アイルランド公爵|en|Duke of Ireland}}に叙されるとともに<ref name="CP EO"/>、アイルランド内において国王と同等の権力をもってアイルランドを統治することを認められた{{sfn|青山吉信編|1991| p=382}}。
しかし1380年代に幼い国王[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]と親しい友人となり、それがきっかけとなって国王側近として急速に台頭する{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=549}}。[[1385年]]には一代限りの爵位としてダブリン侯爵(イングランドで初めての[[侯爵]]位)、ついで翌1386年には{{仮リンク|アイルランド公爵|en|Duke of Ireland}}に叙されるとともに<ref name="CP EO"/>、アイルランド内において国王と同等の権力をもってアイルランドを統治することを認められた{{sfn|青山吉信編|1991| p=382}}。


立身出世を希望する多くの者が彼にすり寄ったが{{sfn|青山吉信編|1991| p=382}}、それだけに政敵たちから危険視された{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=549}}。そして[[1387年]]には[[グロスター公]][[トマス・オブ・ウッドストック]]ら{{仮リンク|訴追派貴族|en|Lords Appellant}}によって反逆罪に問われそうになった。これに対抗して彼は国王からも支援を受けて[[チェスター]]で挙兵した。しかし1387年春の{{仮リンク|ラドコット・ブリッジの戦い|en|Battle of Radcot Bridge}}で敗れ、大陸への亡命を余儀なくされた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=549}}{{sfn|青山吉信編|1991| p=384-386}}。
立身出世を希望する多くの者が彼にすり寄ったが{{sfn|青山吉信編|1991| p=382}}、それだけに政敵たちから危険視された{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=549}}。そして[[1387年]]には[[グロスター公]][[トマス・オブ・ウッドストック]]ら[[訴追派貴族]]によって反逆罪に問われそうになった。これに対抗して彼は国王からも支援を受けて[[チェスター]]で挙兵した。しかし1387年春の{{仮リンク|ラドコット・ブリッジの戦い|en|Battle of Radcot Bridge}}で敗れ、大陸への亡命を余儀なくされた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=549}}{{sfn|青山吉信編|1991| p=384-386}}。


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亡命中の[[1388年]]2月、訴追派貴族の主導で[[非情議会]]が招集され、その[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]において他の国王側近たちとともに反逆罪で訴追されて死刑判決を受けている{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=469-470/549}}。


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亡命先の[[ルーヴァン]]で猪狩りをしていた時に狩猟事故で死亡した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=549}}。子供がなかったため、オックスフォード伯爵位は叔父の{{仮リンク|オーブリー・ド・ヴィアー (第10代オックスフォード伯)|label=オーブリー・ド・ヴィアー|en|Aubrey de Vere, 10th Earl of Oxford}}に継承された<ref name="CP EO"/>。

2016年7月22日 (金) 17:32時点における版

ラドコット・ブリッジの戦い英語版に敗れて国外亡命するアイルランド公を描いた絵画。

アイルランド公爵およびダブリン侯爵および第9代オックスフォード伯爵ロバート・ド・ヴィアー英語: Robert de Vere, Duke of Ireland, Marquess of Dublin, and 9th Earl of Oxford, KG1362年1月16日 - 1392年11月22日)は、イングランドの貴族。

リチャード2世の側近だが、訴追派貴族らの策動で反逆罪に問われて失脚した。

経歴

1362年1月16日、第8代オックスフォード伯爵トマス・ド・ヴィアー英語版とその妻モード・ド・アフォード英語版の一人息子として生まれる[1]。母のモードは初代サフォーク伯ロバート・ド・アフォード英語版の姪にあたり、かつ第3代ランカスター伯ヘンリー(ヘンリー3世の孫)の孫にあたる[1]

1371年9月に父が死去し、第9代オックスフォード伯爵位を継承した[1][2]。ヴィアー家は歴史こそ古いが、所領が多いわけではなく、これといって重要な役割を果たした先祖もいなかった。彼自身も凡庸な人物だったという[3]

しかし1380年代に幼い国王リチャード2世と親しい友人となり、それがきっかけとなって国王側近として急速に台頭する[2]1385年には一代限りの爵位としてダブリン侯爵(イングランドで初めての侯爵位)、ついで翌1386年にはアイルランド公爵に叙されるとともに[1]、アイルランド内において国王と同等の権力をもってアイルランドを統治することを認められた[3]

立身出世を希望する多くの者が彼にすり寄ったが[3]、それだけに政敵たちから危険視された[2]。そして1387年にはグロスター公トマス・オブ・ウッドストック訴追派貴族によって反逆罪に問われそうになった。これに対抗して彼は国王からも支援を受けてチェスターで挙兵した。しかし1387年春のラドコット・ブリッジの戦い英語版で敗れ、大陸への亡命を余儀なくされた[2][4]

亡命中の1388年2月、訴追派貴族の主導で非情議会が招集され、その貴族院において他の国王側近たちとともに反逆罪で訴追されて死刑判決を受けている[5]

亡命先のルーヴァンで猪狩りをしていた時に狩猟事故で死亡した[2]。子供がなかったため、オックスフォード伯爵位は叔父のオーブリー・ド・ヴィアー英語版に継承された[1]

爵位

家族

1376年にフランス貴族クシー卿フランス語版アンゲラン7世・ド・クシー(イギリスの爵位ベッドフォード伯位も所持)の娘フィリッパ・ド・クシー英語版(-1411)と最初の結婚をした。しかし彼女に領地継承の見込みがなかったため、離縁した[6]

離婚後、Agnes de Launcekronaと再婚した。いずれの結婚でも子供はなかった[1]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g Heraldic Media Limited. “Oxford, Earl of (E, 1142 - 1703)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年11月24日閲覧。
  2. ^ a b c d e 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 549.
  3. ^ a b c 青山吉信編 1991, p. 382.
  4. ^ 青山吉信編 1991, p. 384-386.
  5. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 469-470/549.
  6. ^ 青山吉信編 1991, p. 401.

参考文献

  • 青山吉信編 編『イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460102 
  • 松村赳富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478 
公職
先代
第8代オックスフォード伯英語版
大侍従卿
1371年1388年
次代
初代エクセター公
司法職
先代
初代ヨーク公
チェスター裁判官英語版
1387年1388年
次代
初代グロスター公
イングランドの爵位
先代
トマス・ド・ヴィアー英語版
第9代オックスフォード伯爵
1371年1388年
次代
オーブリー・ド・ヴィアー英語版