ノート:弥助
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「弥助:本能寺の変」一次史料の情報追加
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「本能寺の変」のセクション
本能寺の変は、天正10年6月2日(1582年6月21日)、信長の家臣の明智光秀が謀反を起こし、信長を自害に追い込んだ襲撃事件である。信長は当初、下々の者の喧嘩と思っていたが、謀反と分かると武器を手に応戦し、肘に傷を負うと、「女はくるしからず、急ぎ罷(まか)り出よ」と言って女達を脱出させた後、自害した(出典 https://www.digital.archives.go.jp/img/4776750)。 本能寺は焼け落ちて信長は髪から骨までが灰燼となったという(出典 https://dl.ndl.go.jp/pid/1041119/1/163)。『信長公記』には討死した小姓や中間や小人の人名が列挙されている。京の民家に分泊していた信長の親衛隊であった馬廻衆の一部は本能寺に駆け込み死闘の末討死した。下男衆が京から安土へ逃げ帰り事実を伝えると安土の人々は取り乱れた(出典 https://www.digital.archives.go.jp/img/4776750)。
信長の嫡男の織田信忠は宿泊していた”世子の邸”(妙覚寺)から籠城の為に移動した”内裏の御子の居”(二条新御所)で明智勢を迎え撃った(出典 https://dl.ndl.go.jp/pid/1041119/1/163)。京の民家に分泊していた信長の馬廻衆らも二条新御所に駆けつけて徹底抗戦したが(出典 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100045383/1?ln=ja)、1時間以上も勇敢に戦った信忠は銃弾や矢を受け、鎌田新介に介錯されて自害し、二条新御所も焼け落ち、織田家家臣らの多くが討死・自害した(出典 https://www.digital.archives.go.jp/img/4776750)。
弥助が本能寺あるいは二条新御所にいたのかどうか、そこで戦ったのかどうかについては、どの史料にも記されておらず、全く分かっていない。
その後、光秀が残党狩りを命じ兵らに京の家々を捜索させた際、住民らが動揺したので、「明智の兵が民に危害を加えたらその兵は殺害する」と明言したという。(出典 https://dl.ndl.go.jp/pid/1041119/1/164)
==========(↓現在記載されている内容↓)=========
イエズス会によると、天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際、弥助は明智光秀の襲撃に遭遇すると、信長の嫡男の織田信忠の宿舎であった妙覚寺にて戦った末に投降して捕縛されたとされる。『イエズス会日本年報』には、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した。家臣に弥助をどう処分するかを聞かれた光秀は、『黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず』として、『インドのパードレの聖堂に置け』と命じた」という記録がある。このため弥助は南蛮寺に送られて命拾いした。
==========(↑現在記載されている内容↑)=========
イエズス会のイタリア語版『1582, 83, 84年度日本年報』(出典 https://shinku.nichibun.ac.jp/kichosho/new/books/113/mpv0400000000gci.html)には、弥助が「信長の死後、”世子の邸”(妙覚寺)に行き、そこで、精一杯手を振り回して牽制して戦っていたが、明智の家臣から『危害を加えないことを保証するから刀を渡せ』と言われてこれを渡した」という記述がある(出典 https://shinku.nichibun.ac.jp/kichosho/new/books/113/pdfs/005729777.pdf?page_num=32)。
==========(↓現在記載されている内容↓)=========
尚、本能寺の変を信忠に知らせたのは村井貞勝(春長軒)とされており、弥助が知らせたという記録はなく、本能寺の変における弥助についての記録は『イエズス会日本年報』以外には記されていない。
又、イエズス会報告書には「世子(信忠)は此報を聞き、まだ床に就いていたが起出で、滞在していた寺院(妙覚寺)は安全でないと考へ、駆け付けた人々と共に附近にあった内裏の御子の居(二条新御所)に赴いた。」と記録されている。
==========(↑現在記載されている内容↑)=========
以上となります。よろしくお願いいたします。
返信などが遅れるかもしれませんが、ご容赦ください。
尚、イタリア語版のイエズス会史料にある弥助部分の原文は以下です。
