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{{複数の問題 |
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| 存命人物の出典明記 = 2018年3月 |
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| 独自研究 = 2018年3月 |
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{{Infobox baseball player |
{{Infobox baseball player |
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|選手名 |
| 選手名 = 大久保 博元 |
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| 画像 = H ohkubo20150703 (cropped).jpg |
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|所属球団 = |
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| 画像サイズ = 280 |
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| 画像説明 = [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]監督時代<br>(2015年、東京ドームにて) |
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|背番号 = |
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| 所属球団 = |
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|国籍 = {{JPN}} |
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| 役職 = |
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|出身地 = [[茨城県]][[東茨城郡]][[大洗町]] |
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| 背番号 = |
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|利き腕 = 右 |
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| 身長 = 180 |
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|打席 = 右 |
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| 体重 = 108 |
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|守備位置 = [[捕手]] |
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| 利き腕 = 右 |
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|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1984}} |
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| 打席 = 右 |
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|ドラフト順位 = ドラフト1位 |
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| 守備位置 = [[捕手]] |
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|初出場 = 1985年7月30日 |
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| プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1984}} |
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|最終出場 = 1995年6月22日 |
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| ドラフト順位 = ドラフト1位 |
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|年俸 = |
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| 初出場 = 1985年7月30日 |
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|経歴 = <nowiki></nowiki> |
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| 最終出場 = 1995年6月22日 |
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| 年俸 = |
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| 経歴 = |
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* [[茨城県立水戸商業高等学校]] |
* [[茨城県立水戸商業高等学校]] |
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* [[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]] (1985 - 1992) |
* [[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]] (1985, 1987 - 1992) |
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* [[読売ジャイアンツ]] (1992 - 1995) |
* [[読売ジャイアンツ]] (1992 - 1995) |
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|経歴補足題 |
| 経歴補足題 = 監督・コーチ歴 |
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|経歴補足 |
| 経歴補足 = |
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* |
* 埼玉西武ライオンズ (2008, 2010) |
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* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] (2012 - 2015) |
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* [[読売ジャイアンツ]] (2023) |
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{{ActorActress |
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| 芸名 = デーブ 大久保 |
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| ふりがな = デーブ おおくぼ |
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| 画像ファイル = |
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| 画像サイズ = |
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| 画像コメント = |
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| 本名 = 大久保 博元 |
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| 別名義 = |
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| 出生地 = {{JPN}}<br />[[茨城県]][[東茨城郡]][[大洗町]] |
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| 死没地 = |
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| 国籍 = {{JPN}} |
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| 身長 = 180cm |
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| 生年 = 1967 |
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| 生月 = 2 |
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| 生日 = 1 |
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| 没年 = |
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| 没月 = |
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| 没日 = |
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| 職業 = 元[[プロ野球選手]]・[[野球解説者]]・[[タレント]]・[[プロゴルファー]]・[[実業家]] |
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| ジャンル = |
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| 活動期間 = [[1996年]] - [[2007年]]、[[2016年]] - |
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| 活動内容 = |
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| 配偶者 = |
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| 著名な家族 = |
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| 事務所 = デーブカンパニー(1996年 - )<br />[[ソニー・ミュージックアーティスツ]](2016年 - 2022年3月)<ref>{{Cite web|和書|date=2022-04-01|url=https://www.sma.co.jp/s/sma/news/detail/97668?ima=0000&link=ROBO004#/|title=デーブ大久保 所属契約満了のお知らせ|publisher=ソニー・ミュージックアーティスツ|accessdate=2022-12-18}}</ref> |
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| 公式サイト = |
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| 主な作品 = |
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| 備考 = |
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'''大久保 博元'''(おおくぼ ひろもと |
'''大久保 博元'''(おおくぼ ひろもと、[[1967年]]〈[[昭和]]42年〉[[2月1日]] - )は、[[茨城県]][[東茨城郡]][[大洗町]]出身の元[[プロ野球選手]]([[捕手]]、右投右打)、[[野球解説者]]・[[野球評論家]]、[[YouTuber]]、[[プロゴルファー]]、[[実業家]]。 |
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[[愛称]]は'''デーブ'''、'''ブーちゃん'''。現役引退後は'''デーブ大久保'''名義で活動しており、[[埼玉西武ライオンズ]]コーチ時代は登録名としても使用した。第59代[[読売ジャイアンツ|巨人]]4番打者、第5代[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]監督。[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[新橋 (東京都港区)|新橋]]・[[居酒屋]]「肉蔵でーぶ」オーナー、東京/[[横浜市|横浜]]「デーブ ベースボールアカデミー」主宰者。 |
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{{by|1995年}}限りで現役を引退後、[[タレント]]・[[野球解説者]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[ニッポン放送]]、[[サンケイスポーツ]])・[[プロゴルファー]]として活動。 |
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== 経歴 |
== 経歴== |
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=== プロ入りまで === |
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[[茨城県立水戸商業高等学校]]から{{by|1985年}}の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]1位で[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]に入団。入団当時から長打力には定評があり、{{by|1986年}}の1年間は米国野球留学のために渡米し、帰国した{{by|1987年}}には[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスターゲーム]]でMVPを獲得する。しかし、当時は正捕手に[[伊東勤]]が定着しており、守備に難があることに加えて肥満体型で起用されることが少なく、ほとんどが[[代打]]要員としての出場だった。 |
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[[茨城県立水戸商業高等学校|水戸商業]]では2年次の{{by|1983年}}夏、捕手として出場した[[全国高等学校野球選手権茨城大会|茨城大会]]で決勝に進出するが、エースの[[加茂川重治]]を擁する[[茨城県立茨城東高等学校|茨城東高]]に前年秋の県大会準決勝に続いて敗退。 |
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3年次の{{by|1984年}}夏も茨城大会で敗れ、甲子園には出場できなかったものの高校通算52本塁打を記録。 |
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{{by|1992年}}5月、[[中尾孝義]]との交換[[トレード]]で[[読売ジャイアンツ]]に移籍。いきなり正捕手として抜擢され、オールスターまでに打率.300・12本塁打を放つ活躍を見せる。そのため、[[藤田元司]]監督の進言もあって球団から前半戦終了時に2000万円というボーナスを得た<ref>大久保の責任ではないが、前半戦終了時という異例の時期に主軸選手の年俸クラスの巨額のボーナスが大久保一人に支給されたことで、チーム内に気まずい空気が漂ってしまい、このボーナスは逆効果だったそうである。藤田元監督は「ポンと、渡しちゃった。例えば石毛と大久保に500万ずつとか…。(渡辺に対しての)自分の言葉が足りなかった。[http://www.1101.com/education_fujita/2002-11-15.html])」と振り返っている</ref>)。しかし、1シーズンを乗り切るスタミナがないことが露呈して後半戦に大きく失速し、優勝争いの大事な時期には再び[[村田真一]]に正捕手の座を奪われる。 |
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高校時代に、先輩の彼女に[[性行為]]を強要した話を、トークバラエティ番組『[[ろみひー]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])で暴露<ref>https://www.tanteifile.com/newswatch/2008/11/13_01/</ref>。 |
