大久保博元
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 茨城県東茨城郡大洗町 |
生年月日 | 1967年2月1日(57歳) |
身長 体重 |
180 cm 108 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1984年 ドラフト1位 |
初出場 | 1985年7月30日 |
最終出場 | 1995年6月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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大久保 博元(おおくぼ ひろもと、芸名:デーブ大久保(デーブおおくぼ)、1967年2月1日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(捕手)。愛称はデーブ、ブーちゃん。
1995年限りで現役を引退後、タレント・野球解説者(フジテレビ、ニッポン放送、サンケイスポーツ)・プロゴルファーとして活動。
経歴
茨城県立水戸商業高等学校から1985年のドラフト1位で西武ライオンズに入団。入団当時から長打力には定評があり、1986年の1年間は米国野球留学のために渡米し、帰国した1987年にはジュニアオールスターゲームでMVPを獲得する。しかし、当時は正捕手に伊東勤が定着しており、守備に難があることに加えて肥満体型で起用されることが少なく、ほとんどが代打要員としての出場だった。
1992年5月、中尾孝義との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。いきなり正捕手として抜擢され、オールスターまでに打率.300・12本塁打を放つ活躍を見せる。そのため、藤田元司監督の進言もあって球団から前半戦終了時に2000万円というボーナスを得た[1])。しかし、1シーズンを乗り切るスタミナがないことが露呈して後半戦に大きく失速し、優勝争いの大事な時期には再び村田真一に正捕手の座を奪われる。
1993年は、開幕から村田との併用ながらハイペースで本塁打を量産していたものの、5月下旬に左腕を骨折すると、9月まで戦線を離脱した。1994年は、打撃は良いものの、リードやキャッチングの面から村田真一が正捕手となり、二番手捕手や代打要員に甘んじる。1995年4月26日、空振りした際にバランスを崩して転倒し足首を骨折したことが遠因となって28歳の若さでユニフォームを脱いだ。
引退後は、フジテレビ、ニッポン放送、サンケイスポーツの解説者となり、その傍ら「デーブ大久保」名でのタレント業、プロゴルファーとしても活動。2008年より、渡辺久信監督の強い要望により埼玉西武ライオンズ1軍打撃コーチに就任。実に16年ぶりに古巣のユニホームを着ることとなった。なおコーチ就任後の彼のユニフォームのバックネームは「D.OHKUBO」となっている。
2009年度も引き続き打撃コーチを務める予定であったが、11月12日、知人女性が大久保から暴行を受けたとして警視庁品川署に被害届を提出していることが発覚(中日スポーツが「独占スクープ」と題して最初に報道しているが、日本シリーズ終了を待っての報道だった可能性が高い)。大久保本人は「刑事罰を受けるようなことは、自分の中ではしていない。殴ってはいない」と否定したが、11月14日に傷害の疑いで書類送検されるに至った。この件について球団から厳重注意処分を受け、優勝パレードなどの球団行事への参加を自粛している。
しかしその後も週刊誌などで隠し子騒動[2]や登板日漏洩疑惑といったプライベートな問題を相次いで報じられ、12月9日、コーチ職の解任が決定され、編成部プロ担当に配属されたことが正式に発表された。知人女性への暴行事件は、会見では暴行を否定していたが、検察側の調べでは容疑を認めたため、東京区検が2009年3月13日までに傷害罪で略式起訴、東京簡裁は同27日検察側の請求通り罰金20万円の有罪判決を出した。
2009年はフロント業務(編成部プロ担当)を一年間務め、2010年に再び西武の打撃コーチ(2軍)を務めていたが、7月22日、西武球団はコーチとして不適切な行為があったため同日付でコーチから外し、球団本部長付とすることを発表した[3]。球団は選手ら関係者へのヒアリングの結果、大久保が暴力行為を行っていたことが認められたため、同月29日に大久保を解雇したことを発表した[4]。
西武のコーチとして
2008年の西武の打撃コーチとして、メジャー流の早朝練習(アーリー・ワーク)を取り入れ、10数通りのケースバッティングを叩き込み直し、打線を機能させる意識改革を行った。なおアーリー・ワークについては野村克也も自著の「あぁ、監督」で一定の評価をしていた。
自身の1軍半(1.5軍)が長かった経験から、1軍コーチと2軍コーチの綿密な連絡の有無が若手の成長に影響を与えるという考えで、コーチ陣会議を開催して円滑な選手育成を行った。大久保自身が現役時代に、2軍コーチに言われて改善した点を1軍昇格後に1軍コーチから否定されるという経験を何度もして、改善方法がわからなくなったことがあるとコメントしている。