Con tutto ciò, vn'altro dubbio restava a nostri, che un Moro del capo di buona speranza, lasciato dal P.Visitatore a Nobunanga, dopò la morte del suo signore, sen'era ito alla casa del Prencipe, & quivi hauea menato le mani sino a tanto, che vn servidore di Achecì gli dimandò la spada, assicurandolo che non riceverebbe danno alcuno: Et hauendogliela data, su dimandato ad Achecì che si dovea fare di quel Nero, & egli rispose; Questo è vn Moro bestiale, che non sa nulla, & non è Giaponese, non l'ammazzino: ma lo ponghino nella Chiesa de'Padri dell'India. Con che restarono piu quieti i nostri,--Shimabara2024(会話) 2024年8月20日 (火) 16:25 (UTC)
- コメント 一次史料をベースとされていますが、できれば(Wikipediaでいう)二次資料を基本に据えて、一次史料はそれを補うのに使う方がいいかと思います。特に二次資料に困ることのない信長や信忠の動向についてはそう思います。
- イタリア語の文献を挙げられているのについては、できれば日本語の文献がいいのではないかと思います。機械翻訳を使用せずイタリア語を自分で読める、特に16世紀のイタリア語の読解にも自信があるという方ならありかもしれませんが、そうであっても他の人が付いてこれずやや難があるかと。一応日本語の出典が優先されるということについてはWikipedia:検証可能性#信頼できる情報源にあります。
- 私が上で挙げた仮の加筆案をご覧になられていたら、弥助が「二条御所へと駆け付けた」という部分も見られたかもしれませんが、これについては要修正ですね。例えばロックリーも弥助が駆けつけた先を妙覚寺としています(ここはロックリーの本を出典に使用できれば楽だった箇所)。この部分について、例えば、本文には史料を引く形で「信長の死後、「世子の邸」に赴いたという。」と書いて、「世子の邸」への注釈として「{{efn|『イエズス会日本年報』には、当初「世子の邸」「寺院」にいた信忠が「内裏の御子の居」に移ったと記されている。この時の信忠の動きとしては、妙覚寺から隣接する二条御所へと移って戦ったことが知られている{{sfn|岡田|1999|pp=374-377}}。」というように書くのはいかがでしょうか。弥助が赴いた「世子の邸」が妙覚寺であると明記した出典がないため本文には書かず、注釈で補う形です(この件については後に提示予定の加筆案にも盛り込みます)。--YasuminB(会話) 2024年8月21日 (水) 06:07 (UTC)
- たまたま通りがかったところ、何か見つけたので。どうぞお納めください。日本語で書いてある二次資料になります。
- 村上直次郎氏の耶蘇会士日本通信です。
- 信長切腹、信忠が内裏に入った云々
- https://dl.ndl.go.jp/pid/1041119/1/163
- 弥助が邸に駆け付けて抵抗、投稿後にパードレに置け という部分
- https://dl.ndl.go.jp/pid/1041119/1/164--Tanukisann(会話) 2024年8月25日 (日) 10:25 (UTC)
- 弥助が邸に駆け付けて抵抗、投稿後にパードレに置け という部分
- https://dl.ndl.go.jp/pid/1041119/1/164
- リンク切れていたのでやり直し
- 164の右側のページ、左から5行目に「又、ビジタドールが~」と書いてありますよ。
- 163で信忠の動きは、右側のページ左から2行目から始まる「此の如く~」から、164の1行目で「世子の姿もあった」までになりますね。--Tanukisann(会話) 2024年8月25日 (日) 10:33 (UTC)
- 現在ある「弥助」ページの情報は基本的に一次史料にある情報ですから、同じように一次史料の情報を記載していくことは矛盾がありません。
- そもそも、一次史料の情報に対しては編集戦争は起きませんから、まずは一次史料の情報を記載していき、その後に、その一次史料を元にした二次史料を追加していく体にすればよいと思います。
- *二次史料は著者の自論や自説が入ってくるため、二次史料の追加の段かいでいくらでも議論すればよいと思います。
- イエズス会イタリア語版史料は一次史料ですから、貴重な情報源としてむしろ記載しなければならないと思います。また、原文がネット公開されている為、誰でも検証が可能になっている状況であり、この一次史料情報を載せることには何の問題もありません。(イタリア語原文テキストを記載して和訳を載せる形式が良いと思います。)
- この史料の正式?な和訳があれば、そちらも追加すれば良いだけですが、検索したところどの出版社からも和訳は出ていませんね。今後、どこかの出版社が和訳するのを期待しましょう。
- *今の時代はGoogle翻訳やChatGPTなどで誰でも簡単に外国語の検証が可能です。訳文に明らかにおかしいところがある場合は、みんなから指摘されて修正することが可能な時代です。
- >>弥助が赴いた「世子の邸」が妙覚寺であると明記した出典がないため本文には書かず
- 史料に基づき、「世子の邸」は「妙覚寺」で間違いありません。
- こちらhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1041119/1/163 の史料をご覧ください。
