マニンガムFC
マニンガム(Manningham)は、イングランドブラッドフォードマニンガム地区を本拠地としたラグビーリーグフットボールクラブであった。当時ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオンとして知られていたラグビー・フットボール・リーグの初めてのシーズン(1895-96年シーズン)のチャンピオンである。ラグビーリーグに7シーズン参加した後の1903年に、アソシエーションフットボール(サッカー)に転向した。
歴史
[編集]1880年、マニンガムFCは「マニンガム・アルビオン・クラブ」が解散した後に結成された。当初は、カーライルロードとして知られるウィートリーヒルの競技場でプレーしていた。マニンガムFCはラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) の下でプレーしていたが、後の1895年にRFUから分離したノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン(後にラグビー・フットボール・リーグに改名)の創立メンバーとなった。この新しい大会の初のシーズンにおいて、マニンガムは首位でシーズンを終え、初のラグビーリーグチャンピオンとなった[1]。
1886年、クラブはバレー・パレードに移転した。1896-7シーズン、ノーザンユニオンズチャンピオンシップは2つの州大会に分離し、マニンガムはヨークシャー地区に参加した。マニンガムは古井町でヨークシャーシニア大会で優勝に手が届きかけたが、わずか一勝で優勝を逃した。
しかしながら、マニンガムは降格後つらい時期を過ごし、1903年にはアーチェリー大会の成功のみがクラブを維持していた。
1903年1月30日、ブラッドフォード・オブサーバー紙編集補佐のスコットランド人ジェームズ・ワイトはザ・フットボール・アソシエーション(イングランドサッカー協会)代理人のジョン・ブラントとマニンガムFCの本拠地であるバレー・パレードで会い、この町でフットボールリーグ(サッカーのリーグ)のクラブを設立することについて話し合った。相次いで会合が行われ、1903年5月29日、マニンガムFCの第23回年次会合において、委員会はラグビーリーグを離脱、アソシエーションフットボールに転向することを決定し、ブラッドフォード・シティAFCとなった。
著名な在籍選手
[編集]- Alfred Barraclough
- James Bridie
- Edgar Holmes
- George Lorimer
- H. Pickles
- J. Sunderland
脚注
[編集]- ^ Baker, Andrew (1995年8月20日). “100 years of rugby league: From the great divide to the Super era”. Independent, The (independent.co.uk) 2009年9月25日閲覧。