タチソ
タチソ(たちそ)は、太平洋戦争末期の1944年11月より大阪府高槻市大字成合の山中で掘削と建設が進められた地下坑道・工場跡である[1]。当初は中部軍司令部の地下壕として、1945年2月から陸軍機の三式戦闘機(飛燕)のエンジン「Ha-140(ハ140型)」を製造する川崎航空機の高槻地下工場として建設が進められ、旋盤などの各種工作機械や発電機の搬入と設置も進み、同年8月20日より稼働予定だったが、8月15日に終戦を迎え、未完・未稼働のまま放棄された[2]。
タチソという呼称は、この設備に陸軍が附したコードネーム(暗号名)で、「高槻(タカツキ)地下(チカ)倉庫(ソウコ)」の頭文字から取られた呼称[3]。秘密施設として建設が進められたため、終戦後に施設の土地建物の管理を引きついだ大蔵省理財局の記録、建設に動員された人々や地元住民らによる当時の記録や回想などで呼称が一定していない[注釈 1]が、地元高槻市で長年この戦争遺跡の保存運動に従事してきた市民団体[注釈 2]による紹介[注釈 3] により、コードネームの「タチソ」や、このコードネームの元となった「高槻地下倉庫」という呼称が広く知られるようになった[4]。
檜尾川を挟んだ東西の丘の中腹で掘削が進められたが、戦後、東側トンネル群は採石場として開発されて大部分が開削され、または埋没して消滅し、現在は西側トンネル群十数坑が現存している。
概要
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成合が選ばれた理由
[編集]成合地区は比較的、過疎地区であるため
空襲の激化に伴う重要施設の地下移転計画
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中部軍地下司令部の建設
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川崎航空機の地下工場
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建設
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跡地利用
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一般公開
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脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 記残会1982に収録されている資料や文書、証言・手記・聞き取りなどに見えるこの施設の呼称についての表現をピックアップすると、以下のようなものがみられる。
- 戦後、陸軍省に代わりタチソ関連の土地の管理者となった「大蔵省財務局」は、労務者の「飯場」(宿舎)」を、「旧陸軍高槻倉庫臨時構築物」と呼称。(「飯場跡地問題関連史料」(1)「旧陸軍高槻倉庫臨時構築物売払決議書」,p.28)。
- 昭和39年、旧飯場跡に居住する朝鮮系の住人に対して行われた訴訟の訴状では「陸軍省は、大阪府高槻市成合地区山間部に、秘密軍事工場を建設する計画を立て、」(「飯場跡地問題関連史料」(2)「建物収用土地明渡事件訴状」,p.29)と呼称。
- 旧飯場の地主たちが昭和48年高槻市に提出した陳情書では「旧陸軍軍事工場施設」と呼称(「飯場跡地問題関連史料」(3)「旧陸軍軍用地返還処理に関する陳情書」,pp.28-29)。
- 関西工業学校の学生として工事に動員された元生徒の日記は「当高槻作業場」と呼称(伏木秀和「伏木秀和氏日記 昭和20年(1945年)6月19日〜8月16日」,6/21,p.16)。
- 航空兵団帥551部隊の隊員として工事作業に従事した元兵士は、「あの当時川崎航空機とかの地下工場とかを小耳に挟んだ程度で,詳しいことは何も聞かされていませんでした」と回想(丸山敏夫「戦時下高槻の思い出」,p.39)。
- 事務職員・馬の世話などのために動員された旧制女学校の生徒は「成合の秘密基地」「最近新聞で話題になった例の現場」とのみ呼称(梅田和子「成合の秘密基地に動員されて」,pp.41-42)。
- 建設工事に従事した国鉄の「建設隊員」たちは「川崎航空機の工場」、「高槻工場(発動機工場)」と呼称(鈴木信孝・橘田正臣・中島正治・永井正・恵美奈久次「証言①国鉄関係者(元建設隊員)」,pp.43-44)。
- 地元住民7名は、「地下工場のトンネル」と呼称(岩真一郎・大西ハルエ・小野治八良・久保庄三郎・久保フサノ・日下部末次郎・高雄タネ「証言②地元住民(日本人)」,pp.45-46)。
- 朝鮮人の元労務者の妻は、「軍の秘密工場作り」と呼称(朴承徳・「奥さん」「証言④地元在住朝鮮人 朴承徳さん」,p.51)。
- 朝鮮人の元労務者は、「軍事施設」と呼称(金盛吉「証言④地元在住朝鮮人 金盛吉さん」,p.51)。
- 陸軍航空隊の通信兵としてドンネル掘りに従事した元兵士は、「成合の工場」「地下工場」と呼称(宮路和夫「「死して後やむ」軍隊生活」,pp.52-55)。
- ^ 1972年結成の「高槻むくげの会」、1981年結成の「戦争の記録を残す高槻市民の会」,1990年に両会が合併して結成した「高槻「タチソ」戦跡保存の会」など。資料の収集・刊行や見学ツアーをほぼ毎年開催している。記残会1999,pp.38-40.