- イエズス会史料では、「casa do príncipe=世子の邸」を信忠が宿泊していた寺院(=妙覚寺)、二条新御所は「casas do filho da Dayri=内裏の御子の居」と明記しているので、「casa do príncipe=世子の邸」が「妙覚寺」であることは史料が証明しています。
- ポルトガル語原文でも信忠が寝ていた場所が「casa do príncipe」であり、そこから移動した先が「casas do filho da Dayri」と明記されています。
- イエズス会史料は本能寺の変についても記述があり、「casas do filho da Dayri」から皇族の方々が避難する様子も書いています。--Fhuewjd(会話) 2024年8月31日 (土) 10:38 (UTC)
- 返信 弥助が向かった「世子の邸」を「妙覚寺」と書いた二次資料があればそれを出典にして書けますが、それがないのにそう断言してしまうと独自研究に当たるおそれがあると思われますし、無出典で書いた箇所があると出典の付け方にも困ってしまいます。そのため、上記コメントに書いたような、注釈でそれをほのめかすような形にせざるを得ないかなと思います。--YasuminB(会話) 2024年9月1日 (日) 15:50 (UTC)
- 報告 勝手ながら、「拡張半保護編集依頼」のテンプレートを展開させていただきました。--はらんど(会話) 2024年8月21日 (水) 06:14 (UTC)
- 強く賛成--Fhuewjd(会話) 2024年8月31日 (土) 11:09 (UTC)
- 一次史料の情報を記載することには何の問題もありません。
- 一次史料の情報を把握しなければ、二次史料が一次史料の情報を正しく理解しているかどうかも判断できませんから、まずは一次史料情報を全部載せるべきだと思います。
- 例えばイエズス会イタリア語版の一次史料についても、原文がネット公開されており、記載分はたった1行か2行しかなく、同時に「原文テキストを載せる」ことによって、誰もがAI翻訳を使用して内容を検証できますから、イエズス会イタリア語版史料の情報の記載は全く問題ありません。
- よって、一次史料情報の記載に強く賛成いたします。--Fhuewjd(会話) 2024年8月31日 (土) 11:05 (UTC)
- コメント 本文には日本語訳を載せ、そこに{{efn}}を用いて注釈欄に原文を記載するという形ではどうでしょう。そうすれば、Wikipediaにおける二次資料優先の原則にも沿いますし、文章の全体の流れとしても不自然にはなりません。--YasuminB(会話) 2024年9月1日 (日) 15:55 (UTC)
- イタリア語版が原文かと思って書きましたが、出典からのリンク先[1]によるとオリジナルはポルトガル語で、イタリア語版はそれを翻訳したものですね。イエズス会の本部がイタリア・ローマにあったことからするとポルトガル語版に次ぐ地位にあるとは思いますが。ベストなのはポルトガル語版を記載することになりそうです。--YasuminB(会話) 2024年9月4日 (水) 03:51 (UTC)
- コメント 本文には日本語訳を載せ、そこに{{efn}}を用いて注釈欄に原文を記載するという形ではどうでしょう。そうすれば、Wikipediaにおける二次資料優先の原則にも沿いますし、文章の全体の流れとしても不自然にはなりません。--YasuminB(会話) 2024年9月1日 (日) 15:55 (UTC)
- 返信 (利用者:Shimabara2024さん宛) イタリア語史料の書き起こしについて、[2][3]こちらのXの投稿を参照されたものでしょうか。もしそうでしたら、あらかじめ出所を示していただいた方がトラブルの防止にもなりますし、情報の信頼性も上がります(今回の場合、Xの投稿者の方も匿名なので大きく変わらないかもしれませんが)。今後ご留意いただけると幸いです。--YasuminB(会話) 2024年9月4日 (水) 03:51 (UTC)
「登場作品」の出典元(ソース)追加の提案
[編集]現在、「登場作品」の節にある作品群の出典元が、ロックリーの著書がほとんどとなっておりますが、出典元が一つだけというのは検証のしやすさ、信頼性の面で不安があるため、他のソースを追加してみてはいかがでしょうか。ページが古くて最近の作品は対応していないのが申し訳ないのですが。
国立国会図書館運営のレファレンスにて、横浜市中央図書館が2012年の段階で弥助が出てくる作品を探してくれた結果が紹介されています。
織田信長の黒人家来、弥助についての資料を知りたい。
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000114712--Tanukisann(会話) 2024年8月26日 (月) 15:55 (UTC)
- リンクミス もうしわけない(URLの後ろに改行入れないといけないんですね、知らなかった)
- https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000114712--Tanukisann(会話) 2024年8月26日 (月) 15:56 (UTC)
- あ、また切れてる
- https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000114712