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{{by|1993年}}は、開幕から村田との併用ながらハイペースで本塁打を量産していたものの、5月下旬に左腕を骨折すると、9月まで戦線を離脱した。{{by|1994年}}は、打撃は良いものの、リードやキャッチングの面から[[村田真一]]が正捕手となり、二番手捕手や代打要員に甘んじる。{{by|1995年}}[[4月26日]]、空振りした際にバランスを崩して転倒し足首を骨折したことが遠因となって28歳の若さでユニフォームを脱いだ。 |
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=== 西武時代 === |
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引退後は、フジテレビ、ニッポン放送、サンケイスポーツの解説者となり、その傍ら「デーブ大久保」名でのタレント業、[[プロゴルファー]]としても活動。{{by|2008年}}より、[[渡辺久信]]監督の強い要望により埼玉西武ライオンズ1軍打撃コーチに就任。実に16年ぶりに古巣のユニホームを着ることとなった。なおコーチ就任後の彼のユニフォームのバックネームは「'''D.OHKUBO'''」となっている。 |
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[[1984年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1984年度ドラフト会議]]にて[[広澤克実|広沢克己]]のクジを外した[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]からの1位指名で入団<ref>{{Cite web|和書|date=2018-10-15 |url=http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181015-11 |title=【ドラフト会議物語22】目玉は明大コンビの広沢、竹田。西武は3人で終了【1984年】|publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |work=週刊ベースボールマガジンONLINE |accessdate=2020-11-29}}</ref>。契約金は4,500万円で<ref>{{Cite news |和書|title=表も裏も世話になった“心の親父”元西武監督の根本陸夫さん |newspaper=[[夕刊フジ|zakzak]] |author=大久保博元 |date=2011-03-01 |url=https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110630/bbl1106301522006-n1.htm |accessdate=2020-11-29}}</ref>、{{by|1985年}}の卒業式では母校に100万円を小切手で寄付した<ref>{{Cite news |和書 |title=西武の新人捕手 卒業式で母校に100万円寄付 |newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]] |date= |url=https://web.archive.org/web/20140428020451/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0803/kiji/K20110301000330820.html |accessdate=2020-11-29}}オリジナルは2008年3月1日掲載。</ref>。 |
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入団当時から長打力が注目され、{{by|1986年}}の1年間は1A・サンノゼ・ビーズに野球留学のため渡米した。引率を担当した[[和田博実]]二軍打撃コーチから、太っている体型から「デーブ」というあだ名を付けられた。また当時の西武球団の慣習(2年目の選手が新人の教育係となる)から、渡米前には1年後輩の[[清原和博]]の教育係を務めていた。一塁手として起用の構想もあったが清原の活躍で立ち消えとなり、一時は三塁手にも挑戦した。 |
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2009年度も引き続き打撃コーチを務める予定であったが、11月12日、知人女性が大久保から暴行を受けたとして警視庁品川署に[[被害届]]を提出していることが発覚([[中日スポーツ]]が「独占スクープ」と題して最初に報道しているが、日本シリーズ終了を待っての報道だった可能性が高い)。大久保本人は「刑事罰を受けるようなことは、自分の中ではしていない。殴ってはいない」と否定したが、11月14日に[[傷害罪|傷害]]の疑いで[[書類送検]]されるに至った。この件について球団から厳重注意処分を受け、優勝パレードなどの球団行事への参加を自粛している。 |
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帰国した{{by|1987年}}には[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスターゲーム]]でMVPを獲得。{{by|1989年}}には当時[[イースタン・リーグ|イースタン]]記録となる24本塁打・70打点でイースタン二冠王に輝く<ref name="大久保博元">{{Cite web|和書|url=https://s-rights.co.jp/member/okubo-hiromoto |title=大久保博元のプロフィール |publisher=株式会社RIGHTS.(ライツ)|accessdate=2020-11-29}}</ref>。だが当時の正捕手には[[伊東勤]]が定着しており[[森祇晶]]監督からはリードを評価されず、ほとんどが[[代打]]や指名打者ばかりで捕手としての先発出場はなかった。 |
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しかしその後も週刊誌などで隠し子騒動<ref>『[[週刊新潮]]』誌は被害者の知人女性を「隠し子を産んだ不倫相手だった」と報じるなどした。</ref>や登板日漏洩疑惑といったプライベートな問題を相次いで報じられ、12月9日、コーチ職の解任が決定され、編成部プロ担当に配属されたことが正式に発表された。知人女性への暴行事件は、会見では暴行を否定していたが、検察側の調べでは容疑を認めたため、東京区検が2009年3月13日までに傷害罪で[[略式起訴]]、[[東京簡易裁判所|東京簡裁]]は同27日検察側の請求通り罰金20万円の有罪判決を出した。 |
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{{by|1988年}}以降は[[タイラー・リー・バンバークレオ]]や[[オレステス・デストラーデ]]の加入で、指名打者での出場もなくなり二軍生活が続いた。 |
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2009年はフロント業務(編成部プロ担当)を一年間務め、{{by|2010年}}に再び西武の打撃コーチ(2軍)を務めていたが、7月22日、西武球団はコーチとして不適切な行為があったため同日付でコーチから外し、球団本部長付とすることを発表した<ref>http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2010072201025</ref>。球団は選手ら関係者へのヒアリングの結果、大久保が暴力行為を行っていたことが認められたため、同月29日に大久保を解雇したことを発表した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100729/bbl1007291739009-n1.htm 大久保前コーチを解雇 西武、暴力行為などが理由] - 産経MSN 2010年7月29日</ref>。 |
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=== 巨人時代 === |
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{{by|1992年}}[[5月11日]]、[[中尾孝義]]との交換[[トレード]]で[[読売ジャイアンツ]]へ移籍。西武では活躍の場がない大久保のために、同じ茨城県出身である球団管理部長の[[根本陸夫]]が主導したトレードだった。 |
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<!---ソースはNumber・新聞インタビューなどから---> |
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2008年の西武の打撃コーチとして、[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]流の早朝練習('''アーリー・ワーク''')を取り入れ、10数通りのケースバッティングを叩き込み直し、打線を機能させる意識改革を行った。なおアーリー・ワークについては[[野村克也]]も自著の「あぁ、監督」で一定の評価をしていた。 |
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巨人ではいきなり正捕手として起用され、[[6月]]には[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を獲得し、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]前までに打率.300・12本塁打を放つ活躍を見せた。大久保が本塁打を打った試合は必ず勝利していたため、「'''大久保が打てば負けない'''」というジンクスまで生まれ、[[藤田元司]]監督の進言もあって球団から前半戦終了時に2000万円のボーナスを得た。しかし、2000万円という金額については藤田も想定外であり、「大久保だけボーンと2000万円…。これはみんな、雰囲気悪くなりますよ。チームじゅうで、雰囲気が悪いんです。いや、これには、まいりました」<ref>https://www.1101.com/webshinsho/03/fujita/15.html</ref>とのちに述べている。大久保も、オールスター後は大きく失速し、チームが優勝を争った終盤戦には[[村田真一]]に正捕手の座を奪われた。 |
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自身の1軍半(1.5軍)が長かった経験から、1軍コーチと2軍コーチの綿密な連絡の有無が若手の成長に影響を与えるという考えで、コーチ陣会議を開催して円滑な選手育成を行った。大久保自身が現役時代に、2軍コーチに言われて改善した点を1軍昇格後に1軍コーチから否定されるという経験を何度もして、改善方法がわからなくなったことがあるとコメントしている。 |
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[[長嶋茂雄]]が監督に就任した{{by|1993年}}は開幕から村田との併用で起用されていた。ハイペースで本塁打を量産し、[[5月27日]]の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦([[明治神宮野球場|神宮]])ではプロ入り初盗塁を決める。しかし、その試合で[[高津臣吾]]から死球を受け、左手首を骨折し9月まで長期にわたり戦線離脱を余儀なくされた。復帰後となる[[10月2日]]と[[10月3日|翌3日]]の[[広島東洋カープ|広島]]戦([[東京ドーム|東京D]])では初めて4番・[[一塁手]]で先発出場し、結果は7打数1安打1打点で、2日に[[秋村謙宏]]から放ったソロ本塁打で記録したものであった。同年は巨人の日本人選手では[[原辰徳]]・[[松井秀喜]]に次ぐ10本塁打を放つも、本塁打以外の打点が2しかなかったため、16打点であった。オフに年俸3,100万円で契約更改した<ref>{{Cite news |和書 |title=【12月9日】1993年(平5) デーブ大久保激怒!「言いたくないけど余計な金使うから…」 |newspaper=Sponichi Annex |date=2008-12-01 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0712/kiji/K20081201Z00002400.html |accessdate=2020-11-29}}</ref>。 |
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大久保個人も、純粋な打撃指導の功績は[[中村剛也]]のバッティングをポイント修整した程度で、指導そのものはアメリカで長年[[松井稼頭央]]の練習パートナーを務め、メジャーリーグから打撃理論を吸収した[[熊沢とおる]]打撃コーチ補佐が主導するケースが多かったと語っている。アーリーワークを押し通したことから頑迷なイメージもあり、[[ヒラム・ボカチカ]]と確執を引き起こしたが、自身の打撃理論を確立している[[G.G.佐藤]]や天才肌の[[中島裕之]]など、第1級主軸選手の打撃指導からは敢えて距離を置かせる<!--主軸打者が距離を置いていたのは事実として「敢えて」の根拠が示されていません-->{{要出典|date=2010年7月}}などの柔軟さもみられた。 |
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{{by|1994年}}は、劇的なサヨナラ本塁打を複数放つなど打撃は好調だったが、リードやキャッチングの面から再び村田が正捕手となり、二番手捕手や代打要員にとしての起用が主だった。[[9月10日]]の広島戦(東京D)で3-11と大きくリードされた6回1死で打席に立った大久保は、2球目の直後に後ろを振り向くと、[[西山秀二]]と球審へ怒りの形相でクレームをつけ始めた。ネクストサークルの[[福王昭仁]]と一塁ベースコーチの[[中畑清]][[一軍]]打撃コーチが慌てて駆けつけて仲裁に入ったが、これは西山の故意死球をほのめかすささやきに大久保が過剰反応したものであった。プレー再開後も怒りが冷めやらぬ大久保は、1-1から[[望月秀通]]の直球を思い切り空振りし、フルカウントから外角低めに落ちる球をまたも空振りし三振に倒れた。まんまと広島バッテリーの術中にはまった悔しさがさらなる怒りを呼んだのか、直後の大久保はバットを2度にわたり、地面に叩きつけ、荒々しく放り投げた。ヘルメットもグラウンドに投げ捨て、大暴れするなど大人げない行動にスタンドは唖然。しかし「みんなスカート履いて野球やってるよ」と、闘志を前面に出さない選手らに不満を抱いていた長嶋監督は、逆に大久保の振る舞いを評価した<ref name="デーブ大久保">{{Cite web|和書|author=久保田龍雄 |date=2020-05-15 |url=https://dot.asahi.com/articles/-/90704?page=1 |title=“故意死球”ほのめかしにブチギレ… デーブ大久保の「感情暴走」珍事件 |publisher=[[朝日新聞社]] |work=[[AERA dot.|dot.]] |accessdate=2020-11-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=所ひで |date=2020-08-26 |url=https://www.asagei.com/excerpt/156969 |title=長嶋監督がまさかの反応!デーブ大久保「バット叩き割り」後に“悟ったこと” |publisher=[[徳間書店]] |work=[[アサヒ芸能|アサ芸プラス]] |accessdate=2020-11-29}}</ref>。[[9月17日]]の[[阪神タイガース|阪神]]戦(東京D)では、[[中西清起]]からサヨナラ2ラン本塁打を放った際に大口を開けて泣いている。8月下旬から2勝12敗と低迷していたチームは再び盛り返し、[[中日ドラゴンズ|中日]]との[[10.8決戦]]を制したことで4年ぶりのリーグ優勝を果たした<ref name="デーブ大久保" />。古巣・西武との[[1994年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、[[10月26日]]の第4戦([[西武ドーム|西武球場]])9回2死で[[杉山賢人]]から同点本塁打を放ち、日本一に貢献。 |
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2008年5月7日の対日本ハム戦で、9回裏に[[片岡易之]]が[[ダルビッシュ有]]から[[サヨナラゲーム|サヨナラ安打]]を放ち勝利したが、ベンチを飛び出て喜びの余りバッターランナーの片岡を追いかけたところ右脚[[大腿]]部の肉離れを起こして歩けなくなり、部下である[[細川亨]]と[[クレイグ・ブラゼル]]に抱えられてベンチ裏のトレーナーズルームに運ばれた。この前日にはボカチカがサヨナラ本塁打を放ったが、そのとき既に大久保の右脚には異変が起きていた。 |
