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戸田氏教

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戸田 氏教(とだ うじのり宝暦5年12月8日(1756年1月9日) - 文化3年4月26日(1806年6月11日))は江戸時代中期から後期の大名美濃国大垣藩主。父は館林藩主の松平武元。幼名は栄之進。官位は従四位下侍従采女正。戸田氏の一門、大垣藩主・戸田氏英の養子となる。藩主として善政を行うとともに、幕府老中として幕政に携わり、幕府財政改革に成功した他、ロシア船来航の折は外交問題にも関わり、国家の枢機に携わった。大垣藩政では大垣中興の名主と評された。死後、贈従三位。

生涯

1755年12月8日生まれ。父は老中松平武元。武元は水戸徳川家一門の親藩から越智松平家徳川綱重の庶子にて館林藩主となった松平清武を祖とする親藩)2代松平武雅の養子となって3代を継ぎ、幕府老中となった人物。大垣藩6代藩主の戸田氏英(大垣戸田家の10代目、戸田氏の20世孫)の養子となり、家督相続により従四位下侍従采女正ら叙任され、奏者番寺社奉行側用人と昇進と、寛政2年(1790年)11月16日老中に昇進。

老中在任中のこと ロシアの脅威

寛政4年(1792年)9月3日、北方の大国ロシア帝国使節ラクスマンが漂流者である大黒屋光太夫をともない蝦夷地(現在の北海道)に来航、通商を求めてきた。光太夫が漂流してイルーツクに流れ着き、シベリア総督に帰国願いを出したが拒否され、帝都ペテルブルグに移送されて女帝エカチェリーナ2世に謁見した上で、この度の同伴となったとのことであった。幕府は目付石川忠房を派遣し会談させることとなった。翌年の寛政5年(1793年)6月27日、石川忠房と村上大学により、3度目の会談をして、老中松平定信により、長崎への回航を求めさせた。ロシア側はシベリア総督の公文書と遭難者引き取りを要請してきたが、日本は遭難者の受け取りのみ応じた。ロシア使節は不本意ながら一部目標は達したとして帰国の途についた。享和2年(1802年)2月23日、前年のラクスマンら使節の来航などにともない、北方の大国ロシア蝦夷地(現在の北海道)進出の徴候がありと判断、幕府として蝦夷奉行を設置して、蝦夷地を幕府の天領(直轄地)とし、蝦夷地のロシア進出に対応策を打った。 文化元年(1804年)9月6日肥前国長崎ロシア帝国の使節レザノフが漂流民を連れて来航し、通交を求めてきた。幕府は目付遠山景晋をもって日本の意向を伝えるべく長崎に派遣した。翌文化2年(1805年)3月7日、前年来航し通交を求めてきたレザノフに対して、日本の通商対象は朝鮮琉球オランダであること、交易については我が国の有用な貨幣を失って、風俗を乱すものであること、通信は国禁としているなどのことを説明し、再び退去させた。この度の対応はラクスマンの折よりも厳しく応じ、先年失脚した松平定信の政策を受け継いだ松平信明が罷免された為、幕閣に現状維持派が台頭したことと、交易国を独占せんとしたオランダの工作があったことによるという。レザノフは漂流民を連れて19日に退去した。文化3年(1806年)1月26日、幕府は日本に来航する様になったロシア船を穏便に退去させるため、文化の撫恤令を発布した。これにより、幕府はロシア船を発見した場合は、説得して退去させること。必要な場合は薪、水、食糧を与えること、けして上陸させないことを申し渡した。ロシアが果たして従順に帰国するかはこの折は不透明であったが、幕府の対外政策は海防から蝦夷地の領土化、鎖国の励行に重点化されていくこととなった。こうした柔軟策がとられる様になったのは、ロシア側の意向である「もとより、ロシアは戦争を好まず」という一条が記述されており、ロシアによる北方進出の危機を杞憂と見た戸田氏教ら幕閣の意向が大きく作用しているという。

晩年

氏教は幕閣の一人として主に幕府の財政を改革するなど、多大な功績を残した。また、自藩でも教育や治水について勤倹し自ら模範となり、大垣藩の財政や武辺の増強を図った。大垣中興の名主と称され、加藤枝直に公餘和歌を学びこれをよくしたという。文化3年4月26日老中在任・藩主在位のうちに没する。享年52。没後、従三位を贈位された。

功績

  • 幕府財政改革の成功。
  • 大垣藩善政 教育・治水・藩の富強を図る。

関連項目