コンテンツにスキップ

「20世紀のクラシック音楽」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
内容追加。
-Template:工事中 72時間経過のため。
1行目: 1行目:
{{工事中}}{{出典の明記|date=2018年2月27日 (火) 02:37 (UTC)}}
{{出典の明記|date=2018年2月27日 (火) 02:37 (UTC)}}
{{Portal クラシック音楽}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''20世紀のクラシック音楽'''は、それ以前の世紀の[[クラシック音楽|西洋古典音楽]]と比較すると極めて多様になった。19世紀までの作曲家は、たとえ出身国が違っていても、よく似た音楽の様式に基づいて作曲をした。例えば、[[ウィーン古典派]]の時代(1740年-1820年頃)の作曲家は、楽曲形式に何を用いるか{{Efn|例えば[[ソナタ形式]]}}、[[オーケストラ]]には何の楽器を採用するか、良い響きの音とはどのようなものかといった問題について、概ね似たことを考えていた。
'''20世紀のクラシック音楽'''は、それ以前の世紀の[[クラシック音楽|西洋古典音楽]]と比較すると極めて多様になった。19世紀までの作曲家は、たとえ出身国が違っていても、よく似た音楽の様式に基づいて作曲をした。例えば、[[ウィーン古典派]]の時代(1740年-1820年頃)の作曲家は、楽曲形式に何を用いるか{{Efn|例えば[[ソナタ形式]]}}、[[オーケストラ]]には何の楽器を採用するか、良い響きの音とはどのようなものかといった問題について、概ね似たことを考えていた。

2021年5月25日 (火) 13:09時点における版

20世紀のクラシック音楽は、それ以前の世紀の西洋古典音楽と比較すると極めて多様になった。19世紀までの作曲家は、たとえ出身国が違っていても、よく似た音楽の様式に基づいて作曲をした。例えば、ウィーン古典派の時代(1740年-1820年頃)の作曲家は、楽曲形式に何を用いるか[注釈 1]オーケストラには何の楽器を採用するか、良い響きの音とはどのようなものかといった問題について、概ね似たことを考えていた。

これに対して20世紀のクラシックは多様である。これまでに試されてきたものとは異なる形式、音の響き、音楽美を追求した作曲法について、異なる考え方を持った作曲家がたくさんいたことから、多くの「楽派」が生まれた。20世紀のクラシック音楽の「楽派」の名称には、単語末に「主義」をつけるものが多い[注釈 2]。また、ジャズワールドミュージック(非西洋古典音楽)、フォークソング(俗謡)の影響を受けたものもある。さらに20世紀後半には「電子音楽」が生まれ、のちには「ミニマル」「ポストモダン」といった音楽も生まれた。

一般的に時代の名称はその時代が過ぎ去ってから名づけられる[注釈 3]。そのため20世紀のクラシック音楽をなんと呼ぶかは難しい問題である。一方で、1900年以後の音楽は「現代音楽」とひとくくりに呼ばれることが多く、おおむね1975年以後、21世紀現在までの音楽は「コンテンポラリー(同時代の)音楽」と呼ばれることがある。

本項では、1900年から1999年までに作曲された音楽について述べる。

新ウィーン楽派と新古典主義音楽

20世紀初頭の作曲家の中には、リヒャルト・ワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」に登場するトリスタン和音などに代表されるような、和声学上の変革から、調性に基づいた音楽の体系はすでに古くなってしまったと考え、それまでとは異なるアプローチを模索し、何か新しいことに挑戦しようと感じた者が多かった[1]アルノルト・シェーンベルクイーゴリ・ストラヴィンスキーは当時の作曲家の中で最も重要な2人である。そして2人は音楽の理論についても非常に異なった考えを持っていた。