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{{by|1995年}}は1994年オフからの契約更改交渉が長引き、自費キャンプとなったうえ、サインをしたのは2月のキャンプ初日だった。2年ぶりに開幕戦捕手として出場し、[[斎藤雅樹]]の2年連続開幕戦完封勝利に貢献。しかし、[[4月26日]]の広島戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民]])で空振りした際にバランスを崩し尻もちをついて足首を骨折。NPB球団の所属選手からなる外国人選抜チームと日本人選抜チームが対戦した「[[1995年のオールスターゲーム (日本プロ野球)#阪神大震災復興支援チャリティードリームゲーム|阪神大震災復興支援チャリティードリームゲーム]]」([[7月24日]]、[[福岡ドーム]])では、外国人側に捕手がいなかったため、あだ名が外国人的であること、また海外留学経験から英語が話せるという理由で、「デーブ」の登録名で外国人チームとして参加。もう1人の捕手として、当時[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]の正捕手だった[[定詰雅彦]]が「ジョー」の登録名で出場している。 |
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ベンチでは「野次将軍」を担当していた。 |
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同年28歳で現役を引退。当時は故障(骨折)による引退と思われていたが、コーチ<!--(特にバッテリーコーチだった[[山倉和博]])(リンク先の記事で大久保は具体的な人物を挙げていない)-->との確執が原因であったことを後年明かしている<ref>{{Cite news |和書 |title=いま明かす巨人引退の真相…あのコーチが引き金だ |newspaper=夕刊フジ |author=大久保博元 |date=2011-10-20|url=https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20111020/bbl1110200831001-n1.htm|accessdate=2020-09-07}}</ref>。 |
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しかし、自主練習であった「アーリー・ワーク」を遅刻したら罰金という制度(罰金は食事会の資金として還元していた)を強制的に行い、それに反発した選手に暴力を働いたことを問題視され、解任された。 |
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=== 引退後 === |
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==== 解説者・タレント・プロゴルファー活動 ==== |
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[[ファイル:肉蔵デーブ.jpg|thumb|200px|「肉蔵でーぶ」の外観]] |
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引退後の[[1996年]]、個人事務所「デーブカンパニー」を設立。[[フジテレビジョン|フジテレビ]](2000年 - [[2007年]])・[[ニッポン放送]](1996年 - 2007年)野球解説者、サンケイスポーツ野球評論家(2000年 - 2007年)となる傍らで、「'''デーブ大久保'''」名義でタレント活動を始めた。 |
|||
1999年から『[[週刊パーゴルフ]]』で始めた連載をきっかけに、[[プロゴルファー]]としても活動する<ref name="大久保博元" />。[[2001年]]の[[クォリファイングトーナメント]]に挑戦し、最初の関門であるファーストクォリファイを突破してセカンドに進んだ。サードへの進出は果たせなかったが、主催者推薦での出場が可能となり、[[2002年]]の[[ダイヤモンドカップゴルフ|ダイヤモンドカップトーナメント]]でツアーデビュー。その後も12試合のレギュラーツアーに参戦したが、予選通過試合はなかった。 |
|||
==== 西武コーチ就任から楽天監督時代まで ==== |
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{{by|2008年}}、[[渡辺久信]]監督の強い要望により、古巣・西武に一軍打撃コーチとして16年ぶりに復帰。<!---ソースはNumber・新聞インタビューなどから--->登録名はニックネームでもある「デーブ大久保」とした<ref>[https://npb.jp/history/register/index_o.html プロ野球在籍者名簿 お]</ref>。 |
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[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]流の早朝練習「'''アーリー・ワーク'''」を取り入れ、10数通りのケースバッティングを叩き込み直し、打線を機能させる意識改革を行った。アーリー・ワークについては、[[野村克也]]が自著『あぁ、監督』で一定の評価をしていた<ref>{{Cite book |和書 |author=野村克也 |year=2009 |title=あぁ、監督 名将、奇将、珍将 |publisher=[[角川書店]] |series=[[角川oneテーマ21]] |pages={{要ページ番号|date=2020年11月}} |isbn=978-4-04-710183-8}}</ref>。自身の一軍半が長かった経験から、一軍・二軍コーチの綿密な連絡の有無が若手の成長に影響を与えるという考えで、コーチ陣会議を開催して円滑な選手育成を行った。 |
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ベンチでは「野次将軍」を担当。[[5月7日]]の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦([[西武ドーム]])では、9回裏に[[片岡治大]]が[[ダルビッシュ有]]からサヨナラ安打を放ち勝利したが、ベンチを飛び出て喜びの余りバッターランナーの片岡を追いかけたところ、両足[[大腿]]部の肉離れを起こし、[[細川亨]]と[[クレイグ・ブラゼル]]に抱えられ、ベンチ裏のトレーナーズルームに運ばれた。前日の[[5月6日]]には、[[ヒラム・ボカチカ]]がサヨナラ本塁打を放ったが、すでに大久保の右足には異変が起きていた。医師からは肥満体であることを指摘された。 |
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{{by|2009年}}はコーチ職を離れ、編成部プロ担当を1年間務める。{{by|2010年}}には二軍打撃コーチとして現場復帰。しかし、[[7月22日]]に西武球団から、コーチとして不適切な行為があったとして、同日付で大久保をコーチから外し、球団本部長付にすると発表された<ref>{{Cite news |和書|title=雄星らに暴力のデーブ電撃解任のワケ 過剰な罰金制度めぐり|newspaper=ZAKZAK|date=2010-07-23|url=http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20100723/bbl1007231145000-n2.htm|accessdate=2011-11-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100725111440/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20100723/bbl1007231145000-n2.htm |archivedate=2010-07-25}}</ref>。球団は選手ら関係者へのヒアリングの結果、大久保による暴力行為が認められたため、[[7月29日|同29日]]に大久保の解雇を発表した<ref>{{Cite news |和書|title=大久保前コーチを解雇 西武、暴力行為などが理由|newspaper=産経MSN|date=2010-07-29|url=http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100729/bbl1007291739009-n1.htm|accessdate=2011-11-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100801160621/http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100729/bbl1007291739009-n1.htm |archivedate=2010-08-01}}</ref>。 |
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退団後は、プロ野球コーチとしてのノウハウを活かし、一般向けの野球指導を行う「デーブベースボールアカデミー」を開講。少年野球の選手・指導者を中心に指導を行っている。 |
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{{by|2012年}}、[[星野仙一]]監督率いる[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の一軍打撃コーチに就任<ref>{{Cite web|和書|date=2011-10-31|url=http://www.rakuteneagles.jp/news/detail/1668.html|title=来季のコーチ契約について|publisher=東北楽天ゴールデンイーグルス|accessdate=2011-11-01}}</ref>。大久保によれば、西武から解雇された時点で「事実上の球界からの永久追放」と認識していたが、楽天球団の取締役だった[[米田純]]から「星野と選手の間で大きな溝ができているので、選手側の立場で星野との仲立をして欲しい」と依頼され、球界復帰を決意したという<ref name=ohkubo200824>[https://www.youtube.com/watch?v=55CcdeKXDLA 【衝撃の事実】楽天初代監督田尾さん、当時の楽天球団を赤裸々に告白。] - デーブ大久保チャンネル・2020年8月24日</ref>。同年シーズン終了後には二軍監督へ異動<ref>{{Cite web|和書|date=2012-10-09 |url=http://www.rakuteneagles.jp/news/detail/2595.html |title=来季の2軍チーム体制に関して |publisher=東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト |accessdate=2020-11-30}}</ref>。 |
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{{by|2014年}}[[5月]]、星野監督が腰椎[[椎間板ヘルニア]]と胸椎[[黄色靱帯骨化症]]で休養となり、監督代行を[[佐藤義則]]が務めていたが、[[7月2日]]より大久保が監督代行に就任する旨が発表された。佐藤は投手コーチに専念、[[酒井勉]]が二軍監督代行を務めることとなった<ref>{{Cite news |和書 |title=楽天 デーブ2軍監督が1軍代行監督に 2日から指揮 |newspaper=スポーツニッポン |date=2014-07-02 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/07/02/kiji/K20140702008489470.html |accessdate=2020-11-30}}</ref>。前年リーグ優勝したことで、星野が指揮を執るはずだった[[2014年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスター]]の指揮については辞退している<ref>{{Cite news |和書 |title=楽天・大久保2軍監督が1軍を指揮 球宴は「辞退させてもらう」 |newspaper=サンケイスポーツ |date=2014-07-02 |url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20140702/gol14070216290002-n1.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140706183038/https://www.sanspo.com/baseball/news/20140702/gol14070216290002-n1.html |archivedate=2014-07-06}}</ref>。[[7月24日]]、星野が監督復帰したことで再び二軍監督となる<ref>{{Cite web|和書|date=2014-07-24 |url=http://www.rakuteneagles.jp/news/detail/4389.html |title=コーチ人事に関して |publisher=東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト |accessdate=2020-11-30}}</ref>。しかし、シーズン終了後には星野の退任・球団副会長への異動があり、大久保は二軍監督から監督へ昇格、[[10月14日]]に就任が発表された<ref>{{Cite news |和書 |title=楽天大久保新監督「優勝して恩返し」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2014-10-14 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20141014-1381866.html |accessdate=2014-10-14}}</ref>。 |
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監督を務めた{{by|2015年}}は、序盤こそ勝率.500前後を維持するも、6月の[[セ・パ交流戦]]終了後以降は次第に失速。チームの借金は2桁に達し、順位も最下位に後退。[[クライマックスシリーズ]]進出の可能性が完全消滅した[[9月22日]]、シーズン終了をもって辞任することを発表した<ref>{{Cite tweet|author=東北楽天ゴールデンイーグルス|user=Rakuten__Eagles|number=646243806887612416|title=本日の試合後、大久保博元監督が責任をとり今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを発表しました。 残り試合を全力で闘い、5位、4位と1つでも上の順位を目指します。 #rakuteneagles |accessdate=2020-11-30}}</ref><ref>{{Facebook post|rakuteneagles.official|1029899723721147}}</ref>。退任発表時は1つでも上の順位を目指すとしていたが、[[10月3日]]にチームの最下位が確定し、[[10月6日|同6日]]のシーズン最終戦である[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦([[宮城球場|コボスタ宮城]])をもって退任となった。監督退任後に、星野から「翌年は編成本部長として球団に残って欲しい」旨の打診を受けたものの、「球団に不利なことを喋らせないための口止め料だと感じ『そんな金を貰わなくても余計なことは喋らない』として辞退した」ことをのちに明らかにしている<ref name=ohkubo200824 />。 |
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楽天監督退任を受け、[[横浜DeNAベイスターズ]]の[[中畑清]]監督が、大久保のコーチ入閣をDeNAフロントに要請したが、[[高田繁]][[ゼネラルマネージャー|GM]]を始めとしたフロント陣の反対で、横浜入りは立ち消えになった。ちなみに要請を却下された中畑も、不服として監督を辞任している<ref>{{Cite news |和書 |title=中畑監督辞任 本当の理由は「デーブ入閣却下」 |newspaper=[[東京スポーツ|東スポWeb]] |date=2015-10-06 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/132994 |accessdate=2020-11-30}}</ref>。 |
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==== 楽天監督退任以降 ==== |
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[[2016年]][[3月4日]]、[[食品衛生管理者]]の資格を取得し、[[東京都|東京]]・[[新橋 (東京都港区)|新橋]]に居酒屋「肉蔵でーぶ」を開業。その傍ら、フジテレビの野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家としての活動を再開している。 |
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また、[[2018年]]にはプロゴルファーとしての活動も再開し、12年ぶりに下部ツアーである[[AbemaTVツアー]]の「HEIWA・PGM Challenge II 〜 Road to CHAMPIONSHIP」へ出場した。 |