- これならば・・・--Tanukisann(会話) 2024年8月26日 (月) 16:06 (UTC)
- 返信 出典の追加には 賛成 です。挙げていただいたページは『くろ助』と『黒ん坊』の出典に利用できますね。ページ内にリンクのある財団法人大阪国際児童文学館のサイトも『くろ助』の内容について書く時に使用できそうです。
- 「登場作品」の内、Wikipediaに立項されている作品ならそちらにある内容は残しても良さそうですが、そのページに記述がなく、弥助のページでも無出典という部分については、出典を見つけることが出来なければ削った方がいいでしょうね(例えば『黒ん坊』の説明の内、「ユーモア小説系列の作品」の部分など)。
- ともあれ、それぞれの登場作品の出典についても探していきたいと思います。--YasuminB(会話) 2024年8月26日 (月) 16:51 (UTC)
- ご賛同いただきありがとうございます。「出典元がないものに関しては消す」が基本ですけど、できることならソースを探したいですね。
- 消すのはいつでもできるので。--Tanukisann(会話) 2024年8月26日 (月) 16:55 (UTC)
- ご賛同いただきありがとうございます。「出典元がないものに関しては消す」が基本ですけど、できることならソースを探したいですね。
- あ、また切れてる
各作品の加筆提案
[編集]漫画『アフロサムライ』
[編集]「登場作品」に関することなのでこちらに小見出しを作らせていただきまして、『アフロサムライ』について以下の提案をいたします。
① ロックリー『信長と弥助』を出典に「弥助のイメージが投影された主人公だと言われている。」と書かれていますが、『信長と弥助』103頁には「漫画『アフロサムライ』の主人公は、弥助の影響を受けていると(真偽は定かではないが)言われている」とあります。そのため「弥助のイメージが投影された主人公だといわれるが、真偽は不明。」に修正することを提案します。
② 「アニメ映画はエミー賞を受賞。」はやや不正確なため、「2009年にアメリカで放送されたアニメ『アフロサムライ:レザレクション』では、美術監督の池田繁美がエミー賞を受賞した(アニメーション個人部門審査員賞)。」への修正を提案します。出典には、アニメ関連のニュースを載せるアニメ!アニメ!と、アニメの公式サイトを使用。
③ 上記にともない、アニメ版の声優についてはエミー賞の後ろに移動させ、「アニメ版の主人公の声はサミュエル・L・ジャクソン。」と書く(丸括弧は外す)。出典はアニメ1作目の公式サイトと2作目の公式サイトを予定。
②や③の出典については、十分な情報があるなら他のサイトでもいいと思います。--YasuminB(会話) 2024年8月27日 (火) 07:07 (UTC) 書名の誤記修正(『弥助と信長』→『信長と弥助』)。--YasuminB(会話) 2024年8月27日 (火) 07:20 (UTC)
- 追記 関連しまして、「ロックリー氏著書等の扱いとそれに基づく加筆について」節では『信長と弥助』を(私は)使用しないとしましたが、専門性が必要とされない「登場作品」節に使用する分には許されると考えますがいかがでしょうか。「生涯」節など以外でも使用を禁止するとしたら、弥助のページへの『アフロサムライ』の掲載自体取り止めた方が良いと考えられます(『信長と弥助』以外に弥助との関連性を述べた出典が見当たらないため)。--YasuminB(会話) 2024年8月27日 (火) 07:21 (UTC) 節リンク修正。--YasuminB(会話) 2024年8月31日 (土) 06:16 (UTC)
- コメント アフロサムライは弥助ではないことは確定しています“今まで黒人のヒーローがいなかったから、待ってたんだよ”『アフロサムライ』原作者、岡崎能士インタビュー。これは直ちに除去すべきです。また作品にロックリー氏著書を使用することは歴史以上に問題があると考えます。歴史は曲がりなりにも追いかけてその結果問題ありとみなされていますが、作品となるとまた別の分野の調査が必要となるためです。それでも「そのもの」であれば出典すら要せずに書けるのですが、モチーフですとこれは専門性が必要なもので、はっきりした証拠がなければ推測にしかなりませんし、証拠らしきものをかき集めたと思ったら作者にひっくり返されたりもします(継続中のシリーズだと「そっちの方が商業的に美味しい」となって作者から推測に寄ってしまうケースもあります)。ですから、トーマス・ロックリー以外に出典がないのであれば除去すべきでしょうし、出典としても置換すべきで可能な限り使用すべきではないと考えます。ついでに2点上げますと
- 『江戸プロフェッショナル・必殺商売人』も出典が全くないので外した方がいいと考えます。
- 『信長の野望・創造』には登場しますが、データサイト[4]を見る限りでは特に英雄的戦士の扱いではないようです。「配信(信長の野望・創造)またはプレイ特典(信長の野望・創造 戦国立志伝)武将として登場」ぐらいに書き換えた方がよさそうです。--Open-box(会話) 2024年8月30日 (金) 15:28 (UTC)
- 返信 他に異論のある方がいなければ、ロックリー著書は使わない方向で行きましょうか。『アフロサムライ』の除去には賛同いたします。
- 『江戸プロフェッショナル・必殺商売人』についても同意です。
