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「宗族制 (華族)」の版間の差分

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これを受けて華族の団体である[[華族会館]]が設置されたものの、大規模な領域の領主として経済力もあった旧大名と、格式が高いが経済力に乏しい旧公家とは立場も大いに異なっていた。このため華族会館の運営方針を巡って争いが絶えなかったため{{sfn|上野秀治|2001|p=36}}、明治9年([[1876年]])3月、[[宮内省]]は華族を華族掛の統制下に置くこととした{{sfn|上野秀治|2001|p=37}}。5月には[[右大臣]][[岩倉具視]]の発案で、華族会館に部長局が設置された。これは華族を六つの部に分けてそれぞれに部長を置き、全体を監督する督部長と副督部長の管轄下に置くというものであった{{sfn|上野秀治|2001|p=37}}。督部長には岩倉が就き、これらの改革は最終段階を迎えていた[[秩禄処分]]によって、華族が没落することを防ぐ目的があった{{sfn|上野秀治|2001|p=37}}。この際各部の統制のために導入されたのが宗族制である。
これを受けて華族の団体である[[華族会館]]が設置されたものの、大規模な領域の領主として経済力もあった旧大名と、格式が高いが経済力に乏しい旧公家とは立場も大いに異なっていた。このため華族会館の運営方針を巡って争いが絶えなかったため{{sfn|上野秀治|2001|p=36}}、明治9年([[1876年]])3月、[[宮内省]]は華族を華族掛の統制下に置くこととした{{sfn|上野秀治|2001|p=37}}。5月には[[右大臣]][[岩倉具視]]の発案で、華族会館に部長局が設置された。これは華族を六つの部に分けてそれぞれに部長を置き、全体を監督する督部長と副督部長の管轄下に置くというものであった{{sfn|上野秀治|2001|p=37}}。督部長には岩倉が就き、これらの改革は最終段階を迎えていた[[秩禄処分]]によって、華族が没落することを防ぐ目的があった{{sfn|上野秀治|2001|p=37}}。この際各部の統制のために導入されたのが宗族制である。


これは全華族を先祖を同じくするグループ[[宗族]]に分け、宗族ごとに同じ先祖を祀ることによってその結合を図るというものであった。宗族においては公家と武家の区別は取られなかった。宗族制の開始とともに、各宗族はお互いを扶助することなどを定めた、宗族の[[憲法]]ともいえる宗族条約を締結した{{sfn|上野秀治|2001|p=37-38}}。また各宗族内では非常時のために各家が出資して基金を設立することもあった{{sfn|上野秀治|2001|p=46}}。明治9年8月26日、[[宮内卿]][[徳大寺実則]]より、宗族をまとめた『[[華族類別録]]』の仮編集版が下付された。これは後に編集を加えられ、明治11年([[1878年]])10月に公刊された。これによって華族は、[[神武天皇]]以降の天皇を先祖とする[[皇別]](第一類から三十六類)、神武天皇以前の諸神を先祖とする[[神別]](第三十七類から七十類)、[[渡来人]]を先祖とする[[外別]](第七十一類から七十六類)に大別された{{sfn|上野秀治|2001|p=37}}。これは『[[新撰姓氏録]]』の皇別・神別・[[諸蕃]]の区分に従ったものである{{sfn|上野秀治|2001|p=37}}。ただし、[[琉球国王]]であった[[尚氏]]([[尚泰]])、[[木下家定]]の子孫であった[[木下氏]]([[日出藩]]木下家と[[足守藩]]木下家)はこの三別とは別にされている{{sfn|川畑恵|2008|p=165}}。か宗族は
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部長局は明治15年([[1882年]])11月に廃止され、華族の統制は[[宗秩寮|宮内省華族局]]が行うこととなった。明治17年([[1884年]])の[[華族令]]公布後は勲功による新華族が増加したことと、宮内省の統制強化により、宗族制の意味合いは次第に薄れていった{{sfn|上野秀治|2001|p=38}}。同年12月、宗族制は廃止されたが、その後も先祖祭祀や、基金運用などの面で一部の宗族の結合は存続している{{sfn|上野秀治|2001|p=38、56-57}}。
部長局は明治15年([[1882年]])11月に廃止され、華族の統制は[[宗秩寮|宮内省華族局]]が行うこととなった。明治17年([[1884年]])の[[華族令]]公布後は勲功による新華族が増加したことと、宮内省の統制強化により、宗族制の意味合いは次第に薄れていった{{sfn|上野秀治|2001|p=38}}。同年12月、宗族制は廃止されたが、その後も先祖祭祀や、基金運用などの面で一部の宗族の結合は存続している{{sfn|上野秀治|2001|p=38、56-57}}。

