織田信忠
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 弘治3年(1557年) |
死没 | 天正10年6月2日(1582年6月21日) |
改名 | 奇妙丸(幼名)、信重、信忠 |
別名 | 勘九郎、三位中将、岐阜中将(通称) |
戒名 |
大雲院三品羽林仙巖大禅定門 景徳院[1] 光勝院殿贈三品羽林郎悦巌大禅定門[2] |
官位 |
従五位下、出羽介、正五位下、秋田城介、 従四位下、従四位上、左近衛少将、 正四位下、従三位・左近衛中将 |
氏族 | 織田氏 |
父母 |
父:織田信長、母:生駒氏? 養母:濃姫 |
兄弟 | 信正、信忠、信雄、信孝、於次(羽柴秀勝)、勝長、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次、ほか |
妻 |
正室:なし 側室:塩川長満の娘・鈴 他 |
子 | 秀信、秀則 |
織田 信忠(おだ のぶただ)は、安土桃山時代の武将・大名。織田信長の嫡男で世子である。
生涯
少年期
弘治3年(1557年)、織田信長の長男(信正が実在すれば次男)として尾張国丹羽郡小折(現在の愛知県江南市)の生駒屋敷で生まれる。実母は生駒氏という説があるが、異説もある。幼名は奇妙丸。元服してはじめ勘九郎信重を名乗り、のちに信忠と改める。
永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆遠山氏の娘が信長養女となり武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となり婚姻同盟が成立していた。『甲陽軍鑑』に拠れば永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係の補強として信忠と信玄五女・松姫と婚約が成立したという。
武田・織田間は友好的関係を保ち続けていたが、永禄年間に武田氏は織田氏の同盟国である徳川家康の領国にあたる三河・遠江方面への侵攻を開始し、元亀3年(1572年)に信玄は信長と敵対した将軍・足利義昭の信長包囲網に呼応して織田領への侵攻を開始し(西上作戦)、これにより武田・織田間は手切となり、松姫との婚約は事実上解消されている。以後、武田氏では勝頼末期に織田氏との関係改善が試みられるものの(甲江和与)、武田・織田間の和睦は成立していない。
元亀3年(1572年)に元服し、江北攻めで初陣して以来、信長に従って石山合戦、伊勢長島攻め、長篠の戦いと各地を転戦する。
信長の後継者
天正3年(1575年)、岩村城攻めの総大将として出陣(岩村城の戦い)。夜襲をかけてきた武田軍を撃退して1100余りを討ち取るなど功を挙げ、武田家部将・秋山虎繁(信友)を降して岩村城を開城させた。以後、一連の武田氏との戦いにおいても、大いに武名を上げていく事となる。
天正4年(1576年)、信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られてその支配を任され、岐阜城主となった。同年に 正五位下に叙せられ、出羽介次いで秋田城介に任官し将軍格となることを目指した。足利義昭は織田政権下でも備後在国の征夷大将軍であったため、織田家は征狄将軍になるしかなかった。また、この官職は越後守護家でもある上杉家との対抗上、有意義であったともされる。
天正5年(1577年)2月に雑賀攻めで中野城を落とし、3月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降す。8月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を率い、松永久秀・久通父子が篭城する信貴山城を落とした(信貴山城の戦い)。その功績により従三位・左近衛権中将に叙任される。この頃より、信長に代わり総帥として諸将を率いるようになる。
天正6年(1578年)、播磨国の上月城を奪還すべく、毛利家の総帥・毛利輝元が10万以上の大軍を動員し、自らは備中高松城に本陣を置き、吉川元春・小早川隆景・宇喜多忠家・村上水軍の6万1,000人を播磨国に展開させ上月城を包囲した。信長も上月城救援の為、信忠を総大将に明智光秀、丹羽長秀・滝川一益ら諸将を援軍に出し、三木城を包囲中の羽柴秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開する。しかし、膠着状態におちいったため、戦略上の理由から信長は上月城からの撤退を指示し、三木城の攻略に専念させる。篭城する尼子勝久主従は降伏し、上月城は落城した(上月城の戦い)。
天正8年(1580年)には、尾張南部を統括していた佐久間信盛と西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放された為、美濃・尾張の二ヶ国における支配領域が広がる。
武田征伐
天正10年(1582年)の武田征伐では、総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康・北条氏政と共に武田領へと進攻を開始する。信忠は伊那方面から進軍して、信濃国南部の武田方の拠点である飯田城・高遠城を次々と攻略する。信忠の進撃の早さに、体勢を立て直すことが出来ず諏訪から撤退した武田勝頼は、新府城を焼き捨てて逃亡する。信忠は追撃戦を開始して、信長の本隊が武田領に入る前に、武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させた。3月26日、甲府に入城した信長は、信忠の戦功を賞し梨地蒔の腰物を与え、「天下の儀も御与奪」との意志も表明する。論功行賞により、寄騎部将の河尻秀隆が甲斐国(穴山梅雪領を除く)と信濃国諏訪郡、森長可が信濃国高井・水内・更科・埴科郡、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられた事から、美濃・尾張・甲斐・信濃の四ヶ国に影響力を及ぼす事となる。
