多紀 元孝(たき もとたか、元禄8年(1695年) - 明和3年6月20日(1766年7月26日))は、江戸時代中期の奥医師。本姓は福島、通称は安元、号は玉池。 平安時代の医家・丹波康頼の子孫の家系。の養子になり、享保12年(1727年)に元燕が致仕したため家督を継ぐ。享保20年(1735年)に番医となり、元文元年(1736年)には月光院の療用を命ぜられて寄合となる。延享4年(1747年)に西丸奥医師に任ぜられ、俸禄100俵に100俵を加増されて200俵となり、法眼に叙せられた。寛延2年(1749年)に養父が没すると家号を多紀に改めた。宝暦2年(1752年)には奥医師(一時二丸奥医師となるが本丸奥医師)となり、宝暦4年(1754年)が病により、日光に赴く。明和2年(1765年)5月に漢方医の教育のために神田佐久間町に私塾・躋寿館(せいじゅかん、後の医学館)を創設した。

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  • 多紀 元孝(たき もとたか、元禄8年(1695年) - 明和3年6月20日(1766年7月26日))は、江戸時代中期の奥医師。本姓は福島、通称は安元、号は玉池。 平安時代の医家・丹波康頼の子孫の家系。の養子になり、享保12年(1727年)に元燕が致仕したため家督を継ぐ。享保20年(1735年)に番医となり、元文元年(1736年)には月光院の療用を命ぜられて寄合となる。延享4年(1747年)に西丸奥医師に任ぜられ、俸禄100俵に100俵を加増されて200俵となり、法眼に叙せられた。寛延2年(1749年)に養父が没すると家号を多紀に改めた。宝暦2年(1752年)には奥医師(一時二丸奥医師となるが本丸奥医師)となり、宝暦4年(1754年)が病により、日光に赴く。明和2年(1765年)5月に漢方医の教育のために神田佐久間町に私塾・躋寿館(せいじゅかん、後の医学館)を創設した。 (ja)
  • 多紀 元孝(たき もとたか、元禄8年(1695年) - 明和3年6月20日(1766年7月26日))は、江戸時代中期の奥医師。本姓は福島、通称は安元、号は玉池。 平安時代の医家・丹波康頼の子孫の家系。の養子になり、享保12年(1727年)に元燕が致仕したため家督を継ぐ。享保20年(1735年)に番医となり、元文元年(1736年)には月光院の療用を命ぜられて寄合となる。延享4年(1747年)に西丸奥医師に任ぜられ、俸禄100俵に100俵を加増されて200俵となり、法眼に叙せられた。寛延2年(1749年)に養父が没すると家号を多紀に改めた。宝暦2年(1752年)には奥医師(一時二丸奥医師となるが本丸奥医師)となり、宝暦4年(1754年)が病により、日光に赴く。明和2年(1765年)5月に漢方医の教育のために神田佐久間町に私塾・躋寿館(せいじゅかん、後の医学館)を創設した。 (ja)
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  • 多紀 元孝(たき もとたか、元禄8年(1695年) - 明和3年6月20日(1766年7月26日))は、江戸時代中期の奥医師。本姓は福島、通称は安元、号は玉池。 平安時代の医家・丹波康頼の子孫の家系。の養子になり、享保12年(1727年)に元燕が致仕したため家督を継ぐ。享保20年(1735年)に番医となり、元文元年(1736年)には月光院の療用を命ぜられて寄合となる。延享4年(1747年)に西丸奥医師に任ぜられ、俸禄100俵に100俵を加増されて200俵となり、法眼に叙せられた。寛延2年(1749年)に養父が没すると家号を多紀に改めた。宝暦2年(1752年)には奥医師(一時二丸奥医師となるが本丸奥医師)となり、宝暦4年(1754年)が病により、日光に赴く。明和2年(1765年)5月に漢方医の教育のために神田佐久間町に私塾・躋寿館(せいじゅかん、後の医学館)を創設した。 (ja)
  • 多紀 元孝(たき もとたか、元禄8年(1695年) - 明和3年6月20日(1766年7月26日))は、江戸時代中期の奥医師。本姓は福島、通称は安元、号は玉池。 平安時代の医家・丹波康頼の子孫の家系。の養子になり、享保12年(1727年)に元燕が致仕したため家督を継ぐ。享保20年(1735年)に番医となり、元文元年(1736年)には月光院の療用を命ぜられて寄合となる。延享4年(1747年)に西丸奥医師に任ぜられ、俸禄100俵に100俵を加増されて200俵となり、法眼に叙せられた。寛延2年(1749年)に養父が没すると家号を多紀に改めた。宝暦2年(1752年)には奥医師(一時二丸奥医師となるが本丸奥医師)となり、宝暦4年(1754年)が病により、日光に赴く。明和2年(1765年)5月に漢方医の教育のために神田佐久間町に私塾・躋寿館(せいじゅかん、後の医学館)を創設した。 (ja)
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  • 多紀元孝 (ja)
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