2020年3月15日 (日) 15:10時点における版

宗族制(そうぞくせい)とは、明治時代初期の日本において設けられた、華族を家系ごとの一族である宗族に分類し、その統制をはかるための制度[1]

歴史

明治2年(1869年)6月、版籍奉還によって公家大名は新たな「華族」という族称を与えられた。明治4年(1871年)10月には明治天皇から華族は全国民のうち貴重の地位にあるものだから、国民に先駆けて一致勤勉の努力をするようにという勅喩が下された[2]

これを受けて華族の団体である華族会館が設置されたものの、大規模な領域の領主として経済力もあった旧大名と、格式が高いが経済力に乏しい旧公家とは立場も大いに異なっていた。このため華族会館の運営方針を巡って争いが絶えなかったため[2]、明治9年(1876年)3月、宮内省は華族を華族掛の統制下に置くこととした[1]。5月には右大臣岩倉具視の発案で、華族会館に部長局が設置された。これは華族を六つの部に分けてそれぞれに部長を置き、全体を監督する督部長と副督部長の管轄下に置くというものであった[1]。督部長には岩倉が就き、これらの改革は最終段階を迎えていた秩禄処分によって、華族が没落することを防ぐ目的があった[1]。この際各部の統制のために導入されたのが宗族制である。

これは全華族を先祖を同じくするグループ、宗族に分け、宗族ごとに同じ先祖を祀ることによってその結合を図るというものであった。宗族においては公家と武家の区別は取られなかった。宗族制の開始とともに、各宗族はお互いを扶助することなどを定めた、宗族の憲法ともいえる宗族条約を締結した[3]。また各宗族内では非常時のために各家が出資して基金を設立することもあった[4]。明治9年8月26日、宮内卿徳大寺実則より、宗族をまとめた『華族類別録』の仮編集版が下付された。これは後に編集を加えられ、明治11年(1878年)10月に公刊された。これによって華族は、神武天皇以降の天皇を先祖とする皇別(第一類から三十六類)、神武天皇以前の諸神を先祖とする神別(第三十七類から七十類)、渡来人を先祖とする外別(第七十一類から七十六類)に大別された[1]。これは『新撰姓氏録』の皇別・神別・諸蕃の区分に従ったものである[1]。ただし、琉球国王であった尚氏尚泰)、木下家定の子孫であった木下氏日出藩木下家と足守藩木下家)はこの三別とは別にされている[5]

部長局は明治15年(1882年)11月に廃止され、華族の統制は宮内省華族局が行うこととなった。明治17年(1884年)の華族令公布後は勲功による新華族が増加したことと、宮内省の統制強化により、宗族制の意味合いは次第に薄れていった[6]。同年12月、宗族制は廃止されたが、その後も先祖祭祀や、基金運用などの面で一部の宗族の結合は存続している[7]