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[[2021年]]8月に[[心筋梗塞]]を発症したが、のちに復帰<ref>{{Cite news|title=デーブ大久保氏 2カ月前に心筋梗塞で倒れていた「生死をさまよった」と告白|newspaper=デイリースポーツ online|date=2021-10-13|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2021/10/13/0014758777.shtml|accessdate=2021-10-14}}</ref>。 |
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[[2022年の野球|2022年]]10月13日、[[2023年]]より監督・[[原辰徳]]の招聘で<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sanspo.com/article/20221206-NYWDDLORBROG3O2WSSZ6KLJ4XM/ |title= 【動画】江本孟紀氏が巨人・原監督&大久保コーチを直撃! ライバル阪神・岡田新監督との裏話も披露|accessdate=2022-12-06|publisher=サンケイスポーツ}}</ref>、読売ジャイアンツの一軍打撃チーフコーチに就任することが発表された<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.giants.jp/smartphone/G/gnews/news_3917362.html |title= 来季のコーチングスタッフについて|accessdate=2022-10-13|publisher=読売巨人軍公式サイト}}</ref>。しかしチームの成績は低迷。原の監督退任を受け、大久保も1年で退団した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/10/07/kiji/20231007s00001173305000c.html 大久保博元氏 巨人退団に至る心情を明かして涙浮かべる「楽しかったことはゼロです。苦しくて…」] - スポーツニッポン・2023年10月7日</ref>。 |
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== 人物 == |
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{{雑多な内容の箇条書き|date=2020年11月|section=1}} |
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[[File:Okubo hiromoto.jpg|thumb|2012年8月1日、[[秋田県立野球場|こまちスタジアム]]にて。]] |
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* 出身地の水戸には[[読売ジャイアンツ|巨人ファン]]が多く、大久保も幼少のころから巨人を応援していた。 |
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* 巨人に移籍した当初、藤田元司の下へ挨拶に訪れた際「太っていることなんか気にする必要ないぞ。うちにだって太っている選手はたくさんいるんだ。体は資本だ。気にするな」という言葉をもらった。宿舎の食堂で1人で食事を摂っていたところ、藤田が通りがかり「なんだデーブ、そんな量で足りるのか? 今日はよく練習していたんだ、もっと食べろよ」と大久保のために[[ステーキ]]2枚を注文したという。大久保は用意されたステーキを感激のあまり泣きながら食べた。当時を振り返った大久保は「この監督のためなら死んでもいい」と発言したが<ref>{{Cite book |和書 |year=2000 |title=プロ野球歴代監督の「采配力と人間力」 |publisher=[[宝島社]] |series=別冊宝島 1647 |page=112 |isbn=978-4-7966-7156-9}}</ref>、リード面でミスをした際などの藤田の怒りは凄まじく、叱られてしばらくトイレに行けないほど体が硬直したと語っている。ところが、叱られた翌日には「よう、デーブ、おはよう」と、昨日の怒りなどすっかり忘れたような笑顔で挨拶するさっぱりした人物でもあった<ref>{{Cite news |和書 |title=G笑撃!“脱ぎ芸”披露…オヤジの言葉に全員が泣いた |newspaper=zakzak |author=大久保博元 |date=2011-08-25 |url=https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110825/bbl1108251009000-n1.htm |accessdate=2020-11-30}}</ref>。引退時には藤田の家を訪ね、「僕に痩せろと言わなかったのは藤田さんだけ」と語った。藤田は毎日のように「おまえ、その体を保つのにはうんと走らなきゃいかんなぁ」と言っていたが「痩せろ」「体重を減らせ」という指摘はなかった。大久保にはそれが嬉しかったという。走れば痩せるだろうというのが藤田の真意であったが、このことを感謝された藤田は「人の心を傷つける言葉を使っちゃいけないな」と改めて気付いたという<ref name="糸井">{{Cite interview |和書|date=2002-11-15 |subject=藤田元司 |interviewer=[[糸井重里]] |url = https://www.1101.com/education_fujita/2002-11-15.html|title =体温のある指導者。藤田元司。 第15回 あれは、まちがいでした|work=[[ほぼ日刊イトイ新聞]]|accessdate=2013-01-28}}</ref>。藤田が亡くなると真っ先に弔問に駆けつけ、「本当にありがとうございました」と号泣しながら何度も頭を下げていた。 |
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* 藤田のほか、根本陸夫を「おやじ」と呼び、父親のように慕っている。二軍暮らしの続く大久保が、自身の扱いに対し首脳陣へ不満をぶつけた際、根本は「いちいち一人一人の社員(選手)のことなんか心配できるか、馬鹿野郎!」と怒鳴った。しかし、このときの根本は出番のない大久保を実は気にかけており、巨人へのトレード(1992年)は大久保を慮った根本の主導で行われている。チームを離れる際にも「お前は西武の人間なんだから、困ったら西武に戻ってこい」と言葉をかけてくれたという。根本の気遣いに感動する一方、西武時代に選手が街中でトラブルなどに巻き込まれた際は根本が仲介に赴き、瞬く間に事件をなかったことにしてしまう人脈の広さに驚くこともあったという。また、根本の自宅へ頻繁に招かれ、夫人特製の[[すき焼き]]が振る舞われたこともあった<ref name="高橋p12">{{Cite book |和書 |author=高橋安幸 |year=2016 |title=根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男 |publisher=[[集英社]] |page=12 |isbn=978-4-08-780799-8 |ref=harv}}</ref>。[[割下]]に[[牛乳]]が入る独特の風味で、[[工藤公康]]は「美味しくない」と敬遠し、次回招かれた際にはステーキに変わっていたが<ref name="高橋p12" />、大久保は20回以上食べたという<ref>{{Harvnb|高橋安幸|2016|p=29}}</ref>。 |
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* [[大型自動二輪車|大型自動二輪免許]]や[[大型自動車]]などを初め、多数の免許・資格を所持している。 |
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* 長男の大久保泰成も元野球選手<ref>{{Cite news|title=東亜学園イケメン主将大久保はデーブJr.|newspaper=日刊スポーツ|date=2008-07-03|url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/sensyuken/2008/chihou/news/p-bb-tp3-20080703-379106.html|accessdate=2020-10-04}}</ref>。[[東亜学園高等学校|東亜学園高校]]、[[専修大学硬式野球部|専修大学]]、[[セガサミー硬式野球部|セガサミー]]に在籍し、セガサミー時代は[[都市対抗野球大会|都市対抗]]に1回、[[社会人野球日本選手権大会|日本選手権]]に3回出場経験がある<ref>{{Facebook post|1465829136992708|2300887103486903|土井麻由実@Smile}}</ref>。引退後は[[セガトイズ]]の営業・広報を経て、大久保の個人事務所であるデーブカンパニーで従事している<ref>{{Cite web|和書|date=2020-03-26 |url=https://www.d-syj.com/cmb/pickup/post_43.html|title=大久保博元コーチのレッスンの様子をご紹介!バッティングは足の上げ方が重要 |publisher=LINEを使った指導で必ず成長出来る!デーブ大久保スマホ野球塾ブログ|accessdate=2020-10-04}}</ref>。 |
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*同じ母子家庭出身の[[愛甲猛]]は後年「お世辞とかじゃなくて応援していた」と語っている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=coMfHd-djeA 第一話 愛甲さん登場 「俺の周りは不良しかいなかった」] デーブ大久保チャンネル 2021/10/25 (2022年5月11日閲覧)</ref>。 |
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*2020年に配信を開始した自身のYouTubeチャンネル「デーブ大久保チャンネル」ではMCを務めている。ライオンズ・ジャイアンツの有名OBだけでなく幅広い球界関係者がゲストとして登場し「肉蔵でーぶ」店内で大久保とともに裏話などを語っている。 |
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*ジャイアンツ引退後 長野県にある泰阜村に野球教室の講師として呼ばれた事をきっかけに泰阜村と交流を持ち毎年野球教室に出向くだけでなく村の子供をプロ野球観戦に招待する等の活動を行っており毎年11月には当村で自身の名前を冠した デーブ大久保杯争奪少年野球泰阜大会が本人出席の下行われている |
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=== コーチ時代の不祥事 === |
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==== 2008年 ==== |
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[[11月12日]]に知人女性が大久保から暴行を受けたとして[[警視庁]][[品川警察署|品川署]]に被害届を提出していることが発覚<ref>[[中日スポーツ]]が「独占スクープ」と題して最初に報道している{{要出典|date=2020年11月}}。</ref>。 |
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大久保は「刑事罰を受けるようなことは自分の中ではしていない。」と否定したが、2日後の[[11月14日|14日]]に[[傷害罪]]の疑いで[[書類送検]]されるに至った。この件について大久保は球団から厳重注意処分を受け、優勝パレードなど球団行事への参加を自粛した。 |
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2009年度も前年同様に西武一軍打撃コーチを務める予定で発表されていたが、この影響から[[12月9日]]にはコーチ職を解かれ、編成部プロ担当への異動が発表された。会見では知人女性への暴行を否定していたが、検察側に対して本人が容疑を全面的に認めたため、[[東京区検察庁|東京区検]]に2009年[[3月13日]]までに傷害罪で[[略式起訴]]され、[[東京簡易裁判所|東京簡裁]]は[[3月27日]]、検察側の請求通り、大久保に罰金20万円の有罪判決を出した。 |
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==== 2010年 ==== |
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2010年度に二軍打撃コーチとして復帰するも、選手に対する暴力問題で解任された。 |
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解任後、大久保は西武球団を相手に地位保全と報酬の仮払いを求めた仮処分申請を東京地裁に行ったが、[[11月19日]]に東京地裁は申請を却下。これに対し、東京高裁に即時抗告を行ったが、[[12月28日]]に東京高裁は即時抗告を却下した。[[2011年]][[1月27日]]、大久保は西武球団を相手に契約解除の無効、未払い報酬の支払い、名誉毀損に対する損害賠償2,000万円を求め、東京地裁に提訴した<ref>[http://www.nhk.or.jp/news/html/20110128/t10013681431000.html 大久保元コーチ 西武球団を提訴]{{リンク切れ|date=2020年11月}} - 2011年1月27日</ref>。 |
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西武球団は当初、どの選手に対し暴力行為があったかなどを明らかにしなかったが、大久保が[[菊池雄星]]を名指し出廷を求めるなどしたため、暴行を受けたのが菊池であることを球団として[[2月16日]]に公表した。自主練習である「アーリー・ワーク」への遅刻に対するペナルティとして、球団非公認の私設による罰金を徴収していた(つまり恐喝罪に該当する)が、それに反発した菊池が告げ口したと見なし、大久保が菊池に暴力を働いたことを、球団が問題視したことが明らかになった{{refnest|[[赤坂英一]]の著書『プロ野球 二軍監督-男たちの誇り-』によれば、公式発表とは異なる事実<ref>暴行された選手側にも問題事象があったり、本件に対して球団に虚偽の告発を行っていた。</ref>の存在、球団が当該選手の入団経緯を考慮して強く言えない立場にあった事実、大久保と西武球団の間にあった長期的な確執が解雇に決定的な影響を与えたとうかがわせる記述もある<ref>{{Harvnb|赤坂英一|2011|pp={{要ページ番号|date=2020年11月}}}}</ref>。}}。 |
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『[[週刊ポスト]]』の取材で、謹慎期間中に自殺未遂をしたことを告白しているが真相は定かではない{{要出典|date=2020年11月}}。2012年から楽天のコーチ就任が決定したことに伴い、西武に対する訴訟について請求を放棄し、裁判が終結した<ref>{{Cite web|和書|date=2011-10-19|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201110/2011101900836|title=大久保氏が請求放棄=西武前コーチ裁判|publisher=時事通信|accessdate=2011-10-29|url-status=dead|url-status-date=2020-11-30}}</ref>。楽天とのコーチ契約交渉の中で、西武との訴訟を取り下げることが楽天球団から条件として要請されたことをのちに明かしている。 |
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2016年2月、シニアディレクターの渡辺久信を通じ、西武球団および菊池と和解している。また、2021年8月18日、自身のYouTubeチャンネルにおいて暴言はあったものの暴行の事実はなかったこと、上記の和解の際に菊池から謝罪を受けたことを話している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=fL25_M3RD04|title=デーブが感じた中田翔への栗山監督の言葉の真意|accessdate=2021-08-20|publisher=デーブ大久保チャンネル|website=youtube}}</ref>。 |
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== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
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{| {{年度別打撃成績|リーグ= 日本プロ野球}} |
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|84||285||260||37||72||14||0||15||131||43||0||0||0||1||20||9||4||48||7||.277||.337||.504||.841 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1993}} |