大久保個人も、純粋な打撃指導の功績は中村剛也のバッティングをポイント修整した程度で、指導そのものはアメリカで長年松井稼頭央の練習パートナーを務め、メジャーリーグから打撃理論を吸収した熊沢とおる打撃コーチ補佐が主導するケースが多かったと語っている。アーリーワークを押し通したことから頑迷なイメージもあり、ヒラム・ボカチカと確執を引き起こしたが、自身の打撃理論を確立しているG.G.佐藤や天才肌の中島裕之など、第1級主軸選手の打撃指導からは敢えて距離を置かせる[要出典]などの柔軟さもみられた。
2008年5月7日の対日本ハム戦で、9回裏に片岡易之がダルビッシュ有からサヨナラ安打を放ち勝利したが、ベンチを飛び出て喜びの余りバッターランナーの片岡を追いかけたところ右脚大腿部の肉離れを起こして歩けなくなり、部下である細川亨とクレイグ・ブラゼルに抱えられてベンチ裏のトレーナーズルームに運ばれた。この前日にはボカチカがサヨナラ本塁打を放ったが、そのとき既に大久保の右脚には異変が起きていた。
ベンチでは「野次将軍」を担当していた。
しかし、自主練習であった「アーリー・ワーク」を遅刻したら罰金という制度(罰金は食事会の資金として還元していた)を強制的に行い、それに反発した選手に暴力を働いたことを問題視され、解任された。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985 | 西武 | 5 | 4 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 |
1987 | 56 | 78 | 71 | 4 | 17 | 1 | 0 | 3 | 27 | 17 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 3 | 18 | 1 | .239 | .282 | .380 | .662 | |
1988 | 13 | 13 | 10 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | .100 | .250 | .100 | .350 | |
1989 | 11 | 14 | 13 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | .077 | .143 | .308 | .451 | |
1990 | 13 | 18 | 16 | 2 | 3 | 0 | 0 | 2 | 9 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 1 | .188 | .278 | .563 | .840 | |
1991 | 5 | 8 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1992 | 巨人 | 84 | 285 | 260 | 37 | 72 | 14 | 0 | 15 | 131 | 43 | 0 | 0 | 0 | 1 | 20 | 9 | 4 | 48 | 7 | .277 | .337 | .504 | .841 |
1993 | 40 | 121 | 110 | 14 | 24 | 2 | 0 | 10 | 56 | 16 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 3 | 2 | 29 | 3 | .218 | .289 | .509 | .798 | |
1994 | 62 | 130 | 119 | 14 | 35 | 2 | 0 | 9 | 64 | 18 | 0 | 0 | 0 | 1 | 9 | 4 | 1 | 27 | 2 | .294 | .346 | .538 | .884 | |
1995 | 14 | 25 | 24 | 2 | 4 | 1 | 0 | 1 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 8 | 0 | .167 | .200 | .333 | .533 | |
通算:10年 | 303 | 696 | 635 | 75 | 158 | 20 | 0 | 41 | 301 | 100 | 1 | 0 | 1 | 4 | 45 | 16 | 11 | 147 | 15 | .249 | .308 | .474 | .782 |
年度別守備成績
年度 | 試合 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 | 失策 |
---|---|---|---|---|---|---|
1987 | 6 | 3 | 3 | 0 | .000 | 0 |
1988 | 3 | 3 | 3 | 0 | .000 | 0 |
1989 | 3 | 3 | 3 | 0 | .000 | 1 |