宗族

氏族の表記は華族類別録に従う。

皇別

皇別氏族は神武天皇以降の天皇を先祖とする。

皇別華族の宗族
先祖 氏姓 華族 備考
第1類 神武天皇曽孫速瓶玉命 阿蘇 阿蘇神社宮司阿蘇家
第2類 孝霊天皇皇子彦狭島王六代三竝 越智宿禰 淀藩稲葉家
館山藩主稲葉家
臼杵藩主稲葉家
小野藩一柳家
森藩久留島家
小松藩主一柳家
第3類 孝元天皇皇子大彦命六代雉子 安部朝臣 堂上倉橋家
佐貫藩阿部家
福山藩主阿部家
三春藩秋田家
棚倉藩主阿部家
堂上土御門家
田辺藩安藤家
磐城平藩主安藤家
第4類 孝元天皇皇子彦太忍信命四代大臣武内 宿禰 佐倉藩堀田家
近江宮川藩堀田家
佐野藩堀田家
第5類 孝元天皇皇子彦太忍信命十一代蝙蝠 田口朝臣 長岡藩牧野家
丹後田辺藩牧野家
笠間藩主牧野家
小諸藩主牧野家
三根山藩主牧野家
第6類 垂仁天皇皇子於知別命今雄 小槻朝臣 堂上壬生家
第7類 宣化天皇皇曾孫多治比古王左大臣 多治真人 麻田藩青木家
大田原藩大田原家
黒羽藩大関家
常陸松岡藩中山家
久留里藩黒田家
第8類 天武天皇皇子一品舎人親王右大臣夏野 清原朝臣 堂上澤家
堂上船橋家
堂上伏原家
田原本藩平野家
第9類 天武天皇皇子一品舎人親王曾孫長谷 中原朝臣 津藩藤堂家
久居藩藤堂家
第10類 桓武天皇皇子式部卿葛原親王大納言高棟 朝臣 堂上長谷家
堂上交野家
堂上平松家
堂上西洞院家
堂上石井家
奈良華族梶野家
奈良華族小松家
第11類 桓武天皇皇子式部卿葛原親王孫上総介高望 平朝臣 新庄藩戸沢家
相馬藩相馬家
狭山藩北条家
大和新庄藩永井家
加納藩主永井家
高槻藩主永井家
三上藩東家
美作勝山藩三浦家
天童藩織田家
柏原藩主織田家
芝村藩主織田家
柳本藩主織田家
亀田藩岩城家
専修寺門主常盤井家
第12類 桓武天皇皇子右近衛大将安世[注釈 1] 良峰朝臣 二本松藩丹羽家
第13類 嵯峨天皇皇子左大臣 朝臣 平戸藩松浦家
平戸新田藩主松浦家
伯太藩渡辺家
第14類 清和天皇皇子式部卿貞保親王滋氏 滋野朝臣 松代藩真田家
岡部藩安部家
第15類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王鎮守府将軍経基八代右近衛大将頼朝 朝臣 功臣島津家[注釈 2]
薩摩藩島津家
佐土原藩主島津家
柳川藩立花家
三池藩主立花家
志筑藩本堂家
第16類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基支裔 源朝臣 鶴牧藩水野家
沼津藩主水野家
結城藩主水野家
山形藩主水野家
安中藩主水野家
小泉藩片桐家
諏訪藩諏訪家
鳥羽藩稲垣家
山上藩主稲垣家
第17類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基五代左衛門尉頼親 源朝臣 仁正寺藩市橋家
丹南藩高木家
菰野藩土方家
第18類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基七代従三位頼政 源朝臣 高崎藩大河内家
三河吉田藩大河内家
大多喜藩大河内家
掛川藩太田家
第19類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基三代摂津守頼光支裔 朝臣 広島藩浅野家
古河藩土井家
刈谷藩主土井家
大野藩主土井家
沼田藩土岐家
長瀞藩米津家
高取藩植村家
岡藩中川家
第20類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基七代右馬允泰政 源朝臣 岡山藩池田家
鳥取藩主池田家
鴨方藩主池田家
生坂藩主池田家
鹿奴藩主池田家
若桜藩主池田家
福本藩主池田家
第21類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基四代従四位頼季 朝臣 高岡藩井上家
下妻藩主井上家
飯野藩保科家
斗南藩松平家