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|40||121||110||14||24||2||0||10||56||16||1||0||0||0||9||3||2||29||3||.218||.289||.509||.798 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1994}} |
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|62||130||119||14||35||2||0||9||64||18||0||0||0||1||9||4||1||27||2||.294||.346||.538||.884 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1995}} |
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|14||25||24||2||4||1||0||1||8||2||0||0||0||0||0||0||1||8||0||.167||.200||.333||.533 |
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|175||137||98||39||.285||9 |
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|} |
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=== 年度別監督成績 === |
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{|class="wikitable" style="text-align: right; font-size: small;" |
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![[年度]]!![[日本プロ野球|球団]]!!順位!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引き分け|引分]]!![[勝率]]!![[ゲーム差]]!!チーム<br />本塁打!!チーム<br />打率!!チーム<br />防御率!![[年齢]] |
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|- |
|||
|{{by|2015年}}||[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||6位||143||57||83||3||.407||33.0||84||.241||3.84||48歳 |
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|- |
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!colspan="3"|通算:2年 |
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|160||65||92||3||.414||colspan="5" style="text-align: center;"|Bクラス1回 |
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|} |
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※通算成績には2014年楽天での監督代行17試合(7月3日から7月23日、8勝9敗)を含む |
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=== 表彰 === |
|||
* [[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスターゲーム]]MVP(1987年) |
|||
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:1回(1992年6月) |
|||
=== 記録 === |
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; 初記録 |
|||
* 初出場:1985年7月30日、対[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]15回戦([[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]])、9回表に[[安部理]]の代打として出場 |
|||
* 初打席:同上、9回表に[[古溝克之]]の前に三振 |
|||
* 初安打:1985年8月14日、対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]14回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、9回裏に[[金森栄治|金森永時]]の代打として出場、[[佐藤政夫]]から単打 |
|||
* 初先発出場:1987年4月17日、対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]1回戦(西武ライオンズ球場)、8番・[[指名打者]]として先発出場 |
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* 初打点:同上、2回裏に[[村田辰美]]から適時打 |
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* 初本塁打:1987年5月10日、対近鉄バファローズ6回戦(藤井寺球場)、9回表に金森永時の代打として出場、[[石本貴昭]]からソロ |
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; その他の記録 |
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* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回([[1992年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1992年]]) |
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=== 背番号 === |
=== 背番号 === |
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* '''45''' (1985年 - 1992年途中) |
* '''45''' (1985年、1987年 - 1992年途中) |
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* '''22''' (1992年途中 - 1995年) |
* '''22''' (1992年途中 - 1995年) |
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* '''96''' (2008年、2010年) |
* '''96''' (2008年、2010年) |
||
* '''95''' (2012年 - 2015年) |
|||
* '''88''' (2023年) |
|||
=== |
=== 登録名 === |
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* '''大久保 博元'''(おおくぼ ひろもと、1985年、1987年 - 1985年、2012年 - 2015年、2023年) |
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* 初出場:1985年7月30日 対阪急戦(西宮) 9回に安部の代打、古溝の前に三振 |
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* '''デーブ大久保'''(デーブおおくぼ、2008年) |
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* 初安打:1985年8月14日 対ロッテ戦(西武) 9回、佐藤政から単打 |
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* 初打点:1987年4月17日 対近鉄戦(西武) 2回、村田から適時打 |
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* 初本塁打:1987年5月6日 対近鉄戦(藤井寺) 9回、石本から代打ソロ |
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== |
== 出演番組 == |
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=== テレビ === |
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* チームメイトの[[桑田真澄]]とは相性が悪く、[[1993年]]開幕直後を最後に桑田とバッテリーを組むことがなくなった。また、桑田真澄が[[1995年]]にダイビングキャッチを試みて靱帯断裂・手術をした件について、多くのメディア(たとえば1998年放送の[[ワイド!スクランブル]])や講演会で、「あのプレーで靱帯断裂したわけではなく、もともと肘を故障していたのを公傷扱いにするためにあのプレーのせいにした」と批判している。 |
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:以下、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の番組 |
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* [[父]]は幼少時に[[他界]]。そのため[[母親]]が働きに出、その帰りを待つ間に置いてあった[[インスタントラーメン]]を、作り方がわからないが、空腹も堪えきれず、生のままかじっていたと言う悲壮な思い出を[[テレビ]]出演の際に語っていた。 |
|||
* [[料理の鉄人]](審査員) |
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* 先述の通り[[母子家庭]]の出身で、母親に大変な苦労をかけたと感じ続けており、西武入団時に契約金はすべて母親に渡すなど母親思いの面も見せている。 |
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* [[プロ野球ニュース]]([[フジテレビONE|フジテレビ739→フジテレビONE]])※解説者 - 2000年4月 - 2001年3月、2016年2月 - 2022年12月 |
|||
* 入団当時の監督だった[[広岡達朗]]に「大久保は太りすぎだから[[自己管理]]能力がなってないんです。彼の体格なんて[[大相撲]]の[[力士]]ですよ。[[野球選手]]、あるいは[[スポーツ選手]]として失格ですね」と発言されたが、一方で大久保の[[バッティング]]を高く評価しており、彼の[[野球の背番号|背番号]]をかつて西武の前身である西鉄で主砲として活躍した[[中西太]]にちなみ'''6'''に変更しようとしたという。 |
|||
* [[野球道 (フジテレビ系列)|野球道]]、[[SWALLOWS BASEBALL L!VE]](解説者) |
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* 野球留学の際、引率を担当した[[コーチ]]の[[和田博実]]に「デーブ大久保」の[[名前]]を付けられた。 |
|||
* [[すぽると!]](解説者) |
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* [[1994年]]9月17日の対阪神25回戦で[[中西清起]]からサヨナラホームランを放ったときに大口を開けて泣き出した。 |
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* でぶぢん(フジテレビ739)※MC |
|||
* [[1995年]]7月24日に[[福岡ドーム]]にて行われた、日本の球団に所属する外国人選手選抜チームと日本人選手選抜チームが対戦した「[[1995年のオールスターゲーム (日本プロ野球)#阪神大震災復興支援チャリティードリームゲーム|阪神大震災復興支援チャリティードリームゲーム]]」において、外国人選手に捕手がいなかったため、語学力を買われて外国人チームに入れられた。登録名は「デーブ」。もう一人の捕手として、当時ロッテの正捕手だった[[定詰雅彦]]が「ジョー」の登録名で出場した(翌1996年発売のゲームソフト「[[プロ野球ファミリースタジアム|スーパーファミスタ5]]」の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]モードでも全外国人対全日本人の対戦ができるようになっており、ジョーと共に登場している)。 |
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* [[ボキャブラ天国]](パネラー) |
|||
* 入団当時の広岡やその後を継いだ[[森祇晶]]に評価されず、西武で2軍暮らし・ブルペン生活をしていた大久保であったが、巨人移籍直後から励まし活躍の場を与えてくれた[[藤田元司]]には絶大な忠誠心を抱いている。 |
|||
* [[ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!!]]([[テレビ朝日]]) |
|||
** 巨人に移籍したばかりの[[キャンプ]]で一人で食事を摂っていたところ、藤田が通りがかり「なんだデーブ、そんな量で足りるのか? もっと食べろ。」と言うなり大型の[[ステーキ]]を注文し、用意されたステーキを大久保は泣きながら食べた。当時を振り返った大久保は「この監督のためなら死んでもいい」とコメントしている<ref>別冊宝島 プロ野球 歴代監督の「采配力と人間力」P112)</ref>。 |
|||
* [[マジカル頭脳パワー!!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])※ゲスト解答者 |
|||
** 現役引退時、藤田の家を訪ねると「僕に痩せろと言わなかったのは藤田さんだけ」と語った。藤田は毎日のように「'''おまえ、その体を保つのにはうんと走らなきゃいかんなぁ'''」と言っていたが「痩せろ」「体重を減らせ」とは言わなかった。それが大久保には嬉しかったという。走れば痩せるだろうというのが藤田の真意であったが、このことを感謝された藤田は「'''人の心を傷つける言葉を使っちゃいけないな'''」と改めて気付いたという。 |
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=== ラジオ === |
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** 藤田が亡くなると真っ先に弔問に駆けつけ「本当にありがとうございました」と号泣しながら何度も頭を下げていた。 |
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:以下[[ニッポン放送]]の番組 |
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* 2004年に巨人の長嶋茂雄終身名誉監督が[[脳梗塞]]で倒れて入院した際、長嶋がまだ危篤状態であったにもかかわらず入院先の[[東京女子医科大学|東京女子医科大学病院]]へ花束を持って見舞いに行き、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]・[[王貞治]]監督を始めとした巨人OBに大顰蹙を食らった。 |
|||
* [[ニッポン放送ショウアップナイター]](解説者) - 1996年 - 2007年 |
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* [[プロ野球再編問題 (2004年)|2004年の球界再編騒動]]の際、CSの『[[プロ野球ニュース]]』で「[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]は(プロに)ぎりぎりのチームだったから、お客さんを呼ぶことができませんでした」と発言。これに対して、当時近鉄OB会会長の[[関根潤三]]に「近鉄がプロにぎりぎりのチームなんて、ふざけんじゃないよ!!」と噛み付かれた。 |
|||
* [[ショウアップナイターニュース|ショウアップナイターニュースサタデー]](解説者)2002年10月 - 2003年3月 |
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* [[ドリームキャスト]]用ゲームソフト『[[プロ野球チームをつくろう!]]』の解説を務めた(なお、大久保自身ゲーム中、選手としても登場)。 |
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* [[ショウアップナイターストライク!|デーブ大久保と師岡正雄のショウアップナイターストライク!]](パーソナリティ) - 2003年10月 - 2004年3月 |
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* [[大型自動二輪車|大型自動二輪免許]]や[[大型自動車]]などを初め、多数の免許・資格を所持している。 |
