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岡部忠澄

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岡部忠澄
岡部忠澄の墓 (埼玉県深谷市)
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代
生誕 不詳
死没 建久8年(1197年
別名 六弥太
墓所 埼玉県深谷市普済寺
主君 源義朝平清盛源頼朝
氏族 岡部氏 (小野氏流)
父母 父:岡部行忠
兄弟 岡部忠澄岡部行好
岡部広澄岡部景澄岡部忠季
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岡部 忠澄(おかべ ただずみ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将御家人武蔵七党猪俣党の庶流・岡部氏 の当主。

保元の乱平治の乱では源義朝家人として、熊谷直実斎藤実盛猪俣範綱とともに従軍して活躍した。源義朝の死後は故郷の岡部に戻っていたが、治承4年(1180年)に源義朝の遺子・源頼朝が挙兵すると、それに従うこととなった。木曾義仲追討戦の後、源義経の指揮下に入り、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いでは平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党の助太刀によって忠度を討ち取った。

平家滅亡後は源頼朝に従い、その御家人として奥州藤原氏征伐(奥州合戦)や源頼朝の上洛にも付き従った。

建久8年(1197年)没。


逸話

  • 平忠度を討ち取った岡部忠澄であったが、忠度の死を惜しみ、その霊を慰めるために所領の岡部原に五輪の塔を建立した。その後、五輪の塔は慶安2年(1649年)に、清心寺深谷上杉氏家臣岡谷清英創建)に移築された。


参考文献

  • 『翻刻「武蔵七党系図」』山中義臣(筆) 、加藤功(校訂)、加藤功(出版)、2001年(非売品)「全国書誌番号:20447015

関連項目