兵庫寮(ひょうごりょう)は、兵部省所管の兵庫(左右兵庫・内兵庫)の後身である軍事官司。和訓は「つわもののくらのつかさ」、唐名は武庫署。 『日本書紀』朱鳥元年(686年)条において難波に置かれた兵庫職が見える。令制では、左右兵庫と内兵庫があり、前者には頭・助・大允・少允・大属・少属各1人及び使部20人・直丁2人。後者には正・佑・令史各1人などの職員があった。左右兵庫は元旦儀衛・蕃客宴会などの儀礼や戦闘で用いる儀仗・兵器を色別に棚に安置して、その出納・曝涼・修理などにあたった。兵庫寮の武器管理の責任は重く、儀仗・武器の出納には、勅を必要とするなど厳重な管理下に置かれていた。一方、内兵庫については不明な点も多く、天皇御料の武器を管理していたとする説や非常に備えて左右兵庫と同様の組織を置いたとする説などがある。その後、大同3年(806年)に官司の整理のために内兵庫が左右兵庫に分割・合併され、翌年に左右兵庫にそれぞれ史生2名が追加された。