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* 長男・泰成は[[東亜学園高等学校]]野球部に所属し主将も務めた。夏の西東京大会5回戦で[[堀越高校]]に敗れ、甲子園出場の夢はなくなった。現在は[[専修大学]]商学部に在学し野球部に所属。身長177cm・体重72kgで右投げ左打ち。 |
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== 解説者時代に出演していた番組 == |
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; [[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[フジテレビONE|フジテレビ739]] |
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* [[BASEBALL SPECIAL〜野球道〜]] |
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* [[SWALLOWS BASEBALL L!VE]](フジテレビ739で放送の番組。フジテレビONEに変更後も放送中) |
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* [[すぽると!]](プロ野球コメンテーター) |
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* でぶぢん(フジテレビ739で放送された番組) |
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; [[ニッポン放送]] |
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* [[ニッポン放送ショウアップナイター]](1995年~2007年) |
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* [[ショウアップナイターニュース|ショウアップナイターニュースサタデー]](2002年10月~2003年3月) |
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* [[ショウアップナイターストライク!|デーブ大久保と師岡正雄のショウアップナイターストライク!]](2003年10月~2004年3月) |
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* [[松本ひでおのショウアップナイターネクスト!]](不定期出演) |
* [[松本ひでおのショウアップナイターネクスト!]](不定期出演) |
||
* [[師岡正雄のショウアップナイター編集部!]](不定期出演) |
* [[師岡正雄のショウアップナイター編集部!]](不定期出演) |
||
* サタデースポーツ天国 |
* デーブと山ちゃんのサタデースポーツ天国 |
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* デーブと王理恵の燃えろ!プロ野球 |
* デーブと[[王理恵]]の燃えろ!プロ野球→デーブと王理恵の燃えろ!スポーツ天国(パーソナリティ) - 2000年4月 - 9月、 |
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:以下[[文化放送]]の番組 |
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* デーブと王理恵の燃えろ!スポーツ天国(こちらも王と共にメインを務めた) |
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* [[文化放送ライオンズナイター]](解説者) |
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* [[くにまるジャパン 極]] (不定期出演) |
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== 出演CM == |
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=== その他 === |
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==== 映画 ==== |
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* [[ウルトラマンゼアス]](1996年、[[松竹]]) - 武村岩太隊員 役 |
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* [[ウルトラマンゼアス#第2作|ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影]](1997年、松竹) - 武村岩太隊員 役 |
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==== CM ==== |
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* [[サントリー]]「鍋の季節の生ビール」(1995年) |
* [[サントリー]]「鍋の季節の生ビール」(1995年) |
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* [[全国珠算教育連盟]](1995年) |
* [[全国珠算教育連盟]](1995年) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{Reflist}} |
{{Reflist|2}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[茨城県出身の人物一覧]] |
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* [[埼玉西武ライオンズの選手一覧]] |
* [[埼玉西武ライオンズの選手一覧]] |
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* [[読売ジャイアンツの選手一覧]] |
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]] |
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* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]] |
* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]] |
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* [[日本人のマイナーリーグ選手一覧]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{NPB|11313860}} |
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* [http://dave-com.co.jp/index.html デーブカンパニーLtd.](個人芸能事務所) |
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{{BASEBALLstats|brjpn=okubo-001hir|cube=Hiromoto-Okubo}} |
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* [http://www.sma.co.jp/artists/okubo/index.html 業務提携先ソニー・ミュージックアーティスツ] |
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* [http:// |
* [http://www.dba-school.jp/ デーブ・ベースボール・アカデミー] |
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* [http://dave-com.co.jp/index.html デーブカンパニーLtd.](個人芸能事務所 更新停止) |
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* [https://blog.goo.ne.jp/dave_goo デーブ大久保のDAVEな日記](更新停止) |
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* {{Twitter|DAVEOHKUBO|デーブ大久保}} |
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* {{Instagram|hiromoto358}} |
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* {{YouTube channel|@daveokubo|デーブ大久保チャンネル}} |
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* {{YouTube channel|@user-ll6sm2by3y|デーブのいつだってマン振り!}} |
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{{東北楽天ゴールデンイーグルス歴代監督|東北楽天ゴールデンイーグルス|2015}} |
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{{DEFAULTSORT:おおくほ ひろもと}} |
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{{デフォルトソート:おおくほ ひろもと}} |
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[[Category:日本の野球選手]] |
[[Category:日本の野球選手]] |
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[[Category:茨城県立水戸商業高等学校出身の野球選手]] |
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[[Category:埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手]] |
[[Category:埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手]] |
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[[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]] |
[[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]] |
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[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]] |
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[[Category:野球解説者]] |
[[Category:野球解説者]] |
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[[Category:野球 |
[[Category:日本の野球監督]] |
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[[Category:東北楽天ゴールデンイーグルスの監督]] |
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[[Category:日本のタレント]] |
[[Category:日本のタレント]] |
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[[Category:日本のゴルファー]] |
[[Category:日本の男子ゴルファー]] |
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[[Category: |
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[[Category:過去のソニー・ミュージックアーティスツ所属者]] |
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[[Category:茨城県出身の人物]] |
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[[Category:21世紀日本の実業家]] |
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[[Category:日本の男性YouTuber]] |
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[[Category:元NPB選手のYouTuber]] |
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[[Category:茨城県出身のスポーツ選手]] |
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[[Category:1967年生]] |
[[Category:1967年生]] |
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[[Category:存命人物]] |
[[Category:存命人物]] |
2024年9月30日 (月) 06:53時点における最新版
東北楽天ゴールデンイーグルス監督時代 (2015年、東京ドームにて) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 茨城県東茨城郡大洗町 |
生年月日 | 1967年2月1日(57歳) |
身長 体重 |
180 cm 108 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1984年 ドラフト1位 |
初出場 | 1985年7月30日 |
最終出場 | 1995年6月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
| |
この表について
|
デーブ おおくぼ デーブ 大久保 | |
---|---|
本名 | 大久保 博元 |
生年月日 | 1967年2月1日(57歳) |
出生地 |
日本 茨城県東茨城郡大洗町 |
国籍 | 日本 |
身長 | 180cm |
職業 | 元プロ野球選手・野球解説者・タレント・プロゴルファー・実業家 |
活動期間 | 1996年 - 2007年、2016年 - |
事務所 |
デーブカンパニー(1996年 - ) ソニー・ミュージックアーティスツ(2016年 - 2022年3月)[1] |
デーブ大久保 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
人物 | ||||||||
生誕 | 1967年2月1日 | |||||||
国籍 | 日本 | |||||||
職業 | 野球解説者 | |||||||
YouTube | ||||||||
チャンネル | ||||||||
活動期間 | 2020年6月5日 - | |||||||
ジャンル | プロ野球 | |||||||
登録者数 | 36.8万人 | |||||||
総再生回数 | 285,071,133回 | |||||||
事務所(MCN) | デーブカンパニー有限会社 | |||||||
| ||||||||
チャンネル登録者数・総再生回数は 2023年10月6日時点。 |
大久保 博元(おおくぼ ひろもと、1967年〈昭和42年〉2月1日 - )は、茨城県東茨城郡大洗町出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)、野球解説者・野球評論家、YouTuber、プロゴルファー、実業家。
愛称はデーブ、ブーちゃん。現役引退後はデーブ大久保名義で活動しており、埼玉西武ライオンズコーチ時代は登録名としても使用した。第59代巨人4番打者、第5代東北楽天ゴールデンイーグルス監督。東京都港区新橋・居酒屋「肉蔵でーぶ」オーナー、東京/横浜「デーブ ベースボールアカデミー」主宰者。
経歴
[編集]プロ入りまで
[編集]水戸商業では2年次の1983年夏、捕手として出場した茨城大会で決勝に進出するが、エースの加茂川重治を擁する茨城東高に前年秋の県大会準決勝に続いて敗退。
3年次の1984年夏も茨城大会で敗れ、甲子園には出場できなかったものの高校通算52本塁打を記録。
高校時代に、先輩の彼女に性行為を強要した話を、トークバラエティ番組『ろみひー』(日本テレビ)で暴露[2]。
西武時代
