ジルセウ・ジョゼ・ギマランイス
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この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2019年9月) |
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名前 | ||||||
本名 |
ジルセウ・ジョゼ・ギマランイス Dirceu José Guimarães | |||||
ラテン文字 | Dirceu | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | 1952年6月15日 | |||||
出身地 | リオデジャネイロ | |||||
没年月日 | 1995年9月15日(43歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | 引退 | |||||
ポジション | MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1970-1972 | コリチーバ | 26 | (1) | |||
1973-1976 | ボタフォゴ | 52 | (9) | |||
1976 | フルミネンセ | 22 | (2) | |||
1977-1978 | ヴァスコ・ダ・ガマ | 25 | (2) | |||
1978-1979 | クラブ・アメリカ | 30 | (10) | |||
1979-1982 | アトレティコ・マドリード | 84 | (18) | |||
1982-1983 | ヴェローナ | 29 | (2) | |||
1983-1984 | ナポリ | 30 | (5) | |||
1984-1985 | アスコリ | 27 | (5) | |||
1985-1986 | コモ | 25 | (2) | |||
1986-1987 | アヴェッリーノ | 23 | (6) | |||
1988 | ヴァスコ・ダ・ガマ | |||||
1988 | マイアミ・シャークス | |||||
1989-1991 | エボリターナ | |||||
1991 | ハーヴィー・ボローニャ (フットサル) | |||||
1992 | ベネヴェント | |||||
1992-1993 | ジャンパオリ・アンコーナ (フットサル) | |||||
1993 | アトレティコ・ユカタン | |||||
代表歴 | ||||||
1973-1986 | ブラジル [1] | 26 | (4) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ジルセウ(Dirceu)ことジルセウ・ジョゼ・ギマランイス(Dirceu José Guimarães、1952年6月15日 - 1995年9月15日)は、ブラジル出身の元同国代表サッカー選手。ディルセウとも表記される。
国内外で成功を収め、FIFAワールドカップに3大会連続で出場した。
経歴
ブラジル時代
コリチーバFCでデビューすると、1973年からブラジルの強豪ボタフォゴFRに移籍、52試合に出場した。その後、フルミネンセFCとCRヴァスコ・ダ・ガマに1年ずつ在籍し、それぞれ20試合前後の出番を得た。
メキシコ・スペイン時代
1978年にメキシコのクラブ・アメリカへ移籍した。そこでの活躍が認められ、1979年からはスペインのアトレティコ・マドリードへ移籍した。アトレティコでは3年間で84試合に出場し、18得点を記録するなど、攻撃的なサイドバックとして成功を収めた。
イタリア時代
1982年からは、イタリアのエラス・ヴェローナFCへ移籍し、以降はSSCナポリ、アスコリ・カルチョ1898、コモ・カルチョ、USアヴェッリーノ1912とイタリアのクラブを渡り歩き、結果を残した。
晩年
晩年には古巣のCRヴァスコ・ダ・ガマや、アメリカのマイアミ・シャークスなどに在籍し、イタリアのフットサルチームなどでもプレーした。1993年、メキシコのアトレティコ・ユカタンで現役を引退した。
1995年、交通事故により43歳で死去。
代表歴
代表では、キャリアを通じて26試合に出場した。また、1974 FIFAワールドカップ、1978 FIFAワールドカップ、1982 FIFAワールドカップと、ワールドカップに3大会連続で出場した。78年大会では、イタリアとの3位決定戦で、ディノ・ゾフを破る決勝点を決めた。
タイトル
- カンピオナート・パラナエンセ - 1971、1972
- カンピオナート・カリオカ - 1976、1977、1988