第22類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基五代陸奥守義家支裔 源朝臣 赤穂藩森家
三日月藩主森家
川越藩松井家
伊勢亀山藩石川家
下館藩主石川家
第23類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基五代甲斐守義光 源朝臣 堂上竹内家
郡山藩柳沢家
三日市藩主柳沢家
黒川藩主柳沢家
久保田藩佐竹家
岩崎藩主佐竹家
盛岡藩南部家
小倉藩小笠原家
安志藩主小笠原家
千束藩主小笠原家
唐津藩主小笠原家
越前勝山藩主小笠原家
新発田藩溝口家
松前藩松前家
福江藩五島家
第24類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基七代大炊助義重支裔 朝臣 府内藩大給家
奥殿藩主大給家
西尾藩松平家
岩村藩松平家
小諸藩松平家
杵築藩松平家
尼崎藩桜井家
杵築藩松平家
上田藩松平家
島原藩松平家
丹波亀山藩松平家
小島藩瀧脇家
上山藩松平家
村岡藩山名家
第25類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基八代義季十六代太政大臣家康 朝臣 尾張藩徳川家
紀州藩徳川家
静岡藩徳川家
松川藩松平家
水戸藩徳川家
御三卿徳川家
御三卿清水家
御三卿一橋家
高須藩松平家
西条藩松平家
高松藩松平家
常陸府中藩松平家
常陸宍戸藩松平家
浜田藩松平家
第26類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基八代義季十六代太政大臣家康男権中納言秀康 朝臣 福井藩松平家
津山藩主松平家
松江藩主松平家
前橋藩主松平家
明石藩主松平家
糸魚川藩主松平家
広瀬藩主松平家
母里藩主松平家
第27類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基八代義季九代親氏広親 朝臣 庄内藩酒井家
出羽松山藩主酒井家
姫路藩主酒井家
伊勢崎藩主酒井家
小浜藩主酒井家
安房勝山藩主酒井家
敦賀藩主酒井家
第28類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基八代陸奥守義康 源朝臣 高田藩榊原家
三草藩丹羽家
花房藩西尾家
土浦藩土屋家
須坂藩奥田家
備中松山藩板倉家
安中藩主板倉家
福島藩主板倉家
庭瀬藩主板倉家
喜連川藩足利家
第29類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基八代陸奥守義康曾孫義季 朝臣 熊本藩細川家
高瀬藩主細川家
宇土藩主細川家
谷田部藩主細川家
第30類 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基八代陸奥守義康裔 源朝臣 阿波藩蜂須賀家
第31類 宇多天皇皇子式部卿敦実親王子左大臣雅信 朝臣 堂上慈光寺家
堂上五辻家
堂上綾小路家
福岡藩黒田家
秋月藩主黒田家
堂上大原家
丸亀藩京極家
多度津藩京極家
豊岡藩主京極家
峰山藩主京極家
福知山藩朽木家
田原藩三宅家
堂上庭田家
奈良華族西五辻家
成羽藩山崎家
津和野藩亀井家
林田藩建部家
山家藩谷家
佐伯藩毛利家
今尾藩竹腰家
生実藩森川家
第32類 村上天皇皇子中務卿具平親王子右大臣師房 朝臣 堂上岩倉家
堂上六条家
堂上中院家
堂上久我家
堂上梅渓家
堂上愛宕家
堂上東久世家
堂上植松家
堂上千種家
岩倉家分家岩倉家[注釈 3]
堂上久世家
堂上梅渓家
中津藩奥平家
久我家分家北畠家
忍藩松平家
奈良華族南岩倉家
関宿藩久世家
久留米藩有馬家
丸岡藩有馬家
第33類 花山院天皇皇子弾正尹清仁親王神祇伯延信王 朝臣 堂上白川家
第34類 後伏見院天皇皇子長助法親王 無姓尸[注釈 4] 英彦山神宮宮司高千穂家
第35類 正親町院天皇皇孫式部卿智仁親王子権大納言忠幸 朝臣 堂上広幡家
第36類 平重尚 平朝臣 対馬藩宗家