- 『信長の野望・創造』については、公式サイトのDLCについてのページ[5]「2014.2.20 配信」箇所を出典にして書けそうです。『創造』と別作品である『創造 戦国立志伝』に関しては特に出典がなければあえて書かなくてもいいかと思います。--YasuminB(会話) 2024年8月31日 (土) 05:41 (UTC)
- 報告 Open-boxさんのご意見から1週間以上経ち、反対もありませんでしたので、『アフロサムライ』『江戸プロフェッショナル・必殺商売人』について除去、『信長の野望・創造』についても修正を行いました。--YasuminB(会話) 2024年9月7日 (土) 15:09 (UTC)
小説等『くろ助』
[編集]『くろ助』に関する、「執筆されたのは1940年代」とのロックリー氏の書籍を参照した記述につきまして。
下記レファレンス事例には初出が「『日本児童文学 7巻3号』(児童文学者協会 1961.3)p.23-39」と記述があり、また同事例にて紹介されている著者の来栖氏のコメント等にも1940年代に執筆されたとする情報は見当たりませんでした。
1968年に出版された来栖良夫の「くろ助」という作品について、この作品の初出、および作者がこの作品を... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000239775
特に事情が無ければこの部分は上記レファレンス事例を参照して「初出は1961年『日本児童文学 7巻3号』。」のような形に変更し、また児童文学賞に関する記述につきましても参照先をロックリー氏の書籍からTanukisannさんご紹介のレファレンス事例からリンクのありますこちらのサイト( http://www.iiclo.or.jp/100books/1946/htm/frame050.htm )に変更してはいかがでしょうか。--R.stst(会話) 2024年8月30日 (金) 13:43 (UTC)
- コメント 1940年代の執筆ということについて、ロックリー著書にはその典拠は示されていませんでした(脚注には1968年出版の本の書誌情報のみ)。国立国会図書館デジタルコレクションにある1968年出版の『くろ助』[6](要登録)にも、いつから書かれたかについての記述はありません。ロックリー著書以外に典拠が見つからない限り、1940年代執筆という記述は削って良いと思います。
- その他出典の置き換えなど、R.ststさんの提案に 賛成 いたします。--YasuminB(会話) 2024年8月31日 (土) 06:03 (UTC)
- 報告 R.ststさんの提案から1週間経過し、反対意見がありませんでしたので、『くろ助』の修正を行いました。--YasuminB(会話) 2024年9月7日 (土) 15:11 (UTC)
小説等『黒ん坊』
[編集]出典に使用できそうなものを見つけましたので加筆を提案します。現在「『黒ん坊』(毎日新聞社、1971年5月)★ - 遠藤周作によるユーモア小説系列の作品。」となっていますが、これを以下のようにしたいと思います。
(参考文献に追加)
- 神谷光信『ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究:村松剛・辻邦生との比較において明らかにされた、異文化受容と対決の諸相』(博士(学術)論文・文化科学専攻)放送大学、2017年。学位授与番号: 甲第4号 。
出典のうち34頁は緒論、110頁は本論第三章第三節「『黒ん坊』―もう一つの黒人表象」で、後者は筆者によりウェブサイト上でも公開されています。丸括弧直後の注は丸括弧内全体に対するものです(括弧内に入れると1971年にのみ係るようにも見えるため括弧の外に出しました)。--YasuminB(会話) 2024年9月17日 (火) 07:20 (UTC)
- 追記 これに伴い、『くろ助』の丸括弧横にも注(「日本の子どもの本100選」)を付けたいと思います。--YasuminB(会話) 2024年9月17日 (火) 07:44 (UTC)
- 報告 こちらの加筆を実行しました。--YasuminB(会話) 2024年9月25日 (水) 16:55 (UTC)
各作品の俳優・声優の表記、ほか細かい修正
[編集]①俳優・声優の表記について、例えばドラマ『秀吉』では「…突き殺されている。(演:サムエル・ポップ)。」と、括弧を使う文章としてあまり一般的ではない形になっており、同様のものが複数の作品で見られるため、修正が必要と思われます(ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』の「その後の消息は不明(演:リード・ジャクソン)。」という書き方が一般的)。また、映画『首』では「- 演:副島淳」とだけあって括弧が使いづらく、括弧を使用する形で統一するのが難しい状態にあります。そのため、各作品の説明文の最後に、括弧なしで書くという形への変更・統一を提案します。
この他、②漫画『YASUKE』の出典に「first=DIGITALIO |last=Inc」とある(そのため「Inc, DIGITALIO.」と表示される)のを「publisher=株式会社DIGITALIO」に変更し(DIGITALIOは当該サイトの運営者。「マンガペディアについて」によると著者に相当するのは一般社団法人百科綜合リサーチ・センター、株式会社エイトリンクス、株式会社DIGITALIOの3者)、③弥助をオマージュした主人公を表す「☆」が付いているのを、原作であるアニメ『Yasuke -ヤスケ-』に倣い「★」に変えたいと思います。
