アンベール・ド・ビリー(ビイイ)(Himbert de Billy, 1544年頃 - 1630年頃)は、フランスの占星術師。『恐るべき流星と、滅多に空に現れることがない驚異の幻像に関する概要的描写』(リヨン、1577年)を皮切りに、以降1630年まで毎年のように暦書や予言関係の著書を刊行した。その中にはロンドンで英語版(『奇妙で驚くべき流星や彗星が現れる、現1604年から始まる…以後7年間の確実なる驚異の予言』1604年)が出されたものもあった。なお、同時代の作家の詩では、代表的な占星術師としてビリーの名が挙げられている。 伝記的事実は余り知られていない。少なくともビリー自身は著書において、リヨネー地方シャルリューの生まれで、ブルゴーニュ地方のサン=タムールやロン=ル=ソーニエに住んでいると称していた。1595年頃にルーアンで刊行された著書(『1596年向けの暦と占筮』)には、著者51歳の肖像画が掲げられているため、1544年頃の生まれと推測されており、1630年以降の著書が確認されていないことから、その頃没したと推測されている。 なお、アントワーヌ・デュ・ヴェルディエの書誌(1585年)では、「アンベール・ド・ビリー」はオランダ出身の医師・音楽家コルネイユ・ド・ブロックランの変名であるとして、ビリーの著作は全てブロックランの項で扱われている。

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  • アンベール・ド・ビリー(ビイイ)(Himbert de Billy, 1544年頃 - 1630年頃)は、フランスの占星術師。『恐るべき流星と、滅多に空に現れることがない驚異の幻像に関する概要的描写』(リヨン、1577年)を皮切りに、以降1630年まで毎年のように暦書や予言関係の著書を刊行した。その中にはロンドンで英語版(『奇妙で驚くべき流星や彗星が現れる、現1604年から始まる…以後7年間の確実なる驚異の予言』1604年)が出されたものもあった。なお、同時代の作家の詩では、代表的な占星術師としてビリーの名が挙げられている。 伝記的事実は余り知られていない。少なくともビリー自身は著書において、リヨネー地方シャルリューの生まれで、ブルゴーニュ地方のサン=タムールやロン=ル=ソーニエに住んでいると称していた。1595年頃にルーアンで刊行された著書(『1596年向けの暦と占筮』)には、著者51歳の肖像画が掲げられているため、1544年頃の生まれと推測されており、1630年以降の著書が確認されていないことから、その頃没したと推測されている。 なお、アントワーヌ・デュ・ヴェルディエの書誌(1585年)では、「アンベール・ド・ビリー」はオランダ出身の医師・音楽家コルネイユ・ド・ブロックランの変名であるとして、ビリーの著作は全てブロックランの項で扱われている。 著書のうち、『1587年向けの暦』(リヨン/パリ、1586年頃)はガリカデジタル図書館(フランス国立図書館)[1]で公開されており、ノストラダムスの暦書同様、各月のカレンダーの冒頭に四行詩を添える書式が採られていることを確認できる。ちなみに、その中の3篇はノストラダムスの『百詩篇集』からの盗用である。また、ノストラダムスの『百詩篇集』を意識したのか、『1587年以降の未来に起こる、より記憶されるべき出来事の最初のサンチュリ (Première Centurie )』(パリ、1587年頃)という著書を刊行したこともあった。この場合のサンチュリは予言書の類義語として用いられており、100篇の詩を揃えているわけではない。 (ja)
  • アンベール・ド・ビリー(ビイイ)(Himbert de Billy, 1544年頃 - 1630年頃)は、フランスの占星術師。『恐るべき流星と、滅多に空に現れることがない驚異の幻像に関する概要的描写』(リヨン、1577年)を皮切りに、以降1630年まで毎年のように暦書や予言関係の著書を刊行した。その中にはロンドンで英語版(『奇妙で驚くべき流星や彗星が現れる、現1604年から始まる…以後7年間の確実なる驚異の予言』1604年)が出されたものもあった。なお、同時代の作家の詩では、代表的な占星術師としてビリーの名が挙げられている。 伝記的事実は余り知られていない。少なくともビリー自身は著書において、リヨネー地方シャルリューの生まれで、ブルゴーニュ地方のサン=タムールやロン=ル=ソーニエに住んでいると称していた。