神別

神別氏族は、神武天皇以前の諸神を先祖とする。

神別華族の宗族
先祖 氏姓 華族 備考
第37類 天照国照彦火明命三十二代稲置見 尾張宿禰 熱田神宮宮司千秋家
第38類 天穂日命出雲国造宮向 出雲 出雲大社宮司・出雲国造北島家
出雲大社宮司・出雲国造千家家
第39類 天穂日命後従五位下古人 菅原朝臣 堂上清岡家
堂上高辻家
堂上五条家
堂上唐橋家
堂上桑原家
加賀藩前田家
富山藩主前田家
大聖寺藩主前田家
七日市藩主前田家
柳生藩柳生家
松山藩久松家
今治藩主久松家
桑名藩松平家
多胡藩主久松家
堂上東坊城家
第40類 天穂日命後従三位音人 大江朝臣 長州藩毛利家
堂上北小路家
地下家北小路家
長府藩主毛利家
清末藩主毛利家
徳山藩主毛利家
功臣木戸家[注釈 5]
第41類 火明命後津守連豊吾田 津守宿禰 住吉大社宮司津守家
第42類 天兒屋根命内大臣鎌足十七代摂政関白太政大臣忠通 藤原朝臣 堂上九条家
堂上醍醐家
堂上富小路家
津軽藩津軽家
黒石藩主津軽家
吉井藩吉井家
堂上鷹司家
犬山藩成瀬家
西大平藩大岡家
岩槻藩主大岡家
堂上松園家
奈良華族水谷川家
堂上一条家
堂上二条家
仏光寺法主渋谷家
堂上花園家
奈良華族相楽家
堂上近衛家
第43類 内大臣鎌足孫左大臣武智麻呂 藤原朝臣 堂上高丘家
堂上中園家
堂上藪家
飫肥藩伊東家
本荘藩六郷家
浅尾藩蒔田家
園部藩小出家
小見川藩内田家
岸和田藩岡部家
大溝藩分部家
人吉藩相良家
第44類 内大臣鎌足孫左大臣武智麻呂二十一代左衛門尉経義 藤原朝臣 岩国藩吉川家
第45類 内大臣鎌足曾孫左大臣魚名 藤原朝臣 堂上山科家
堂上油小路家
堂上四条家
佐賀藩鍋島家
堂上鷲尾家
土佐藩山内家
堂上西大路家
堂上八条家
堂上櫛笥家
延岡藩内藤家
小城藩主鍋島家
岩村田藩主内藤家
鹿島藩主鍋島家
山科家分家若王子家
長島藩増山家
土佐新田藩主山内家
鳥羽藩主内藤家
蓮池藩主鍋島家
湯長谷藩主内藤家
奈良華族河辺家
奈良華族杉渓家
新見藩関家
麻生藩新庄家
挙母藩主内藤家
小久保藩田沼家
第46類 内大臣鎌足曾孫左大臣魚名四代越前守高房 藤原朝臣 仙台藩伊達家
水口藩加藤家
大洲藩主加藤家
新谷藩主加藤家
鯖江藩間部家
出石藩仙石家
宇和島藩主伊達家
飯田藩堀家
苗木藩遠山家
吉田藩主伊達家
第47類 内大臣鎌足六代従三位真夏 藤原朝臣 堂上竹屋家
堂上三室戸家
堂上北小路家
堂上柳原家
堂上豊岡家
堂上勘解由小路家
堂上裏松家
堂上日野家
東本願寺法主大谷家
西本願寺法主大谷家
堂上日野西家
堂上烏丸家
堂上広橋家
錦織寺法主木辺家
奈良華族南家
堂上外山家
第48類 内大臣鎌足七代権大納言長良 藤原朝臣 堂上堀河家
丸岡藩有馬家
大村藩大村家
堂上高倉家
堂上樋口家
奈良華族藤大路家
第49類 内大臣鎌足七代内舎人長門 藤原朝臣 堂上中御門家
堂上万里小路家
堂上坊城家
彦根藩井伊家
堂上葉室家
米沢藩上杉家
堂上堤家
堂上清閑寺家
堂上甘露寺家
堂上勧修寺家
与板藩主井伊家
堂上穂波家
堂上芝山家
堂上松崎家
奈良華族芝小路家
奈良華族粟田口家
奈良華族竹園家
奈良華族今園家
奈良華族長尾家
岡藩中川家
奈良華族鷺原家
奈良華族穂穙家
米沢新田藩主上杉家
堂上梅小路家
堂上池尻家
堂上岡崎家
第50類 内大臣鎌足九代左大臣時平 藤原朝臣 矢島藩生駒家
第51類 内大臣鎌足十代左大臣師尹 藤原朝臣 綾部藩九鬼家
三田藩主九鬼家
壬生藩鳥居家
第52類 内大臣鎌足十一代関白太政大臣兼通 藤原朝臣 岡崎藩本多家
白河藩主本多家
泉藩主本多家
山崎藩主本多家
膳所藩主本多家
西端藩主本多家
長尾藩主本多家
飯山藩主本多家
第53類 内大臣鎌足十一代太政大臣公季六代太政大臣実行 藤原朝臣 堂上三条家
堂上嵯峨家
堂上園池家
堂上押小路家
堂上滋野井家
堂上風早家
松本藩戸田家
堂上阿野家
堂上花園家
堂上高松家
堂上武者小路家
堂上姉小路家
堂上三条西家
堂上河鰭家
大垣藩主戸田家
宇都宮藩主戸田家
高徳藩主戸田家
足利藩主戸田家
奈良華族北大路家
奈良華族鹿園家
第54類 内大臣鎌足十一代太政大臣公季六代権中納言通季 藤原朝臣 堂上正親町家
堂上梅園家
堂上四辻家
堂上裏辻家
堂上橋本家
堂上清水谷家
堂上小倉家
堂上西四辻家
堂上菊亭家
堂上山本家
堂上大宮家
奈良華族北河原家
山本家分家玉松家[注釈 6]
奈良華族芝亭家
堂上西園寺家
第55類 内大臣鎌足十一代太政大臣公季六代左大臣実能 藤原朝臣 堂上徳大寺家
第56類 内大臣鎌足十二代摂政内大臣道隆 藤原朝臣 堂上山井家
堂上町尻家
堂上桜井家
堂上七条家
堂上水無瀬家
奈良華族太秦家
第57類 内大臣鎌足十二代関白右大臣道兼 藤原朝臣 小田原藩大久保家
烏山藩主大久保家
館林藩秋元家
荻野山中藩主大久保家
第58類 内大臣鎌足十三代右大臣頼宗 藤原朝臣 堂上松木家
堂上六角家
堂上石野家
堂上園家
堂上壬生家
堂上高野家
堂上東園家
堂上石山家
堂上持明院家
第59類 内大臣鎌足十三代権大納言長家 藤原朝臣 堂上冷泉家
堂上冷泉家
堂上入江家
奈良華族松林家
堂上藤谷家
第60類 内大臣鎌足十三代摂政関白師実 藤原朝臣 堂上中御門家
堂上大炊御門家
堂上野宮家
堂上飛鳥井家
堂上難波家
堂上花山院家
篠山藩青山家
奈良華族藤枝家
堂上今城家
郡上藩主青山家
第61類 中務少輔安治 藤原朝臣 龍野藩脇坂家
第62類 遠江守久通 藤原朝臣 一宮藩加納家
第63類 右大臣利通 藤原朝臣 功臣大久保家[注釈 7]
第64類 天兒屋根命加多能子 大中臣朝臣 堂上藤波家
伊勢神宮宮司河辺家
第65類 天兒屋根命後大雷命真根子命 卜部朝臣 堂上萩原家
堂上錦織家
堂上藤井家
堂上吉田家
第66類 天葺根命後祭主春日守裔 出雲 日御碕神社宮司小野家
第67類 饒速日命於琴 物部 物部神社宮司、石見国造金子家
第68類 饒速日命後従五位下氏道 有道宿禰 高富藩本荘家
宮津藩主本荘家
第69類 菟狭津彦命後大宮司武雄 宇佐宿禰 宇佐八幡宮宮司宮成家
宇佐八幡宮宮司到津家
第70類 従五位下行義 朝臣 日前・國懸両神宮宮司、紀伊国造紀家

