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1970年の大洋ホエールズでは、1970年の大洋ホエールズの動向をまとめる。
この年の大洋ホエールズは、別当薫監督の3年目のシーズンである。
概要
別当監督1年目は5位、2年目3位と順位を上げていくチームはこの年から中塚政幸を外野手にコンバートし、1番には重松省三、3番には松原誠、4番には江尻亮が入るなど戦力を一新。攻撃型オーダーでスタートしたチームだが、開幕ダッシュには程遠く4月は首位の巨人と3ゲーム差ながら最下位で終了。5月以降は徐々に順位を上げ、6月には3位に浮上するとその後は阪神を抜いて2位となり、常に巨人を追いかける展開が続いた。9月終了時点では3位ながらも巨人に4.5ゲーム差と肉薄するが、最後は巨人とマッチレースの阪神に突き放されて3位に終わり、別当監督の悲願であるペナント奪回はならなかった。チームは6連覇の巨人に14勝11敗1分と逆に勝ち越したが、阪神に11勝15敗、4位の広島に11勝14敗1分と負け越した。投手陣は平松政次・山下律夫・高橋重行・坂井勝二がローテーションを守りそれなりの成績を収めた。特に平松はカミソリシュートを武器に25勝をあげて最多勝となり、沢村賞も受賞した。それ以外には鬼頭洋が6月9日のヤクルト戦でノーヒットノーランを演じたほか、2年目の野村収やルーキーの間柴茂有が中継ぎで一軍に定着するなど、明るい話題が続出した。打撃陣はチーム本塁打が優勝の巨人と25本差の106本の5位に終わった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1970年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
|
5月終了時
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6月終了時
|
7月終了時
|
8月終了時
|
9月終了時
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最終成績
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1位
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巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
2位
|
広島 |
0.5
|
阪神 |
0.5
|
広島 |
5.5
|
大洋 |
5.5
|
阪神 |
3.5
|
阪神 |
3.0
|
阪神 |
2.0
|
3位
|
阪神 |
2.0
|
広島 |
2.0
|
大洋 |
6.0
|
阪神 |
6.0
|
大洋 |
6.0
|
大洋 |
4.5
|
大洋 |
10.0
|
4位
|
ヤクルト |
3.0
|
大洋 |
5.5
|
阪神 |
7.0
|
広島 |
8.0
|
広島 |
10.0
|
広島 |
10.5
|
広島 |
15.0
|
5位
|
中日 |
3.0
|
中日 |
6.5
|
中日 |
11.5
|
中日 |
16.5
|
中日 |
14.5
|
中日 |
19.0
|
中日 |
23.5
|
6位
|
大洋 |
3.5
|
ヤクルト |
9.5
|
ヤクルト |
15.0
|
ヤクルト |
21.0
|
ヤクルト |
29.0
|
ヤクルト |
35.0
|
ヤクルト |
45.5
|
[1]
オールスターゲーム
できごと
- 6月9日 - 鬼頭洋が川崎球場での対ヤクルト5回戦に先発し、ノーヒットノーランを達成[2]。
- 10月8日 - 前年のドラフト会議で1位指名された荒川尭が大洋と契約、球団はセ・リーグに出場選手登録をの手続きを行い、リーグも公示[3]。
- 10月24日 - 沢村賞の選考委員会が東京運動記者クラブ部長会によって東京・有楽町の交通大飯店で正午から開かれ、平松政次を選出[4]。
- 12月26日 - ドラフトで獲得した荒川尭をヤクルトにトレードすると発表。
選手・スタッフ
表彰選手
脚注
注釈
出典
- ^ a b “年度別成績 1970年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2017年5月26日閲覧。
- ^ 読売新聞1970年6月10日11面「鬼頭(大洋)ノーヒットノーラン 今季2人目 ヤクルト3四球だけ」読売新聞縮刷版1970年6月p305
- ^ 読売新聞1970年10月9日10面「荒川(早大出)大洋入り 期限切れ寸前に」読売新聞縮刷版1970年10月p298
- ^ 読売新聞1970年10月25日11面「平松(大洋)に沢村賞 全員一致できまる」読売新聞縮刷版1970年10月p851
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1953年開幕直前に松竹ロビンスと球団合併 |