もう一点、④漫画『サイボーグ009 おわりノブナガ編』の文中にある「敢えて」は常用漢字表外の読み方であるため「あえて」に変更しようと思います。--YasuminB(会話) 2024年9月17日 (火) 14:10 (UTC)
- 報告 こちらの提案4件を実行しました。この他、漫画『腕 -駿河城御前試合-』の体裁修正(不足する丸括弧追加、掲載誌の二重鉤括弧外す)とゲーム『アサシン クリード シャドウズ』の発売年修正(こちらの編集参照)を行いました。--YasuminB(会話) 2024年9月25日 (水) 16:55 (UTC)
映画『Yasuke』の加筆と製作中映画の追加
[編集]『Yasuke』への出典追加(およびそれに伴う修正)と、『Yasuke』同様ハリウッドで製作中の同名映画の追加を提案します。提案内容は以下の通り。
- 『Yasuke』[1](公開未定、ライオンズゲート→Picturestart)★ - 2017年3月、実話を元に弥助を描く映画『Black Samurai』の脚本家として、ライオンズゲートがグレゴリー・ワイデンを起用したことが報じられた[2][3]。その後、製作を指揮していたエリック・フェイグがライオンズゲートから離脱[4]。『Black Samurai』のプロデューサーだった[2][3]マイケル・デ・ルカやスティーヴン・ルルーらと共に、自身のPicturestartで弥助を描く映画の製作を開始した[4]。脚本はダグ・ミロ[4]。2019年5月、チャドウィック・ボーズマンが弥助を演じることが発表されたが[4]、2020年8月にボーズマンは死去した[5]。Picturestart公式サイトでは「開発中(In Development)」となっており、監督および主演は「未定(TBD)」となっている(2024年時点)[1]。
- 『Yasuke』(公開未定、MGM[6])★ - 2019年4月に製作が報じられた[6]。脚本はスチュアート・C・ポール[6]。製作はWhalerock Industriesのロイド・ブローンとアンドリュー・ミットマン[6]。
脚注
- ^ a b “Not just an action movie, a cultural event.”. PICTURESTART. 2024年9月21日閲覧。
- ^ a b Ashley Lee (2017年3月23日). “‘Highlander’ Creator Gregory Widen to Pen Lionsgate’s ‘Black Samurai’”. The Hollywood Reporter. Penske Media Corporation. 2024年9月21日閲覧。
- ^ a b Mike Fleming Jr (2017年3月23日). “Lionsgate Taps ‘Highlander’ Creator Gregory Widen To Script Film On First Black Samurai”. Deadline Hollywood. Penske Media Corporation. 2024年9月21日閲覧。
- ^ a b c d Mike Fleming Jr (2019年5月7日). “Chadwick Boseman To Play African Samurai ‘Yasuke’ In Deal With Picturestart, De Luca Productions, Solipsist & X●ception Content”. Deadline Hollywood. Penske Media Corporation. 2024年9月21日閲覧。
- ^ “米俳優チャドウィック・ボーズマンさん、がんで死去 映画「ブラックパンサー」主演の43歳”. BBC NEWS JAPAN. BBCグローバルニュースジャパン株式会社 (2020年8月29日). 2024年9月21日閲覧。
- ^ a b c d Mike Fleming Jr (2019年4月18日). “MGM Sets Film On ‘Yasuke’, History’s Sole African Samurai”. Deadline Hollywood. Penske Media Corporation. 2024年9月21日閲覧。
Picturestart版『Yasuke』のタイトル横の注は、説明文中に『Black Samurai』はあっても『Yasuke』がないため付けています。MGMの『Yasuke』は製作中のPicturestart版『Yasuke』を入れるならこちらも入れなければフェアではないこと、英語版弥助の記事に掲載されていることなどから追加を考えました。--YasuminB(会話) 2024年9月21日 (土) 11:08 (UTC)
- 報告 こちらの提案を実行しました。製作中の映画としては今年報じられた『Black Samurai』(監督・脚本:ブリッツ・バザウーレ)もあるので[7]、今後追加の可能性はあります。--YasuminB(会話) 2024年9月28日 (土) 12:46 (UTC)
導入部から「生涯」節にかけての加筆提案
[編集]ノートでは一度述べましたが、現状無出典の箇所が多く交じっているため、一度全面的な改定を行う必要があると思います。そのため、こちらへの書き換えを提案します。