新ウィーン楽派

シェーンベルク

シェーンベルクの場合、それまでの調性的な音楽の延長として、「無調」という概念を提唱した[2]。彼はその傾向をさらに押し進めて、最終的に「十二音技法」と呼ばれる作曲理論にまで発展させた[注釈 4][2]。これは、楽曲の中でさまざまなかたちに変形しうる、特定の順序で並んだ「音列」により構成された、無調による音楽を作曲するための技法である[3]。十二音技法を用いる作曲法を「セリアル主義」という[注釈 5][4]。こうしたシェーンベルクの十二音技法の影響を受けた作曲家は多く、特に彼の門下にあった、アントン・ヴェーベルンアルバン・ベルクなどは、師であるシェーンベルクと並べて「新ウィーン楽派」と呼ばれた。

新古典主義音楽

ストラヴィンスキー

ストラヴィンスキーはロシア出身の作曲でありロシアの文化に着想を得て「春の祭典」という題のバレエ音楽を書いた。春の祭典は、踊り手が困惑するほど不規則なリズムに満ちており、一部、複調になる部分もあった[注釈 6]。その後、ストラヴィンスキーは、プルチネルラのような18世紀のバロック音楽時代に書かれた音楽のメロディーに不協和音を加え、斬新な和声をつけたような音楽を作曲するようになった[5]。このような作曲法を「新古典主義」と呼ぶ。ストラヴィンスキーの音楽はセリアル主義の音楽に反対するものと捉える人が多いが、ストラヴィンスキー自身は晩年に十二音技法の使用を始めている。 またフランスでは、第一次世界大戦後より、詩人のジャン・コクトーと、作曲家のエリック・サティの影響を受けた新古典主義音楽の一派であるフランス6人組が登場し、反ロマン主義、反ドビュッシーを掲げながら活動をした[6]

印象主義

ドビュッシー

フランスでは、絵画の分野で「印象主義」と呼ばれる美術運動が興隆しており、これに関心を示す作曲家もいた。クロード・ドビュッシーは、しばしば「印象主義(絵画)的」と呼ばれる作風の音楽を作曲した[7]。彼はジャワ島の音楽に着想を得て、全音音階五音音階を自身の音楽の要素に入れ込んだ[8]。ドビュッシーの音楽は、交響詩「」や牧神の午後への前奏曲など、曲全体の調性は明瞭であるものの、随所で調性が曖昧にぼかされるような手法を取っている。同じく代表的な印象派の作曲家で知られるモーリス・ラヴェルの音楽は、ドビュッシーに似たところもあるが、その独特な管弦楽法から、結果としてドビュッシーとは異なる様相を持った作品を生み出した[9]

その後のフランスの作曲家としては例えば、オリヴィエ・メシアンがいる。メシアンは「移調の限られた旋法」と呼ばれる、新しい音階に基づいた体系を使って作曲した。メシアンはまた、非西洋世界の音楽にも興味を持ち、鳥のさえずりや鳴き声を曲の中に取り込んだりもした。

後期ロマン主義

上述のようなロマン主義への異議申し立てというムーヴメントと同時並行的に、基本的に19世紀に確立されたロマン主義(前期ロマン派)の様式で作曲する音楽家もいた。イギリスのエドワード・エルガーの音楽はよく、「エドワード国王時代風」と呼ばれる。その他の大英帝国の作曲家たちは、帝国内各地の民謡(フォークソング)に着想を得た音楽を多く作曲した。そのような作曲家としては、ヴォーン・ウィリアムスバタワースクィルターフィンジがいる。フレデリック・ディーリアスは非常に印象主義的でありながら同時にロマン主義的でもある音楽を作曲した。ロシアのセルゲイ・ラフマニノフとドイツのリヒャルト・シュトラウスは、亡くなる1940年代までロマン主義楽派の様式を貫き通した。フィンランドのジャン・シベリウスとデンマークのカール・ニールセンは調性音楽の枠内で偉大な交響曲を作曲した。イタリアのプッチーニはロマン主義楽派の様式で、「ヴェリズモ」と呼ばれる写実主義的なオペラを作曲した。

