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'''津軽 親足'''(つがる ちかたり)は、[[陸奥国]][[弘前藩#黒石藩|黒石藩]]の初代藩主。元は4000石の[[旗本]]。[[歌道]]に優れていたと言われている。 |
'''津軽 親足'''(つがる ちかたり)は、[[陸奥国]][[弘前藩#黒石藩|黒石藩]]の初代藩主。元は4000石の[[旗本]]。[[歌道]]に優れていたと言われている。 |
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天明8年(1788年)8月29日、[[上総国]][[久留里藩]]主[[黒田直亨]]の四男として江戸で生まれる。[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])12月4日、[[津軽典暁]]の養嗣子となって4000石の家督を継いだ。この時、先々代当主でこの当時は本家[[弘前藩]]主であった[[津軽寧親]](典暁の父)より[[偏諱]]を受け、'''親足'''と改名した。文化6年([[1809年]])4月5日に寧親の計らいで6000石加増の上で1万石の[[大名]]として諸侯に列し、弘前藩の支藩である黒石藩を立藩した。[[文政]]8年([[1825年]] |
天明8年(1788年)8月29日、[[上総国]][[久留里藩]]主[[黒田直亨]]の四男として江戸で生まれる。[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])12月4日、[[津軽典暁]]の養嗣子となって4000石の家督を継いだ。この時、先々代当主でこの当時は本家[[弘前藩]]主であった[[津軽寧親]](典暁の父)より[[偏諱]]を受け、'''親足'''と改名した。文化6年([[1809年]])4月5日に寧親の計らいで6000石加増の上で1万石の[[大名]]として諸侯に列し、弘前藩の支藩である黒石藩を立藩した。[[文政]]8年([[1825年]])11月5日、家督を養嗣子の順徳(後の[[津軽順承|順承]])に譲って隠居し、嘉永2年(1849年)7月晦日に江戸で死去した。享年62。 |
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{{黒石藩主|黒石領8代当主(1805年 - 1809年)/[[弘前藩#黒石藩|黒石藩]]初代|1809年 - 1825年}} |
{{黒石藩主|黒石領8代当主(1805年 - 1809年)/[[弘前藩#黒石藩|黒石藩]]初代|1809年 - 1825年}} |
2013年5月25日 (土) 09:13時点における版
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天明8年8月29日(1788年9月28日) |
死没 | 嘉永2年7月30日(1849年9月16日) |
改名 | 安彦、三十郎(幼名)→親足 |
戒名 | 大常院殿果徳円明大居士 |
墓所 | 東京都台東区上野の津梁院 |
官位 | 従五位下、甲斐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 陸奥国黒石藩主 |
氏族 | 黒田氏→津軽氏 |
父母 | 父:黒田直亨、養父:津軽典暁 |
兄弟 | 黒田直英、黒田直方、黒田直清、親足 |
妻 | 正室:歌子(清光院、松平資承の娘) |
子 |
正足(三男) 養子:順承 |
津軽 親足(つがる ちかたり)は、陸奥国黒石藩の初代藩主。元は4000石の旗本。歌道に優れていたと言われている。
天明8年(1788年)8月29日、上総国久留里藩主黒田直亨の四男として江戸で生まれる。文化2年(1805年)12月4日、津軽典暁の養嗣子となって4000石の家督を継いだ。この時、先々代当主でこの当時は本家弘前藩主であった津軽寧親(典暁の父)より偏諱を受け、親足と改名した。文化6年(1809年)4月5日に寧親の計らいで6000石加増の上で1万石の大名として諸侯に列し、弘前藩の支藩である黒石藩を立藩した。文政8年(1825年)11月5日、家督を養嗣子の順徳(後の順承)に譲って隠居し、嘉永2年(1849年)7月晦日に江戸で死去した。享年62。