本能寺の変
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際には、信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく京都の妙覚寺(この寺には信長もたびたび滞在していた)に滞在しており、信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代・村井貞勝らと共に儲君(皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所(御所の一つ)に移動、信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城し、善戦を見せた。しかし明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、衆寡敵せずに自害した。介錯は鎌田新介が務めたという。享年26。父同様、その首が明智方に発見されることはなかった。
また、その奮戦の具体的な内容だが、『惟任謀反記』や『蓮成院記録』によると自ら剣をふるい敵の兵を斬ったらしい。
人物
- かつては暗愚な凡将との評価が有力だったが、現在では、信長には及ばないものの後継者としては十分な能力・資質を備えた武将との評価が主流になっている。信忠を暗愚とする根拠は、高柳光寿の著書『青史端紅』において松平信康切腹事件の真相について語られた説に由来する。この説によれば、信長が、自分の嫡子である信忠に比べて、家康の嫡子信康の方が遙かに優れていたため、嫡子の将来を危惧し信康を除いておいたことが事件の真相であるという。この説は、高柳光寿が当時の学会で権威を持っていたこともあって広く浸透し、その結果、信忠を暗愚とするイメージが長く定着することとなった。この説は、あくまで信康の切腹を中心に据え、その動機の一つの可能性を示したに過ぎず、両者の事績を冷静に比較したものではない。そのため近年、信忠の事績が見直され、信長の後見を考慮に入れても信忠は無難に軍務や政務をこなしていたことが指摘された。そのため信忠が暗愚であるとする従来の説は根拠に乏しいとの見方が有力になり、現在主流の評価に移ってきている。いずれにしても人物評が定着するのはまだ先のことであろう。
- 本能寺の変において、信長には脱出できる可能性は皆無だったが、信忠には京都から脱出できる可能性があった(織田長益や前田玄以らが脱出しているのを見てもわかるように、光秀は京都を封鎖していなかった)。
- 天正9年(1581年)の京都御馬揃えの際、織田家一門の中における序列は第一位であった。また、信長存命中は形式的ながらも家督を譲られており、父がかつて礎としていた尾張と美濃の統治を任されていた。
- 名将富鉱録では、織田家家臣たちには優れた武将とされていたが、信長には「見た目だけの器用者など愚か者と同じ」と評価されたと記されている。
- 武田征伐で高遠城を落とした際、信長からその働きを賞賛され、「天下の儀も御与奪なさるべき旨仰せらる」(信長公記)と述べられたという。
逸話
- 出生した時、顔が奇妙であるということから、信長より奇妙丸という幼名を与えられたという。
- 幼い頃から家督相続を約束されていた信忠は、信長から雑用を一切させないなどの待遇を受け、武将として出陣する前から信長の戦に連れられ、闘いを学んでいた。
- 父信長が足利義昭より尾張守護の斯波家の家督を与えられた折に、自らは辞し息子信忠に斯波家を継承させたともいわれる。
- 父に忠実だったイメージが強いが、播磨三木城攻めの時には督戦に来た信長に作戦をめぐって抗弁した。また「人間50年」で有名な『敦盛』など、幸若舞を好んだ信長に対して、信忠は能狂言を異常なほどに好んだ。徳川家康を通じ、稀少であった世阿弥の著作を入手したりもしている。また、伊勢松島で群集を前に能を演じたとの記録もあり(勢州軍記)、そのために信長と衝突して能道具を取り上げられたこともあったとされている(当代記)。
- 『三河物語』によると、本能寺で異変に気づいた信長の最初の言葉は「城介が別心か(信忠の謀反か)」であったとされる。三河物語の信憑性はともかく、信忠が信長に忠実だったとする現在の評価は、この記述からも疑惑の余地があるとの説もある。
- 高遠城に攻め入る際に、信長に武田氏の深追いは避けるよう託けされていたが、現地での情勢を見た信忠はこの命を破り、深く攻め入った。結果、最終的に武田氏を滅亡に追いやった。このことで信長は信忠の武才を認めたという。
官歴
※日付=旧暦
- 天正2年(1574年)4月、従五位下に叙位。
- 天正3年(1575年)
- 2月23日、出羽介に任官。
- 6月1日、正五位下に昇叙し、出羽介如元。
- 11月7日、秋田城介と改める。
- 天正4年(1576年)
- 1月5日、従四位下に昇叙し、秋田城介如元。
- 8月4日、従四位上に昇叙し、秋田城介如元。
- 12月17日、左近衛少将に転任。
- 天正5年(1577年)
- 1月5日、正四位下に昇叙し、左近衛少将如元。
- 10月15日、従三位に昇叙し、左近衛中将に転任。
脚注
関連作品
小説
- 新井政美『父は信長』(講談社、2003年)『織田信忠〜父は信長』(改題、のち人物文庫・学陽書房、2010年)
- 近衛龍春『織田信忠 「本能寺の変」に散った信長の嫡男』(PHP文庫、2004年)
- 信原潤一郎『さくらの城』(光文社文庫、2006年)
- 羽生道英『小説 織田三代記』(PHP文庫、2006年)
- 鈴木輝一郎『信長と信忠』(毎日新聞社、2009年)
関連項目