伝統に基づいたその他の路線

この時代、伝統的な作曲技法を守りながら、斬新な方法で、楽曲の中で調性を取り扱う作曲家も少なからずいた。そのような作曲家としては、イギリスでは、ベンジャミン・ブリテンマイケル・ティペットウィリアム・ウォルトンがおり、アメリカではサミュエル・バーバーロイ・ハリスアラン・ホヴァネスがいる。ドイツのパウル・ヒンデミットはロマン主義楽派の美学上の思考様式からの脱却を目指し、「新即物主義」を提唱した。

コンテンポラリー音楽の作曲家たちの一部に、非常に宗教的な音楽が見られることもコンテンポラリー音楽の特徴の一つである。ジョン・タヴナーアルヴォ・ペルトがそうした傾向を見せる作曲家として知られる。

第一次世界大戦の影響

1914年から1918年までの4年にわたって続いた第一次世界大戦は、それまでのヨーロッパの社会構造でもあった「貴族」や「ブルジョワジー」といった基盤の没落を呼び、それまで彼らの庇護によって支えられてきたクラシック音楽は、それまでの大規模管弦楽による交響曲やオペラなどがその補助を失うなどの影響を受けた[10]。そうした中で作曲家によっては、大衆音楽や映画音楽に転身する者や、庇護を求めずに新しい分野の開拓へと挑む者など、さまざまな方面への転向が相次いだ[10]

ジャズの影響

アメリカで生まれたジャズがクラシックの作曲家に与えた影響は大きい。ジョージ・ガーシュインはジャズとクラシックを折衷させた音楽を作った。アーロン・コープランドレナード・バーンスタインは自作にジャズの要素を取り入れた。ヨーロッパにおいては、ラヴェル、クルト・ヴァイルダリウス・ミヨーなどがジャズのイディオムを使って作曲をした。

日本のクラシック音楽の影響

1912年から1914年にかけてドイツに留学していた山田耕筰は、この留学時代に日本人初となる管弦楽作品である「序曲 ニ長調」や、初となる交響詩「暗い扉」と姉妹作「曼陀羅の華」のほか、第一次世界大戦に伴って日本人初となった交響曲に「勝どきと平和」という表題を与えた[11]

第二次世界大戦期のクラシック音楽

ナチス政権期のドイツにおけるクラシック音楽

ヒンデミット

1930年代より、ドイツでナチ党が政権を握ると、シェーンベルクはじめ、ドイツ国内[注釈 7]の多くのユダヤ人音楽家がドイツから亡命した。ナチス政権の場合、ユダヤ人による作品と共産主義者による作品、そして現代的な無調作品を「退廃音楽」として批判し、そうした作品の創作を禁じた[12]。特にパウル・ヒンデミットのオペラ「画家マチス」の初演の禁止措置は、のちにヒンデミット事件と呼ばれる作曲家排斥事件に発展し、指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラーが声明を出すなどの騒動となった[12]

一方で、ナチス政権期においては、ヒトラーがワーグナー好きであったことから、ワーグナーが建設したバイロイト祝祭劇場を聖地化し、またワーグナーの遺族たちもまたそこに接近した[13]。さらにはドイツの神話や民話、あるいは伝統的な書法に基づくような作風であったカール・オルフカルミナ・ブラーナや、ヴェルナー・エックの作品は、政権側からも歓迎された[13]

ファシズム政権期のイタリアにおけるクラシック音楽

ドイツよりも少し早い1928年に成立した、ベニート・ムッソリーニによる政権期においては、当初は芸術に対する規制はそれほどなかったものの、たとえば指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニジャコモ・プッチーニの遺作となったオペラ「トゥーランドット」の上演の際にファシスト党歌の演奏を拒否し、ファシスト党員からの暴行を受けるなどして国外に逃れるなどの事件があった[14]