大きな流れ自体は変わっていません。弥助に関わるヴァリニャーノの移動の経緯や、来日後から京都到着前の事柄、弥助説もあるフロイスの越前行きに同行した黒人の件を追加しています。「その後」節(「弥助以後」に変更)にあった『相撲遊楽図屏風』の件は出典がないため省きました(『つなぐ世界史2』にはこの屏風が記載されていますが、ロックリー氏執筆のため現時点では扱わない)。その他、画像3点は位置を少しずらしただけでそのままにしてあります。画像についての扱いを変更する場合、別途議論をお願いします。
お手数ですが目を通していただいて、賛否等をいただけると幸いです。--YasuminB(会話) 2024年9月6日 (金) 11:24 (UTC) リンク差し替え。--YasuminB(会話) 2024年9月6日 (金) 11:33 (UTC)
- 「十人力以上の剛力」なのですが、ここは「強力十之人に勝(すぐれ)たり」なので素直に読むと「常人(=十之人)よりも力強く」程度になりそうです。「十人力以上の剛力」としても十人以上のパワーではなくいわゆる十人力(これが人並みと強力の両方に解釈できるのが厄介)より上程度のはずでしょうから、さすがに原文と食い違ってなおかつ意味合いが大して変わらないとなるとミスまで踏襲する意味はなさそうです。ここは「「十之人に勝(すぐれ)たり」とされる強力」で逃げるのが楽だと思います。--Open-box(会話) 2024年9月8日 (日) 13:17 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。「強力十の人に勝たり」について私も同様の解釈を見た覚えがあったので確認しましたが、乃至政彦氏が言っていましたね(アーカイブ)。使用した出典を再度確認したところ、松田、岡田、藤田は『信長公記』の原文を記載するのみ。何らかの解釈を行っているのは中川太古による現代語訳のみで、「しかも力が強く、十人力以上である」とありました(430-431頁。記事にあるページ数そのままの259頁は間違い)。現代語訳が間違っている可能性を考えて中川訳は出典から外し、以下のように原文のみ記載という形にしたいと思います(変更のない後半の出典は省略)。
脚注
- Open-boxさんのご提案とは違う形ですがいかがでしょう。もし問題がありましたらおっしゃってください。--YasuminB(会話) 2024年9月8日 (日) 15:01 (UTC)
- 少なくとも十人以上のパワーという誤解の根拠が消えるのであれば、この点は問題なくなったと考えます。乃至政彦氏はこちらには[8]まだ残っていました。論拠としている池田本は岡山大学のこちら[9]で7枚目・8枚目の画像になります。--Open-box(会話) 2024年9月12日 (木) 12:32 (UTC)
- BIGBLOBEニュースと池田本の情報、ありがとうございます。池田本では「ツヽノ」のルビがはっきり見えますね。--YasuminB(会話) 2024年9月16日 (月) 08:05 (UTC)
- 少なくとも十人以上のパワーという誤解の根拠が消えるのであれば、この点は問題なくなったと考えます。乃至政彦氏はこちらには[8]まだ残っていました。論拠としている池田本は岡山大学のこちら[9]で7枚目・8枚目の画像になります。--Open-box(会話) 2024年9月12日 (木) 12:32 (UTC)
- Open-boxさんのご提案とは違う形ですがいかがでしょう。もし問題がありましたらおっしゃってください。--YasuminB(会話) 2024年9月8日 (日) 15:01 (UTC)
報告 修正案の提示から1週間経ち反対意見がありませんでしたので、改訂を行いました。用いた内容はこちらになります(冒頭提示案との差分)。--YasuminB(会話) 2024年9月16日 (月) 08:05 (UTC)
不要になった告知テンプレートの除去提案
[編集]記事冒頭の{{告知|出典の議論}}について、6月16日に貼られたテンプレートですが(特別:差分/100744267)、その時議論が行われていた節はすべて過去ログ化済みで、不要になったと思われます。そのため、除去を提案します。--YasuminB(会話) 2024年9月8日 (日) 15:29 (UTC)
- 提案するまでもなく、終結した議論のテンプレートは除去して問題ないでしょう。--Y-route(会話) 2024年9月9日 (月) 01:25 (UTC)
- 賛成 提案いただきありがとうございます。既に言われているように削除に対して別段意見するものは有りません。
- 本来なら提案するまでもないことではありますが、こういうことやっとかないと「合意されていない」とかで差し戻す人が存在しますからね…--Geargia84(会話) 2024年9月9日 (月) 14:42 (UTC)
報告 上記改訂案と合わせて本節提案内容を実行しました(提案不要とのご意見もありますが、念のため合意形成させていただきました)。--YasuminB(会話) 2024年9月16日 (月) 08:10 (UTC)
弥助: 侍伝説の歴史学的検証
[編集]能出新陸さんの『弥助: 侍伝説の歴史学的検証』が発売されました。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DHZX7LCY
新しい発見は少なく、少し内容の怪しい部分があったものの、全体的にはよくまとまっており、記事にも使えそうだったことをお知らせします。
内容は前半が時代背景と弥助という人物の評価、後半が様々な資料を組み合わせながらトーマス・ロックリーの書籍『African Samurai』の検証となっています。記事として何を採用するべきかは意見が分かれると思いますので、幾つか見繕って書いてみます。