[編集]1984年度ドラフト会議にて広沢克己のクジを外した西武ライオンズからの1位指名で入団[3]。契約金は4,500万円で[4]、1985年の卒業式では母校に100万円を小切手で寄付した[5]。
入団当時から長打力が注目され、1986年の1年間は1A・サンノゼ・ビーズに野球留学のため渡米した。引率を担当した和田博実二軍打撃コーチから、太っている体型から「デーブ」というあだ名を付けられた。また当時の西武球団の慣習(2年目の選手が新人の教育係となる)から、渡米前には1年後輩の清原和博の教育係を務めていた。一塁手として起用の構想もあったが清原の活躍で立ち消えとなり、一時は三塁手にも挑戦した。
帰国した1987年にはジュニアオールスターゲームでMVPを獲得。1989年には当時イースタン記録となる24本塁打・70打点でイースタン二冠王に輝く[6]。だが当時の正捕手には伊東勤が定着しており森祇晶監督からはリードを評価されず、ほとんどが代打や指名打者ばかりで捕手としての先発出場はなかった。
1988年以降はタイラー・リー・バンバークレオやオレステス・デストラーデの加入で、指名打者での出場もなくなり二軍生活が続いた。
巨人時代
[編集]1992年5月11日、中尾孝義との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍。西武では活躍の場がない大久保のために、同じ茨城県出身である球団管理部長の根本陸夫が主導したトレードだった。
巨人ではいきなり正捕手として起用され、6月には月間MVPを獲得し、オールスター前までに打率.300・12本塁打を放つ活躍を見せた。大久保が本塁打を打った試合は必ず勝利していたため、「大久保が打てば負けない」というジンクスまで生まれ、藤田元司監督の進言もあって球団から前半戦終了時に2000万円のボーナスを得た。しかし、2000万円という金額については藤田も想定外であり、「大久保だけボーンと2000万円…。これはみんな、雰囲気悪くなりますよ。チームじゅうで、雰囲気が悪いんです。いや、これには、まいりました」[7]とのちに述べている。大久保も、オールスター後は大きく失速し、チームが優勝を争った終盤戦には村田真一に正捕手の座を奪われた。
長嶋茂雄が監督に就任した1993年は開幕から村田との併用で起用されていた。ハイペースで本塁打を量産し、5月27日のヤクルト戦(神宮)ではプロ入り初盗塁を決める。しかし、その試合で高津臣吾から死球を受け、左手首を骨折し9月まで長期にわたり戦線離脱を余儀なくされた。復帰後となる10月2日と翌3日の広島戦(東京D)では初めて4番・一塁手で先発出場し、結果は7打数1安打1打点で、2日に秋村謙宏から放ったソロ本塁打で記録したものであった。同年は巨人の日本人選手では原辰徳・松井秀喜に次ぐ10本塁打を放つも、本塁打以外の打点が2しかなかったため、16打点であった。オフに年俸3,100万円で契約更改した[8]。
1994年は、劇的なサヨナラ本塁打を複数放つなど打撃は好調だったが、リードやキャッチングの面から再び村田が正捕手となり、二番手捕手や代打要員にとしての起用が主だった。9月10日の広島戦(東京D)で3-11と大きくリードされた6回1死で打席に立った大久保は、2球目の直後に後ろを振り向くと、西山秀二と球審へ怒りの形相でクレームをつけ始めた。ネクストサークルの福王昭仁と一塁ベースコーチの中畑清一軍打撃コーチが慌てて駆けつけて仲裁に入ったが、これは西山の故意死球をほのめかすささやきに大久保が過剰反応したものであった。プレー再開後も怒りが冷めやらぬ大久保は、1-1から望月秀通の直球を思い切り空振りし、フルカウントから外角低めに落ちる球をまたも空振りし三振に倒れた。まんまと広島バッテリーの術中にはまった悔しさがさらなる怒りを呼んだのか、直後の大久保はバットを2度にわたり、地面に叩きつけ、荒々しく放り投げた。ヘルメットもグラウンドに投げ捨て、大暴れするなど大人げない行動にスタンドは唖然。しかし「みんなスカート履いて野球やってるよ」と、闘志を前面に出さない選手らに不満を抱いていた長嶋監督は、逆に大久保の振る舞いを評価した[9][10]。9月17日の阪神戦(東京D)では、中西清起からサヨナラ2ラン本塁打を放った際に大口を開けて泣いている。8月下旬から2勝12敗と低迷していたチームは再び盛り返し、中日との10.8決戦を制したことで4年ぶりのリーグ優勝を果たした[9]。古巣・西武との日本シリーズでは、10月26日の第4戦(西武球場)9回2死で杉山賢人から同点本塁打を放ち、日本一に貢献。
1995年は1994年オフからの契約更改交渉が長引き、自費キャンプとなったうえ、サインをしたのは2月のキャンプ初日だった。2年ぶりに開幕戦捕手として出場し、斎藤雅樹の2年連続開幕戦完封勝利に貢献。しかし、4月26日の広島戦(広島市民)で空振りした際にバランスを崩し尻もちをついて足首を骨折。NPB球団の所属選手からなる外国人選抜チームと日本人選抜チームが対戦した「阪神大震災復興支援チャリティードリームゲーム」(7月24日、福岡ドーム)では、外国人側に捕手がいなかったため、あだ名が外国人的であること、また海外留学経験から英語が話せるという理由で、「デーブ」の登録名で外国人チームとして参加。もう1人の捕手として、当時ロッテの正捕手だった定詰雅彦が「ジョー」の登録名で出場している。
同年28歳で現役を引退。当時は故障(骨折)による引退と思われていたが、コーチとの確執が原因であったことを後年明かしている[11]。
引退後
[編集]解説者・タレント・プロゴルファー活動
[編集]引退後の1996年、個人事務所「デーブカンパニー」を設立。フジテレビ(2000年 - 2007年)・ニッポン放送(1996年 - 2007年)野球解説者、サンケイスポーツ野球評論家(2000年 - 2007年)となる傍らで、「デーブ大久保」名義でタレント活動を始めた。
1999年から『週刊パーゴルフ』で始めた連載をきっかけに、プロゴルファーとしても活動する[6]。2001年のクォリファイングトーナメントに挑戦し、最初の関門であるファーストクォリファイを突破してセカンドに進んだ。サードへの進出は果たせなかったが、主催者推薦での出場が可能となり、2002年のダイヤモンドカップトーナメントでツアーデビュー。その後も12試合のレギュラーツアーに参戦したが、予選通過試合はなかった。
西武コーチ就任から楽天監督時代まで
[編集]2008年、渡辺久信監督の強い要望により、古巣・西武に一軍打撃コーチとして16年ぶりに復帰。登録名はニックネームでもある「デーブ大久保」とした[12]。
メジャー流の早朝練習「アーリー・ワーク」を取り入れ、10数通りのケースバッティングを叩き込み直し、打線を機能させる意識改革を行った。アーリー・ワークについては、野村克也が自著『あぁ、監督』で一定の評価をしていた[13]。自身の一軍半が長かった経験から、一軍・二軍コーチの綿密な連絡の有無が若手の成長に影響を与えるという考えで、コーチ陣会議を開催して円滑な選手育成を行った。
ベンチでは「野次将軍」を担当。5月7日の日本ハム戦(西武ドーム)では、9回裏に片岡治大がダルビッシュ有からサヨナラ安打を放ち勝利したが、ベンチを飛び出て喜びの余りバッターランナーの片岡を追いかけたところ、両足大腿部の肉離れを起こし、細川亨とクレイグ・ブラゼルに抱えられ、ベンチ裏のトレーナーズルームに運ばれた。前日の5月6日には、ヒラム・ボカチカがサヨナラ本塁打を放ったが、すでに大久保の右足には異変が起きていた。医師からは肥満体であることを指摘された。
2009年はコーチ職を離れ、編成部プロ担当を1年間務める。2010年には二軍打撃コーチとして現場復帰。しかし、7月22日に西武球団から、コーチとして不適切な行為があったとして、同日付で大久保をコーチから外し、球団本部長付にすると発表された[14]。球団は選手ら関係者へのヒアリングの結果、大久保による暴力行為が認められたため、同29日に大久保の解雇を発表した[15]。
退団後は、プロ野球コーチとしてのノウハウを活かし、一般向けの野球指導を行う「デーブベースボールアカデミー」を開講。少年野球の選手・指導者を中心に指導を行っている。
2012年、星野仙一監督率いる東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍打撃コーチに就任[16]。大久保によれば、西武から解雇された時点で「事実上の球界からの永久追放」と認識していたが、楽天球団の取締役だった米田純から「星野と選手の間で大きな溝ができているので、選手側の立場で星野との仲立をして欲しい」と依頼され、球界復帰を決意したという[17]。同年シーズン終了後には二軍監督へ異動[18]。
2014年5月、星野監督が腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靱帯骨化症で休養となり、監督代行を佐藤義則が務めていたが、7月2日より大久保が監督代行に就任する旨が発表された。佐藤は投手コーチに専念、酒井勉が二軍監督代行を務めることとなった[19]。前年リーグ優勝したことで、星野が指揮を執るはずだった同年のオールスターの指揮については辞退している[20]。7月24日、星野が監督復帰したことで再び二軍監督となる[21]。しかし、シーズン終了後には星野の退任・球団副会長への異動があり、大久保は二軍監督から監督へ昇格、10月14日に就任が発表された[22]。
監督を務めた2015年は、序盤こそ勝率.500前後を維持するも、6月のセ・パ交流戦終了後以降は次第に失速。チームの借金は2桁に達し、順位も最下位に後退。クライマックスシリーズ進出の可能性が完全消滅した9月22日、シーズン終了をもって辞任することを発表した[23][24]。退任発表時は1つでも上の順位を目指すとしていたが、10月3日にチームの最下位が確定し、同6日のシーズン最終戦であるロッテ戦(コボスタ宮城)をもって退任となった。監督退任後に、星野から「翌年は編成本部長として球団に残って欲しい」旨の打診を受けたものの、「球団に不利なことを喋らせないための口止め料だと感じ『そんな金を貰わなくても余計なことは喋らない』として辞退した」ことをのちに明らかにしている[17]。
楽天監督退任を受け、横浜DeNAベイスターズの中畑清監督が、大久保のコーチ入閣をDeNAフロントに要請したが、高田繁GMを始めとしたフロント陣の反対で、横浜入りは立ち消えになった。ちなみに要請を却下された中畑も、不服として監督を辞任している[25]。
楽天監督退任以降
[編集]2016年3月4日、食品衛生管理者の資格を取得し、東京・新橋に居酒屋「肉蔵でーぶ」を開業。その傍ら、フジテレビの野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家としての活動を再開している。
また、2018年にはプロゴルファーとしての活動も再開し、12年ぶりに下部ツアーであるAbemaTVツアーの「HEIWA・PGM Challenge II 〜 Road to CHAMPIONSHIP」へ出場した。
2022年10月13日、2023年より監督・原辰徳の招聘で[27]、読売ジャイアンツの一軍打撃チーフコーチに就任することが発表された[28]。しかしチームの成績は低迷。原の監督退任を受け、大久保も1年で退団した[29]。
人物
[編集]この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 出身地の水戸には巨人ファンが多く、大久保も幼少のころから巨人を応援していた。
- 巨人に移籍した当初、藤田元司の下へ挨拶に訪れた際「太っていることなんか気にする必要ないぞ。うちにだって太っている選手はたくさんいるんだ。体は資本だ。気にするな」という言葉をもらった。宿舎の食堂で1人で食事を摂っていたところ、藤田が通りがかり「なんだデーブ、そんな量で足りるのか? 今日はよく練習していたんだ、もっと食べろよ」と大久保のためにステーキ2枚を注文したという。大久保は用意されたステーキを感激のあまり泣きながら食べた。当時を振り返った大久保は「この監督のためなら死んでもいい」と発言したが[30]、リード面でミスをした際などの藤田の怒りは凄まじく、叱られてしばらくトイレに行けないほど体が硬直したと語っている。ところが、叱られた翌日には「よう、デーブ、おはよう」と、昨日の怒りなどすっかり忘れたような笑顔で挨拶するさっぱりした人物でもあった[31]。引退時には藤田の家を訪ね、「僕に痩せろと言わなかったのは藤田さんだけ」と語った。藤田は毎日のように「おまえ、その体を保つのにはうんと走らなきゃいかんなぁ」と言っていたが「痩せろ」「体重を減らせ」という指摘はなかった。大久保にはそれが嬉しかったという。走れば痩せるだろうというのが藤田の真意であったが、このことを感謝された藤田は「人の心を傷つける言葉を使っちゃいけないな」と改めて気付いたという[32]。藤田が亡くなると真っ先に弔問に駆けつけ、「本当にありがとうございました」と号泣しながら何度も頭を下げていた。
- 藤田のほか、根本陸夫を「おやじ」と呼び、父親のように慕っている。二軍暮らしの続く大久保が、自身の扱いに対し首脳陣へ不満をぶつけた際、根本は「いちいち一人一人の社員(選手)のことなんか心配できるか、馬鹿野郎!」と怒鳴った。しかし、このときの根本は出番のない大久保を実は気にかけており、巨人へのトレード(1992年)は大久保を慮った根本の主導で行われている。チームを離れる際にも「お前は西武の人間なんだから、困ったら西武に戻ってこい」と言葉をかけてくれたという。根本の気遣いに感動する一方、西武時代に選手が街中でトラブルなどに巻き込まれた際は根本が仲介に赴き、瞬く間に事件をなかったことにしてしまう人脈の広さに驚くこともあったという。また、根本の自宅へ頻繁に招かれ、夫人特製のすき焼きが振る舞われたこともあった[33]。割下に牛乳が入る独特の風味で、工藤公康は「美味しくない」と敬遠し、次回招かれた際にはステーキに変わっていたが[33]、大久保は20回以上食べたという[34]。
- 大型自動二輪免許や大型自動車などを初め、多数の免許・資格を所持している。
- 長男の大久保泰成も元野球選手[35]。東亜学園高校、専修大学、セガサミーに在籍し、セガサミー時代は都市対抗に1回、日本選手権に3回出場経験がある[36]。引退後はセガトイズの営業・広報を経て、大久保の個人事務所であるデーブカンパニーで従事している[37]。
- 2020年に配信を開始した自身のYouTubeチャンネル「デーブ大久保チャンネル」ではMCを務めている。ライオンズ・ジャイアンツの有名OBだけでなく幅広い球界関係者がゲストとして登場し「肉蔵でーぶ」店内で大久保とともに裏話などを語っている。
- ジャイアンツ引退後 長野県にある泰阜村に野球教室の講師として呼ばれた事をきっかけに泰阜村と交流を持ち毎年野球教室に出向くだけでなく村の子供をプロ野球観戦に招待する等の活動を行っており毎年11月には当村で自身の名前を冠した デーブ大久保杯争奪少年野球泰阜大会が本人出席の下行われている
コーチ時代の不祥事
[編集]2008年
[編集]11月12日に知人女性が大久保から暴行を受けたとして警視庁品川署に被害届を提出していることが発覚[39]。
大久保は「刑事罰を受けるようなことは自分の中ではしていない。」と否定したが、2日後の14日に傷害罪の疑いで書類送検されるに至った。この件について大久保は球団から厳重注意処分を受け、優勝パレードなど球団行事への参加を自粛した。
2009年度も前年同様に西武一軍打撃コーチを務める予定で発表されていたが、この影響から12月9日にはコーチ職を解かれ、編成部プロ担当への異動が発表された。会見では知人女性への暴行を否定していたが、検察側に対して本人が容疑を全面的に認めたため、東京区検に2009年3月13日までに傷害罪で略式起訴され、東京簡裁は3月27日、検察側の請求通り、大久保に罰金20万円の有罪判決を出した。
2010年
[編集]2010年度に二軍打撃コーチとして復帰するも、選手に対する暴力問題で解任された。
解任後、大久保は西武球団を相手に地位保全と報酬の仮払いを求めた仮処分申請を東京地裁に行ったが、11月19日に東京地裁は申請を却下。これに対し、東京高裁に即時抗告を行ったが、12月28日に東京高裁は即時抗告を却下した。2011年1月27日、大久保は西武球団を相手に契約解除の無効、未払い報酬の支払い、名誉毀損に対する損害賠償2,000万円を求め、東京地裁に提訴した[40]。
西武球団は当初、どの選手に対し暴力行為があったかなどを明らかにしなかったが、大久保が菊池雄星を名指し出廷を求めるなどしたため、暴行を受けたのが菊池であることを球団として2月16日に公表した。自主練習である「アーリー・ワーク」への遅刻に対するペナルティとして、球団非公認の私設による罰金を徴収していた(つまり恐喝罪に該当する)が、それに反発した菊池が告げ口したと見なし、大久保が菊池に暴力を働いたことを、球団が問題視したことが明らかになった[43]。
『週刊ポスト』の取材で、謹慎期間中に自殺未遂をしたことを告白しているが真相は定かではない[要出典]。2012年から楽天のコーチ就任が決定したことに伴い、西武に対する訴訟について請求を放棄し、裁判が終結した[44]。楽天とのコーチ契約交渉の中で、西武との訴訟を取り下げることが楽天球団から条件として要請されたことをのちに明かしている。
2016年2月、シニアディレクターの渡辺久信を通じ、西武球団および菊池と和解している。また、2021年8月18日、自身のYouTubeチャンネルにおいて暴言はあったものの暴行の事実はなかったこと、上記の和解の際に菊池から謝罪を受けたことを話している[45]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985 | 西武 | 5 | 4 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 |
1987 | 56 | 78 | 71 | 4 | 17 | 1 | 0 | 3 | 27 | 17 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 3 | 18 | 1 | .239 | .282 | .380 | .662 | |
1988 | 13 | 13 | 10 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | .100 | .250 | .100 | .350 | |