外別

外別氏族は渡来人を先祖とする。

外別華族の宗族
先祖 氏姓 華族 備考
第71類 後漢霊帝大納言田村麻呂 坂上朝臣 一関藩田村家
第72類 後漢霊帝後征西将軍春実 大蔵朝臣 高鍋藩秋月家
第73類 後漢霊帝後針博士康頼 丹波朝臣 堂上錦小路家
第74類 百済琳聖太子正恒 多々良朝臣 牛久藩山口家

その他

その他華族の宗族
先祖 氏姓 華族 備考
第75類 肥後守俊定 豊臣朝臣 足守藩木下家
日出藩主木下家
第76類 中山王尚思紹 [注釈 8] 琉球藩尚家

注釈

  1. ^ 華族類別録の原本では「守世」となっているが、桓武天皇の皇子で右近衛大将となった良岑朝臣の人物は安世しか存在しない
  2. ^ 島津久光の家系
  3. ^ 岩倉具経の家系
  4. ^ 姓氏なし。長助法親王の子孫は法体で英彦山神宮の座主と宮司を世襲している
  5. ^ 木戸孝允の家系
  6. ^ 玉松操の家系
  7. ^ 大久保利通の家系
  8. ^ 琉球国王であり、姓(カバネ)なし

出典

  1. ^ a b c d e f 上野秀治 2001, p. 37.
  2. ^ a b 上野秀治 2001, p. 36.
  3. ^ 上野秀治 2001, p. 37-38.
  4. ^ 上野秀治 2001, p. 46.
  5. ^ 川畑恵 2008, p. 165.
  6. ^ 上野秀治 2001, p. 38.
  7. ^ 上野秀治 2001, p. 38、56-57.

参考文献

  • 上野秀治「明治期の宗族制と安倍氏」『学習院大学史料館紀要』第11巻、学習院大学史料館、2001年、ISSN 02890860 
  • 川畑恵「琉球国から琉球藩へ : 琉球処分の版籍奉還的意味を中心に」『沖縄文化研究』第34巻、法政大学沖縄文化研究所、2008年、ISSN 13494015