前半パート
- ヨーロッパとの商人や宣教師との交流が始まるようになり、初めて黒人など様々な国や人の情報を得ることができるようになった。その情報は時間が経った伝聞のため歪められていることが多かった。信長が弥助の肌を洗わせたというのは、信長にとってどれだけ珍しかったのかがわかる。後に日本は鎖国に入る。アフリカの奴隷を使っておらず、その労働力に依存していなかったことの裏付けである。
- 弥助の出自は不明であるが、モザンビークから日本へ来たという説は、ポルトガル植民地の拠点であったことから妥当。身体的特徴の情報や、周辺の歴史的状況から特定の部族の名前を挙げる人がいる。信憑性のある話だが、それを裏付ける記録は存在しない。弥助の民族に関する話は全て歴史家の憶測の話であり、信長に召し抱えられるまでの立場も可能性の話しかできない。
- 中国・韓国・日本において、名前の姓や名前の漢字は極めて重要な意味を持ち、これを見ることで地位や家系、将来への願いなどがわかる。
『弥助』の名前を確認すると、武士ではなく元服前の子供に与えられる幼名や、武士ではない低い身分のものに近いことがわかる。武士として認められておらず、その階級の外だったことを示唆している。そもそも、弥助と名付けた人がわからない。 - 信長の小姓や家臣の名前が記録されている総見公武鑑に、弥助の名前はない。小姓として認められていたかも怪しい。
後半パート
- 弥助は信長と2回会っている。信長公記では1回にまとめられ、「黒坊主の到着」「バテレンの訪問」という単純バージョンになっている。
会談に関するポルトガルの原文を見ると、多くの話をしたのは弥助ではなくヴァリニャーノ。 - 身長は家忠日記によると六尺二分(182cm)。この数字は「非常に大きい」という意味で様々な文献に登場しており、実際は測定しておらず大きいことを伝えたいだけだった可能性がある。
英語版wikipediaに六尺二寸(188cm)と誰かが間違えた値を記載した。この数字が他のサイトやBBCなどのメディアで使われ、ブリタニカなどでも使われ、学術論文にも使われ、それらが循環状態になり、ついには一般常識になり、誰も原文を見ることなく間違え続けている。 - 弥助を殿にするという主張には、誰が話していたのかという記載はない。ポルトガルの原文で見ると、街中の噂話。
- ロックリーの著書では南蛮屏風の挿絵として、黒人が槍を持っているものを使っているが、これはメジャーな絵ではない。もっと有名な絵では旗、または何も持っていない。視覚効果を狙って意図的にこの絵を選んだ可能性がある。
- 信長公記では、最初は「黒坊主」と書いていた。家忠日記では「黒男」。それが尊経閣文庫本で「黒坊」と簡略化されていた。これは非常に大きく、用語が一般化されたことを示すものであり、後付けの可能性がある。
- 『African Samurai』では信長死後に信長公記が活版印刷されたとしているが、それは信長公記ではなく、多数の脚色が入った甫庵信長記。
などなど。
他にもあれこれと指摘され、最終的な結論は「弥助という人物と日本の戦国時代を紹介することには貢献したが、弥助個人や日本の歴史を歪めており、誤解を広げている。特に彼が完全な侍だったという考えは、歴史的証拠によって裏付けられていない」でした。
そして最後にトドメ。
- 本能寺の変で、明智光秀は捕らえた弥助を解放した。重要な武士ではなく、外国人の珍しい存在だったということ。処刑されることなくイエズス会に渡されたことからも、武士としての尊敬を受けていなかったことを意味する。
--Tanukisann(会話) 2024年10月15日 (火) 14:00 (UTC)
- あ、一つ追加です。
- この書籍は自費出版物に相当するので、この本の内容を直接採用するのは慎重に行ってください。
- WP:RSで、自費出版物は「ほかの情報源が評価したりコメントしたりするまで待つのが望ましい」となっています。どこかの信頼できるニュースサイトが反応してくれたら堂々と書けます。
- ただ、書いてある内容を元に、今ある記述内容を見直すことは可能です。例えば「『総見公武鑑』に名前がない」といった、今は記載されていない情報を探す手がかりにはなると思います。--Tanukisann(会話) 2024年10月16日 (水) 16:40 (UTC)
- しばらくお休みする予定だったけど、事情が変わったので。自分の蒔いた種なので、その後始末はしませんと。
- 自費出版され、様々な情報が書かれている本ですが、自費出版物から査読済みの学術出版社から発売と大幅クラスチェンジするとのことです。
- https://x.com/Goryodynasty/status/1851994356305244506
- この会社さん、まったく名前を聞かないけど新しい会社なのかな・・・まあ、それはともかくとして。
- https://unitedscholarsacademicpress.com/
- 日本で正式に発売された後は、「弥助: 侍伝説の歴史学的検証」を基にした変更や記述の相談は解禁となります。どうぞご自由に。
- なお、ローカルルールがある都合上、書き込む前に提案を行うようにしましょう(誤字脱字・ソースの整理ならいつでもどうぞ)
- 単純にこの本、良くまとまっているのでおすすめします。電子書籍ならお手頃価格なので。--Tanukisann(会話) 2024年11月1日 (金) 16:59 (UTC)