1989 | 11 | 14 | 13 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | .077 | .143 | .308 | .451 | |
1990 | 13 | 18 | 16 | 2 | 3 | 0 | 0 | 2 | 9 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 1 | .188 | .278 | .563 | .840 | |
1991 | 5 | 8 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1992 | 巨人 | 84 | 285 | 260 | 37 | 72 | 14 | 0 | 15 | 131 | 43 | 0 | 0 | 0 | 1 | 20 | 9 | 4 | 48 | 7 | .277 | .337 | .504 | .841 |
1993 | 40 | 121 | 110 | 14 | 24 | 2 | 0 | 10 | 56 | 16 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 3 | 2 | 29 | 3 | .218 | .289 | .509 | .798 | |
1994 | 62 | 130 | 119 | 14 | 35 | 2 | 0 | 9 | 64 | 18 | 0 | 0 | 0 | 1 | 9 | 4 | 1 | 27 | 2 | .294 | .346 | .538 | .884 | |
1995 | 14 | 25 | 24 | 2 | 4 | 1 | 0 | 1 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 8 | 0 | .167 | .200 | .333 | .533 | |
通算:10年 | 303 | 696 | 635 | 75 | 158 | 20 | 0 | 41 | 301 | 100 | 1 | 0 | 1 | 4 | 45 | 16 | 11 | 147 | 15 | .249 | .308 | .474 | .782 |
年度別守備成績
[編集]年度 | 試合 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 | 失策 |
---|---|---|---|---|---|---|
1987 | 6 | 3 | 3 | 0 | .000 | 0 |
1988 | 3 | 3 | 3 | 0 | .000 | 0 |
1989 | 3 | 3 | 3 | 0 | .000 | 1 |
1990 | 3 | 2 | 1 | 1 | .500 | 0 |
1991 | 3 | 6 | 4 | 2 | .333 | 0 |
1992 | 75 | 52 | 38 | 14 | .269 | 2 |
1993 | 28 | 29 | 22 | 7 | .241 | 3 |
1994 | 46 | 25 | 15 | 10 | .400 | 2 |
1995 | 8 | 14 | 9 | 5 | .357 | 1 |
通算 | 175 | 137 | 98 | 39 | .285 | 9 |
年度別監督成績
[編集]年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2015年 | 楽天 | 6位 | 143 | 57 | 83 | 3 | .407 | 33.0 | 84 | .241 | 3.84 | 48歳 |
通算:2年 | 160 | 65 | 92 | 3 | .414 | Bクラス1回 |
※通算成績には2014年楽天での監督代行17試合(7月3日から7月23日、8勝9敗)を含む
表彰
[編集]- ジュニアオールスターゲームMVP(1987年)
- 月間MVP:1回(1992年6月)
記録
[編集]- 初記録
- 初出場:1985年7月30日、対阪急ブレーブス15回戦(阪急西宮球場)、9回表に安部理の代打として出場
- 初打席:同上、9回表に古溝克之の前に三振
- 初安打:1985年8月14日、対ロッテオリオンズ14回戦(西武ライオンズ球場)、9回裏に金森永時の代打として出場、佐藤政夫から単打
- 初先発出場:1987年4月17日、対近鉄バファローズ1回戦(西武ライオンズ球場)、8番・指名打者として先発出場
- 初打点:同上、2回裏に村田辰美から適時打
- 初本塁打:1987年5月10日、対近鉄バファローズ6回戦(藤井寺球場)、9回表に金森永時の代打として出場、石本貴昭からソロ
- その他の記録
背番号
[編集]- 45 (1985年、1987年 - 1992年途中)
- 22 (1992年途中 - 1995年)
- 96 (2008年、2010年)
- 95 (2012年 - 2015年)
- 88 (2023年)
登録名
[編集]- 大久保 博元(おおくぼ ひろもと、1985年、1987年 - 1985年、2012年 - 2015年、2023年)
- デーブ大久保(デーブおおくぼ、2008年)
出演番組
[編集]テレビ
[編集]- 以下、フジテレビの番組
- 料理の鉄人(審査員)
- プロ野球ニュース(フジテレビ739→フジテレビONE)※解説者 - 2000年4月 - 2001年3月、2016年2月 - 2022年12月
- 野球道、SWALLOWS BASEBALL L!VE(解説者)
- すぽると!(解説者)
- でぶぢん(フジテレビ739)※MC
- ボキャブラ天国(パネラー)
- ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!!(テレビ朝日)
- マジカル頭脳パワー!!(日本テレビ)※ゲスト解答者
ラジオ
[編集]- 以下ニッポン放送の番組
- ニッポン放送ショウアップナイター(解説者) - 1996年 - 2007年
- ショウアップナイターニュースサタデー(解説者)2002年10月 - 2003年3月
- デーブ大久保と師岡正雄のショウアップナイターストライク!(パーソナリティ) - 2003年10月 - 2004年3月
- 松本ひでおのショウアップナイターネクスト!(不定期出演)
- 師岡正雄のショウアップナイター編集部!(不定期出演)
- デーブと山ちゃんのサタデースポーツ天国
- デーブと王理恵の燃えろ!プロ野球→デーブと王理恵の燃えろ!スポーツ天国(パーソナリティ) - 2000年4月 - 9月、
- 以下文化放送の番組
- 文化放送ライオンズナイター(解説者)
- くにまるジャパン 極 (不定期出演)
その他
[編集]映画
[編集]- ウルトラマンゼアス(1996年、松竹) - 武村岩太隊員 役
- ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影(1997年、松竹) - 武村岩太隊員 役
CM
[編集]- サントリー「鍋の季節の生ビール」(1995年)
- 全国珠算教育連盟(1995年)
- ファミリーマート(1997年)
- KINCHO「ゴキブリキャッチャー」(1998年~1999年)
- ナムコ「熱チュー!プロ野球2004」(2004年)
脚注
[編集]- ^ “デーブ大久保 所属契約満了のお知らせ”. ソニー・ミュージックアーティスツ (2022年4月1日). 2022年12月18日閲覧。
- ^ https://www.tanteifile.com/newswatch/2008/11/13_01/
- ^ “【ドラフト会議物語22】目玉は明大コンビの広沢、竹田。西武は3人で終了【1984年】”. 週刊ベースボールマガジンONLINE. ベースボール・マガジン社 (2018年10月15日). 2020年11月29日閲覧。
- ^ 大久保博元「表も裏も世話になった“心の親父”元西武監督の根本陸夫さん」『zakzak』2011年3月1日。2020年11月29日閲覧。
- ^ 「西武の新人捕手 卒業式で母校に100万円寄付」『Sponichi Annex』。2020年11月29日閲覧。オリジナルは2008年3月1日掲載。
- ^ a b “大久保博元のプロフィール”. 株式会社RIGHTS.(ライツ). 2020年11月29日閲覧。
- ^ https://www.1101.com/webshinsho/03/fujita/15.html
- ^ 「【12月9日】1993年(平5) デーブ大久保激怒!「言いたくないけど余計な金使うから…」」『Sponichi Annex』2008年12月1日。2020年11月29日閲覧。
- ^ a b 久保田龍雄 (2020年5月15日). ““故意死球”ほのめかしにブチギレ… デーブ大久保の「感情暴走」珍事件”. dot.. 朝日新聞社. 2020年11月29日閲覧。
- ^ 所ひで (2020年8月26日). “長嶋監督がまさかの反応!デーブ大久保「バット叩き割り」後に“悟ったこと””. アサ芸プラス. 徳間書店. 2020年11月29日閲覧。
- ^ 大久保博元「いま明かす巨人引退の真相…あのコーチが引き金だ」『夕刊フジ』2011年10月20日。2020年9月7日閲覧。
- ^ プロ野球在籍者名簿 お
- ^ 野村克也『あぁ、監督 名将、奇将、珍将』角川書店〈角川oneテーマ21〉、2009年、[要ページ番号]頁。ISBN 978-4-04-710183-8。
- ^ 「雄星らに暴力のデーブ電撃解任のワケ 過剰な罰金制度めぐり」『ZAKZAK』2010年7月23日。オリジナルの2010年7月25日時点におけるアーカイブ。2011年11月1日閲覧。
- ^ 「大久保前コーチを解雇 西武、暴力行為などが理由」『産経MSN』2010年7月29日。オリジナルの2010年8月1日時点におけるアーカイブ。2011年11月1日閲覧。
- ^ “来季のコーチ契約について”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2011年10月31日). 2011年11月1日閲覧。
- ^ a b 【衝撃の事実】楽天初代監督田尾さん、当時の楽天球団を赤裸々に告白。 - デーブ大久保チャンネル・2020年8月24日
- ^ “来季の2軍チーム体制に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト (2012年10月9日). 2020年11月30日閲覧。
- ^ 「楽天 デーブ2軍監督が1軍代行監督に 2日から指揮」『スポーツニッポン』2014年7月2日。2020年11月30日閲覧。
- ^ 「楽天・大久保2軍監督が1軍を指揮 球宴は「辞退させてもらう」」『サンケイスポーツ』2014年7月2日。オリジナルの2014年7月6日時点におけるアーカイブ。
- ^ “コーチ人事に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト (2014年7月24日). 2020年11月30日閲覧。
- ^ 「楽天大久保新監督「優勝して恩返し」」『日刊スポーツ』2014年10月14日。2014年10月14日閲覧。
- ^ 東北楽天ゴールデンイーグルス [@Rakuten__Eagles] (2015年9月22日). "本日の試合後、大久保博元監督が責任をとり今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを発表しました。 残り試合を全力で闘い、5位、4位と1つでも上の順位を目指します。 #rakuteneagles". X(旧Twitter)より2020年11月30日閲覧。
- ^ rakuteneagles.officialの投稿(1029899723721147) - Facebook
- ^ 「中畑監督辞任 本当の理由は「デーブ入閣却下」」『東スポWeb』2015年10月6日。2020年11月30日閲覧。
- ^ “デーブ大久保氏 2カ月前に心筋梗塞で倒れていた「生死をさまよった」と告白”. デイリースポーツ online. (2021年10月13日) 2021年10月14日閲覧。
- ^ “【動画】江本孟紀氏が巨人・原監督&大久保コーチを直撃! ライバル阪神・岡田新監督との裏話も披露”. サンケイスポーツ. 2022年12月6日閲覧。
- ^ “来季のコーチングスタッフについて”. 読売巨人軍公式サイト. 2022年10月13日閲覧。
- ^ 大久保博元氏 巨人退団に至る心情を明かして涙浮かべる「楽しかったことはゼロです。苦しくて…」 - スポーツニッポン・2023年10月7日
- ^ 『プロ野球歴代監督の「采配力と人間力」』宝島社〈別冊宝島 1647〉、2000年、112頁。ISBN 978-4-7966-7156-9。
- ^ 大久保博元「G笑撃!“脱ぎ芸”披露…オヤジの言葉に全員が泣いた」『zakzak』2011年8月25日。2020年11月30日閲覧。
- ^ 藤田元司(インタビュアー:糸井重里)「体温のある指導者。藤田元司。 第15回 あれは、まちがいでした」『ほぼ日刊イトイ新聞』、2002年11月15日 。2013年1月28日閲覧。
- ^ a b 高橋安幸『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』集英社、2016年、12頁。ISBN 978-4-08-780799-8。
- ^ 高橋安幸 2016, p. 29
- ^ “東亜学園イケメン主将大久保はデーブJr.”. 日刊スポーツ. (2008年7月3日) 2020年10月4日閲覧。
- ^ 土井麻由実@Smile - Facebook
- ^ “大久保博元コーチのレッスンの様子をご紹介!バッティングは足の上げ方が重要”. LINEを使った指導で必ず成長出来る!デーブ大久保スマホ野球塾ブログ (2020年3月26日). 2020年10月4日閲覧。
- ^ 第一話 愛甲さん登場 「俺の周りは不良しかいなかった」 デーブ大久保チャンネル 2021/10/25 (2022年5月11日閲覧)
- ^ 中日スポーツが「独占スクープ」と題して最初に報道している[要出典]。
- ^ 大久保元コーチ 西武球団を提訴[リンク切れ] - 2011年1月27日
- ^ 暴行された選手側にも問題事象があったり、本件に対して球団に虚偽の告発を行っていた。
- ^ 赤坂英一 2011, pp. [, 要ページ番号],
- ^ 赤坂英一の著書『プロ野球 二軍監督-男たちの誇り-』によれば、公式発表とは異なる事実[41]の存在、球団が当該選手の入団経緯を考慮して強く言えない立場にあった事実、大久保と西武球団の間にあった長期的な確執が解雇に決定的な影響を与えたとうかがわせる記述もある[42]。
- ^ “大久保氏が請求放棄=西武前コーチ裁判”. 時事通信 (2011年10月19日). 2011年10月29日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “デーブが感じた中田翔への栗山監督の言葉の真意”. youtube. デーブ大久保チャンネル. 2021年8月20日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 大久保博元 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube
- デーブ・ベースボール・アカデミー
- デーブカンパニーLtd.(個人芸能事務所 更新停止)
- デーブ大久保のDAVEな日記(更新停止)
- デーブ大久保 (@DAVEOHKUBO) - X(旧Twitter)
- 大久保博元 (@hiromoto358) - Instagram
- デーブ大久保チャンネル - YouTubeチャンネル
- デーブのいつだってマン振り! - YouTubeチャンネル
期間 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 | |
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1976.4 | 1977.9 | 佐々木信也 | 土居まさる | |||||
1977.10 | 1977.12 | はらたいら | ||||||
1978.1 | 1980.3 | 押阪忍 | ||||||
1980.4 | 1983.9 | みのもんた | ||||||
1983.10 | 1985.9 | 佐々木信也 | みのもんた | 佐々木信也 | ||||
1985.10 | 1986.3 | 佐々木信也 | みのもんた | |||||
1986.4 | 1988.3 | みのもんた、大島智子 | ||||||
1988.4 | 1991.3 | 野崎昌一、須田珠理 | 中井美穂 大矢明彦、平松政次、谷沢健一 | |||||
1991.4 | 1992.3 | 野崎昌一、石川小百合 | ||||||
1992.4 | 1992.10 | 中井美穂 | 田尾安志、石川小百合 | 中井美穂 | ||||
1992.11 | 1993.3 | 田尾安志、小島奈津子 | ||||||
1993.4 | 1994.3 | 田尾安志 森口博子 |
中井美穂 | 森脇健児 関根潤三 八木亜希子 | ||||
1994.4 | 1995.3 | 福井謙二、志岐幸子 | (『スポーツWAVE』に内包) | |||||
1995.4 | 1996.3 | 福井謙二、久保恵子 | パンチ佐藤 中村江里子 |
田尾安志 陣内貴美子 斎藤英津子 | ||||
1996.4 | 1997.3 | 福井謙二 西山喜久恵 |
福井謙二 木佐彩子 |
パンチ佐藤 西山喜久恵 |
田尾安志 西山喜久恵 | |||
1997.4 | 1997.9 | 福井謙二、西山喜久恵 | 木佐彩子 | (放送なし) | ||||
1997.10 | 1998.3 | 木佐彩子 | ||||||
1998.4 | 1999.3 | 福井謙二 木佐彩子 |
福井謙二 西山喜久恵 |
長嶋一茂、中村江里子 | ||||
1999.4 | 2000.3 | 木佐彩子 | 長嶋一茂、荒瀬詩織 | |||||
2000.4 | 2001.3 | 三宅正治 宇田麻衣子 |
三宅正治 荒瀬詩織 |
田尾安志、大久保博元 大橋マキ |