一方でオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」で成功を収めたピエトロ・マスカーニや、交響詩「ローマの松」、「ローマの噴水」、「ローマの祭り」の「ローマ三部作」で知られるオットリーノ・レスピーギや、アルフレード・カゼッラなどのやはりドイツ同様にイタリアの歴史を題材にしていたり、あるいはファシスト党に対して忠誠を示していた作曲家の作品は、政権からも歓迎を受けた[14]

ヴィシー政権期および占領地域でのフランスにおけるクラシック音楽

1939年、パリ占領による敗戦を経験し、中南部の自由地域に成立したヴィシー政権では、オペラ座は通常通り稼働していたり、フランス人作曲家の作品も日常的に取り入れられたことから、一見してドイツやイタリア、ソ連のような苛烈な芸術への規制は見受けられなかったが、ピアニストのアルフレッド・コルトーを音楽顧問に就任させ、フローラン・シュミットジャン・フランセといった作曲家らをドイツに訪問させるなどの、対独協力が行われた[15]

一方で、ヴェルコールなどの他の芸術分野でも見られるような、沈黙することを要とした占領期のフランスにおける一種の抵抗運動は、音楽においては、オネゲル交響曲第2番や、メシアン世の終わりのための四重奏曲などが代表的である[16]

ソビエト連邦におけるクラシック音楽

ロシアにおいては、1917年の革命後、ソビエト連邦が成立した。1910年代にはロシア・アヴァンギャルドという芸術運動が流行し、アルトゥール・ルリエーニコライ・ロスラヴェッツイワン・ヴィシネグラツキーなどが活躍した[17]。しかしこうした実験的な芸術運動は、体制がより強固になっていくにつれて、禁止されるようになった[18]。ソ連の政治家は、こうした運動に変わるものとして、「社会主義リアリズム」を作曲家に要求し、作曲家は自身の望む表現と政治家たちを満足させるような表現との間で葛藤した。ロシアでは19世紀的な楽曲形式である「交響曲」を作曲する伝統が継続しており、20世紀のソ連で交響曲を作曲した作曲家としては、セルゲイ・プロコフィエフドミトリ・ショスタコーヴィチニコライ・ミャスコフスキーなどがその分野で活躍した[19]

1940年代の日本におけるクラシック音楽

1940年は、神武天皇の即位から数えて2600年を祝う、紀元二千六百年記念行事が催され、音楽の分野においても皇紀2600年奉祝曲という形で、国内の作曲家のみならず、海外の作曲家に対しても委嘱を行った[20]

国内の作曲家ではすでに大御所となった山田耕筰がオペラ「黒船」を書き、大澤寿人橋本國彦深井史郎尾高尚忠といった若手の新作なども発表された[20]。中でも、信時潔の交声曲「海道東征」は、神武東征を題材にしたカンタータで、当時のナショナリズムを大いに刺激させた[20]

海外への委嘱作品としては、日独伊三国同盟を結んでいたことから、ドイツからシュトラウスの「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」が、イタリアからはピツェッティ交響曲 イ長調が、またすでにヴィシー政権が誕生していたことから、フランスからイベール祝典序曲が、また同じ枢軸国であったハンガリーからヴェレシュ・シャーンドル交響曲第1番が送られた[20]。他にもイギリスからベンジャミン・ブリテンシンフォニア・ダ・レクイエムを送るも、作品の内容から演奏を拒否され、またアメリカにも委嘱をしていたが、日米関係の悪化から実現することはなかった[20]

アメリカにおけるクラシック音楽

1940年代のアメリカは、ドイツやイタリアでのファシズム政権、ロシアでの共産主義政権の誕生に伴って、多くのドイツ人、イタリア人、ロシア人、そしてユダヤ人などの亡命を受け入れてきた。

アメリカに亡命した音楽家には、シェーンベルクやストラヴィンスキーといったセリー主義と新古典主義の中心人物のほか、ファシズム政権から逃れてきたヒンデミットやトスカニーニ、バルトーク・ベーラ、さらにはユダヤ人のエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトオットー・クレンペラーブルーノ・ワルターなどが亡命を果たした[21]

