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西尾忠篤

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西尾忠篤
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 嘉永3年5月7日1850年6月16日
死没 明治43年(1910年11月5日
改名 藤十郎・益之助(幼名)、忠篤
墓所 埼玉県上尾市原市の妙厳寺
官位 隠岐守、子爵
幕府 江戸幕府
遠江国横須賀藩主→安房国花房藩
氏族 西尾氏
父母 父:西尾忠受
兄弟 忠篤本多忠恕
正室:松平親良の娘
養子:西尾勝順池田茂政次男)
西尾忠方加藤泰秋四男)
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西尾 忠篤(にしお ただあつ)は、遠江国横須賀藩の第8代藩主。のちに安房国花房藩主。横須賀藩西尾家11代。子爵

生涯

嘉永3年(1850年)、第7代藩主・西尾忠受の長男として生まれる。文久元年(1861年)の父の死去により、家督を継いで藩主となる。幕末の動乱期で藩内では佐幕派、尊王派が抗争を続け、慶応4年(1868年)の戊辰戦争においても両派の抗争が続いたが、八十美穂青山善一郎らによる佐幕派への説得もあって、横須賀藩は新政府に協力した。慶応4年(1868年)8月、徳川家達が東海地方に封じられたため、忠篤は安房花房藩に移封となった。

明治2年(1869年)の版籍奉還藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。やがて東京へ移った。

明治43年(1910年)11月5日に死去。享年61。