1990 | 3 | 2 | 1 | 1 | .500 | 0 |
1991 | 3 | 6 | 4 | 2 | .333 | 0 |
1992 | 75 | 52 | 38 | 14 | .269 | 2 |
1993 | 28 | 29 | 22 | 7 | .241 | 3 |
1994 | 46 | 25 | 15 | 10 | .400 | 2 |
1995 | 8 | 14 | 9 | 5 | .357 | 1 |
通算 | 175 | 137 | 98 | 39 | .285 | 9 |
背番号
- 45 (1985年 - 1992年途中)
- 22 (1992年途中 - 1995年)
- 96 (2008年、2010年)
個人記録
- 初出場:1985年7月30日 対阪急戦(西宮) 9回に安部の代打、古溝の前に三振
- 初安打:1985年8月14日 対ロッテ戦(西武) 9回、佐藤政から単打
- 初打点:1987年4月17日 対近鉄戦(西武) 2回、村田から適時打
- 初本塁打:1987年5月6日 対近鉄戦(藤井寺) 9回、石本から代打ソロ
エピソード
- チームメイトの桑田真澄とは相性が悪く、1993年開幕直後を最後に桑田とバッテリーを組むことがなくなった。また、桑田真澄が1995年にダイビングキャッチを試みて靱帯断裂・手術をした件について、多くのメディア(たとえば1998年放送のワイド!スクランブル)や講演会で、「あのプレーで靱帯断裂したわけではなく、もともと肘を故障していたのを公傷扱いにするためにあのプレーのせいにした」と批判している。
- 父は幼少時に他界。そのため母親が働きに出、その帰りを待つ間に置いてあったインスタントラーメンを、作り方がわからないが、空腹も堪えきれず、生のままかじっていたと言う悲壮な思い出をテレビ出演の際に語っていた。
- 先述の通り母子家庭の出身で、母親に大変な苦労をかけたと感じ続けており、西武入団時に契約金はすべて母親に渡すなど母親思いの面も見せている。
- 入団当時の監督だった広岡達朗に「大久保は太りすぎだから自己管理能力がなってないんです。彼の体格なんて大相撲の力士ですよ。野球選手、あるいはスポーツ選手として失格ですね」と発言されたが、一方で大久保のバッティングを高く評価しており、彼の背番号をかつて西武の前身である西鉄で主砲として活躍した中西太にちなみ6に変更しようとしたという。
- 野球留学の際、引率を担当したコーチの和田博実に「デーブ大久保」の名前を付けられた。
- 1994年9月17日の対阪神25回戦で中西清起からサヨナラホームランを放ったときに大口を開けて泣き出した。
- 1995年7月24日に福岡ドームにて行われた、日本の球団に所属する外国人選手選抜チームと日本人選手選抜チームが対戦した「阪神大震災復興支援チャリティードリームゲーム」において、外国人選手に捕手がいなかったため、語学力を買われて外国人チームに入れられた。登録名は「デーブ」。もう一人の捕手として、当時ロッテの正捕手だった定詰雅彦が「ジョー」の登録名で出場した(翌1996年発売のゲームソフト「スーパーファミスタ5」のオールスターモードでも全外国人対全日本人の対戦ができるようになっており、ジョーと共に登場している)。
- 入団当時の広岡やその後を継いだ森祇晶に評価されず、西武で2軍暮らし・ブルペン生活をしていた大久保であったが、巨人移籍直後から励まし活躍の場を与えてくれた藤田元司には絶大な忠誠心を抱いている。
- 巨人に移籍したばかりのキャンプで一人で食事を摂っていたところ、藤田が通りがかり「なんだデーブ、そんな量で足りるのか? もっと食べろ。」と言うなり大型のステーキを注文し、用意されたステーキを大久保は泣きながら食べた。当時を振り返った大久保は「この監督のためなら死んでもいい」とコメントしている[5]。
- 現役引退時、藤田の家を訪ねると「僕に痩せろと言わなかったのは藤田さんだけ」と語った。藤田は毎日のように「おまえ、その体を保つのにはうんと走らなきゃいかんなぁ」と言っていたが「痩せろ」「体重を減らせ」とは言わなかった。それが大久保には嬉しかったという。走れば痩せるだろうというのが藤田の真意であったが、このことを感謝された藤田は「人の心を傷つける言葉を使っちゃいけないな」と改めて気付いたという。
- 藤田が亡くなると真っ先に弔問に駆けつけ「本当にありがとうございました」と号泣しながら何度も頭を下げていた。
- 2004年に巨人の長嶋茂雄終身名誉監督が脳梗塞で倒れて入院した際、長嶋がまだ危篤状態であったにもかかわらず入院先の東京女子医科大学病院へ花束を持って見舞いに行き、ダイエー・王貞治監督を始めとした巨人OBに大顰蹙を食らった。
- 2004年の球界再編騒動の際、CSの『プロ野球ニュース』で「近鉄は(プロに)ぎりぎりのチームだったから、お客さんを呼ぶことができませんでした」と発言。これに対して、当時近鉄OB会会長の関根潤三に「近鉄がプロにぎりぎりのチームなんて、ふざけんじゃないよ!!」と噛み付かれた。
- ドリームキャスト用ゲームソフト『プロ野球チームをつくろう!』の解説を務めた(なお、大久保自身ゲーム中、選手としても登場)。