戦後の潮流

ダルムシュタット楽派

第二次世界大戦後、すぐの1946年、ドイツのダルムシュタットで、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会が開催され、それまで表舞台から姿を消し去っていたシェーンベルクの「十二音技法」が再発見され、ピエール・ブレーズカールハインツ・シュトックハウゼンルイジ・ノーノがこの影響を受けた[22]。彼らは、それまで12個の音のみを全て使うだけでなく、音価や強弱といった部分にも、列の概念を導入させたトータル・セリエリズムを提唱した[23]。ブレーズやシュトックハウゼンをはじめ、この講習会に参加した多くの作曲家が電気信号に基づく音を楽曲の中で用いる実験も行った。

偶然性

こうしたヨーロッパでの、より厳密なセリー主義への傾倒に対して、アメリカでは1950年代にジョン・ケージモートン・フェルドマンを筆頭に、中国の易経や、図形譜などに基づく、偶然を主題とする潮流が形成されていく[24]。特にケージの「4分33秒」は、その分野の傑作として知られている[24]。こうした


ミニマル主義

1960年代に入ると、同時代の音楽の多くが複雑すぎるという考えを持った作曲家が現れた。当時、エドガー・ヴァレーズエリオット・カーターミルトン・バビットといった前衛派の音楽は、大衆にとってあまりにも数学的、主知主義的になっており、理解が難しいものになりつつあった。前衛に反発する、スティーヴ・ライヒフィリップ・グラステリー・ライリージョン・ケージジョン・アダムズといった作曲家たちは、情動を伴う音楽を志向した。彼らは、単純な楽想を何度も反復させると同時に、少しずつそれを変形するといった手法に基づいて楽曲を構成した。このような作曲技法は「ミニマル主義」(ミニマリズム)と呼ばれる。

注釈

  1. ^ 例えばソナタ形式
  2. ^ セリアル主義」「表現主義」「新古典主義」「印象主義」等々
  3. ^ 例えば、「中世」は中世に相当する時代が過ぎ去ってから、そう呼ばれるようになる
  4. ^ シェーンベルクはこの理論を「相互の関係のみに依存する12の音による作曲法」と呼んだ[2]
  5. ^ セリアルとは「一続きの」を意味する
  6. ^ 複調とは異なる2以上の調の音が響くことである。
  7. ^ 時代が進むにつれてオーストリアやチェコスロバキアも含まれる。

脚注

  1. ^ シェーンベルク 2019, p. 168-169.
  2. ^ a b c シェーンベルク 2019, p. 165-174.
  3. ^ ボッスール 2015, p. 45.
  4. ^ 木石ら 2018, p. 16.
  5. ^ 沼野 2021, p. 41-42.
  6. ^ 沼野 2021, p. 53-55.
  7. ^ 宮下 2006, p. 43.
  8. ^ 宮下 2006, p. 75.
  9. ^ 宮下 2006, p. 78.
  10. ^ a b 沼野 2021, p. 22-28.
  11. ^ 後藤 2014, p. 93.
  12. ^ a b 沼野 2021, p. 93-94.
  13. ^ a b 沼野 2021, p. 94-95.
  14. ^ a b 沼野 2021, p. 97-99.
  15. ^ 沼野 2021, p. 99-100.
  16. ^ 沼野 2021, p. 101-102.
  17. ^ 沼野 2021, p. 76.
  18. ^ 亀山 1996, p. 188-189.
  19. ^ 沼野 2021, p. 79-88.
  20. ^ a b c d e 沼野 2021, p. 106-108.
  21. ^ 沼野 2021, p. 103-104.
  22. ^ 沼野 2021, p. 115.
  23. ^ 木石ら 2018, p. 28.
  24. ^ a b 沼野 2021, p. 129-132.

参考文献

  • 後藤暢子『山田耕筰 作るのではなく生む』ミネルヴァ書房、2014年8月10日。