- ^ この市民団体の出版物(1982年,1999年,2015年)による実例には次のようなものがある。
「戦争の記録を残す高槻市民の会」名義(宇津木秀甫「巻頭言 解説にかえて「幻のタチソを探る」,1982,記残会1982,pp.1-2).昭和十九年、本土決戦と空襲に備え軍命令で本土の各地に大きな地下壕が掘られました。その一つが川崎航空機の高槻地下工場で、軍は秘密の略号として「タチソ」と名付けたのです。これは「高槻地下倉庫」のことです。(記残会1982所収,pp.1-2).
「高槻「タチソ」戦跡保存の会」名義義
(記残会1999).「タチソ」とは、陸軍によって計画された高槻地下倉庫(タカツキ・チカ・ソウコ)の略称(暗号)です。(「はじめに」,p.3)
(タ保会2015).
タチソとは、高槻(タカツキ)地下(チカ)倉庫(ソウコ)の頭文字を取った陸軍の暗号です。(「もくじ」,p.2)
高槻の「タ」、地下の「チ」、倉庫の「ソ」の頭文字を並べて「タチソ」。暗号にもならない暗号で呼ばれていた高槻市成合の地下トンネル群は、日本の敗戦が濃厚になり、米軍の激しい本土空襲が開始される1944年末から、本土決戦遂行のため日本各地で掘られたトンネル群のひとつです。(「あとがき」,p.47)
出典
[編集]- ^ タ保会2015,pp.3,17.
- ^ 記残会1982(米国戦略爆撃調査団報告書),p.14、タ保会2015,pp.3,17.
- ^ 記残会1982(宇津木1982),pp.1−2,タ保会2015(「あとがき」),p.47.
- ^ この戦争史跡を取材する報道機関には、この市民団体に取材し、あるいはそのメンバーの案内で現地を訪れるものが多い。以下はサンプル。
- 「戦争遺跡を訪ねる…見て感じて、歴史語り継ぐ」YomiDr(ヨミドクター 読売新聞の医療・健康・介護サイト),2012年9月3日。(2020年8月19日閲覧)
- 「大阪の戦跡16 高槻市 巨大地下壕タ・チ・ソ」大阪歯科保険医新聞,2014/04/5。(2020年8月19日閲覧)
- 「ここであった戦争 高槻・巨大トンネル群「タチソ」 埋もれゆく「負の歴史」/大阪」毎日新聞,2019年1月19日地方版。(2020年8月19日閲覧)
- 「戦争遺構のトンネル群、存続の危機 ガイド高齢化やコロナで…大阪・高槻市」読売新聞,2020/08/16 06:00。(2020年8月19日閲覧)
参考文献
[編集]- 記残会1981 戦争の記録を残す高槻市民の会事務局編『戦争の記録を残すたかつき市民の会 資料集No.1』,戦争の記録を残す高槻市民の会発行(1981年12月).
- 記残会1982 戦争の記録を残す高槻市民の会事務局編『戦争の傷跡 地下軍事工場の記録』資料集NO.2,戦争の記録を残す高槻市民の会発行(1982年7月).
- 宇津木秀甫「幻の「タチソ」をさぐる」pp.1-2,(原載『福祉のひろば』10号,1982.4).
- 「米国戦略爆撃調査団報告書」和訳,pp.12-14,(原載Records of the U.S. Strategic Bombing Survey,1946]).
- 記残会1984 戦争の記録を残す高槻市民の会事務局編『わが街たかつきの戦争の記録 高槻の空襲・続地下軍事工場』資料集NO.3,戦争の記録を残す高槻市民の会発行(1984年7月).
- 記残会1999 ガイドブック高槻「タチソ」編 編纂委員会編『朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブック 高槻「タチソ」編』戦争の記録を残す高槻市民の会発行,解放出版社販売(1999年8月). ISBN 4-7592-6210-5
- タ保会1994 高槻タチソ戦跡保存の会編『タチソ物語 高槻地下倉庫 敗戦前夜高槻における朝鮮人強制労働を見る』高槻タチソ戦跡保存の会発行(1994).
- タ保会2015 高槻「タチソ」戦跡保存の会編『消えていく戦争 70年目のタチソ』東方出版,2015年8月. ISBN 978-4-86249-256-2
関連文献
[編集]映画
[編集]- 『タチソ(高槻地下倉庫)作戦 成合地下トンネル』(1984年).