1595年頃にルーアンで刊行された著書(『1596年向けの暦と占筮』)には、著者51歳の肖像画が掲げられているため、1544年頃の生まれと推測されており、1630年以降の著書が確認されていないことから、その頃没したと推測されている。 なお、アントワーヌ・デュ・ヴェルディエの書誌(1585年)では、「アンベール・ド・ビリー」はオランダ出身の医師・音楽家コルネイユ・ド・ブロックランの変名であるとして、ビリーの著作は全てブロックランの項で扱われている。 著書のうち、『1587年向けの暦』(リヨン/パリ、1586年頃)はガリカデジタル図書館(フランス国立図書館)[1]で公開されており、ノストラダムスの暦書同様、各月のカレンダーの冒頭に四行詩を添える書式が採られていることを確認できる。ちなみに、その中の3篇はノストラダムスの『百詩篇集』からの盗用である。また、ノストラダムスの『百詩篇集』を意識したのか、『1587年以降の未来に起こる、より記憶されるべき出来事の最初のサンチュリ (Première Centurie )』(パリ、1587年頃)という著書を刊行したこともあった。この場合のサンチュリは予言書の類義語として用いられており、100篇の詩を揃えているわけではない。 (ja)
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  • アンベール・ド・ビリー(ビイイ)(Himbert de Billy, 1544年頃 - 1630年頃)は、フランスの占星術師。『恐るべき流星と、滅多に空に現れることがない驚異の幻像に関する概要的描写』(リヨン、1577年)を皮切りに、以降1630年まで毎年のように暦書や予言関係の著書を刊行した。その中にはロンドンで英語版(『奇妙で驚くべき流星や彗星が現れる、現1604年から始まる…以後7年間の確実なる驚異の予言』1604年)が出されたものもあった。なお、同時代の作家の詩では、代表的な占星術師としてビリーの名が挙げられている。 伝記的事実は余り知られていない。少なくともビリー自身は著書において、リヨネー地方シャルリューの生まれで、ブルゴーニュ地方のサン=タムールやロン=ル=ソーニエに住んでいると称していた。1595年頃にルーアンで刊行された著書(『1596年向けの暦と占筮』)には、著者51歳の肖像画が掲げられているため、1544年頃の生まれと推測されており、1630年以降の著書が確認されていないことから、その頃没したと推測されている。 なお、アントワーヌ・デュ・ヴェルディエの書誌(1585年)では、「アンベール・ド・ビリー」はオランダ出身の医師・音楽家コルネイユ・ド・ブロックランの変名であるとして、ビリーの著作は全てブロックランの項で扱われている。 (ja)
  • アンベール・ド・ビリー(ビイイ)(Himbert de Billy, 1544年頃 - 1630年頃)は、フランスの占星術師。『恐るべき流星と、滅多に空に現れることがない驚異の幻像に関する概要的描写』(リヨン、1577年)を皮切りに、以降1630年まで毎年のように暦書や予言関係の著書を刊行した。その中にはロンドンで英語版(『奇妙で驚くべき流星や彗星が現れる、現1604年から始まる…以後7年間の確実なる驚異の予言』1604年)が出されたものもあった。なお、同時代の作家の詩では、代表的な占星術師としてビリーの名が挙げられている。 伝記的事実は余り知られていない。少なくともビリー自身は著書において、リヨネー地方シャルリューの生まれで、ブルゴーニュ地方のサン=タムールやロン=ル=ソーニエに住んでいると称していた。1595年頃にルーアンで刊行された著書(『1596年向けの暦と占筮』)には、著者51歳の肖像画が掲げられているため、1544年頃の生まれと推測されており、1630年以降の著書が確認されていないことから、その頃没したと推測されている。 なお、アントワーヌ・デュ・ヴェルディエの書誌(1585年)では、「アンベール・ド・ビリー」はオランダ出身の医師・音楽家コルネイユ・ド・ブロックランの変名であるとして、ビリーの著作は全てブロックランの項で扱われている。 (ja)
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  • アンベール・ド・ビリー (ja)
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