- 大型自動二輪免許や大型自動車などを初め、多数の免許・資格を所持している。
- 長男・泰成は東亜学園高等学校野球部に所属し主将も務めた。夏の西東京大会5回戦で堀越高校に敗れ、甲子園出場の夢はなくなった。現在は専修大学商学部に在学し野球部に所属。身長177cm・体重72kgで右投げ左打ち。
解説者時代に出演していた番組
- BASEBALL SPECIAL〜野球道〜
- SWALLOWS BASEBALL L!VE(フジテレビ739で放送の番組。フジテレビONEに変更後も放送中)
- すぽると!(プロ野球コメンテーター)
- でぶぢん(フジテレビ739で放送された番組)
- ニッポン放送ショウアップナイター(1995年~2007年)
- ショウアップナイターニュースサタデー(2002年10月~2003年3月)
- デーブ大久保と師岡正雄のショウアップナイターストライク!(2003年10月~2004年3月)
- 松本ひでおのショウアップナイターネクスト!(不定期出演)
- 師岡正雄のショウアップナイター編集部!(不定期出演)
- サタデースポーツ天国
- デーブと王理恵の燃えろ!プロ野球(2000年4月~9月。王理恵と共にメインパーソナリティを務めた)
- デーブと王理恵の燃えろ!スポーツ天国(こちらも王と共にメインを務めた)
出演CM
- サントリー「鍋の季節の生ビール」(1995年)
- 全国珠算教育連盟(1995年)
- ファミリーマート(1997年)
- KINCHO「ゴキブリキャッチャー」(1998年~1999年)
- ナムコ「熱チュー!プロ野球2004」(2004年)
脚注
- ^ 大久保の責任ではないが、前半戦終了時という異例の時期に主軸選手の年俸クラスの巨額のボーナスが大久保一人に支給されたことで、チーム内に気まずい空気が漂ってしまい、このボーナスは逆効果だったそうである。藤田元監督は「ポンと、渡しちゃった。例えば石毛と大久保に500万ずつとか…。(渡辺に対しての)自分の言葉が足りなかった。[1])」と振り返っている
- ^ 『週刊新潮』誌は被害者の知人女性を「隠し子を産んだ不倫相手だった」と報じるなどした。
- ^ http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2010072201025
- ^ 大久保前コーチを解雇 西武、暴力行為などが理由 - 産経MSN 2010年7月29日
- ^ 別冊宝島 プロ野球 歴代監督の「采配力と人間力」P112)
関連項目
外部リンク
期間 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 | |
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1976.4 | 1977.9 | 佐々木信也 | 土居まさる | |||||
1977.10 | 1977.12 | はらたいら | ||||||
1978.1 | 1980.3 | 押阪忍 | ||||||
1980.4 | 1983.9 | みのもんた | ||||||
1983.10 | 1985.9 | 佐々木信也 | みのもんた | 佐々木信也 | ||||
1985.10 | 1986.3 | 佐々木信也 | みのもんた | |||||
1986.4 | 1988.3 | みのもんた、大島智子 | ||||||
1988.4 | 1991.3 | 野崎昌一、須田珠理 | 中井美穂 大矢明彦、平松政次、谷沢健一 | |||||
1991.4 | 1992.3 | 野崎昌一、石川小百合 | ||||||
1992.4 | 1992.10 | 中井美穂 | 田尾安志、石川小百合 | 中井美穂 | ||||
1992.11 | 1993.3 | 田尾安志、小島奈津子 | ||||||
1993.4 | 1994.3 | 田尾安志 森口博子 |
中井美穂 | 森脇健児 関根潤三 八木亜希子 | ||||
1994.4 | 1995.3 | 福井謙二、志岐幸子 | (『スポーツWAVE』に内包) | |||||
1995.4 | 1996.3 | 福井謙二、久保恵子 | パンチ佐藤 中村江里子 |
田尾安志 陣内貴美子 斎藤英津子 | ||||
1996.4 | 1997.3 | 福井謙二 西山喜久恵 |
福井謙二 木佐彩子 |
パンチ佐藤 西山喜久恵 |
田尾安志 西山喜久恵 | |||
1997.4 | 1997.9 | 福井謙二、西山喜久恵 | 木佐彩子 | (放送なし) | ||||
1997.10 | 1998.3 | 木佐彩子 | ||||||
1998.4 | 1999.3 | 福井謙二 木佐彩子 |
福井謙二 西山喜久恵 |
長嶋一茂、中村江里子 | ||||
1999.4 | 2000.3 | 木佐彩子 | 長嶋一茂、荒瀬詩織 | |||||
2000.4 | 2001.3 | 三宅正治 宇田麻衣子 |
三宅正治 荒瀬詩織 |
田尾安志、大久保博元 大橋マキ |