あじさい丸
あじさい丸 | |
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基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
船籍 | 日本 |
所有者 |
東海汽船(1962-1988) 特定船舶整備公団(1962-1966) →船舶整備公団(1966-1988) |
運用者 |
東海汽船(1962-1978) 神新汽船(1978-1988) |
建造所 | 佐野安船渠 |
航行区域 | 近海 |
船級 | JG |
信号符字 | 7LZV |
経歴 | |
起工 | 1961年9月25日 |
進水 | 1962年1月23日 |
竣工 | 1962年3月15日 |
就航 | 1962年 |
運航終了 | 1988年2月 |
最後 | 1988年2月、久三商店(赤穂市)で解体 |
要目 | |
総トン数 | 614 トン |
載貨重量 | 237 トン |
全長 | 54.86 m |
垂線間長 | 50.0 m |
型幅 | 8.8 m |
型深さ | 4.1 m |
喫水 | 2.912 m |
機関方式 | ディーゼル |
主機関 | 日本発動機 HS6NV38 1基 |
推進器 | 1軸 |
最大出力 | 1,150馬力 |
定格出力 | 978馬力(常用) |
最大速力 | 15.09ノット(公試) |
航海速力 | 13.3ノット |
旅客定員 |
242名(近海) 459名(沿海6時間未満) 790名(平水1.5時間未満) |
乗組員 | 27名 |
あじさい丸(-まる)は、1962年に就航した東海汽船の貨客船である。1978年の神新汽船設立とともに同社の航路に就航した。
概要
[編集]下田 - 新島 - 神津島 - 三宅島航路向けに建造され、1962年3月15日、大阪の佐野安船渠で竣工した。東海汽船と特定船舶整備公団(後に船舶整備公団に改編)との共有であり、神新汽船航路就航の際に神新汽船への貸し出された。東海汽船の近代化の礎となるモデルであった。1988年2月、神新汽船の新造船あぜりあ丸の就航により引退[1]、廃船となり兵庫県赤穂市坂越湾の久三商店で解体された。
就航航路
[編集]東海汽船
- 下田港 - 新島 - 神津島 - 三宅島
- 下田港 - 神津島 - 大島
神新汽船
- 下田港 - 新島 - 式根島 - 神津島
設計
[編集]本船はデリック付貨客船として計画されたが、就航当時は神津島、新島、三宅島の各島の港湾が未整備で、艀による荷役を行っていたため、準備工事のみで竣工した。神新汽船への移籍後には、計画通りデリックが装備された。また、上甲板および遊歩甲板の木甲板には、イル・ド・フランスのチーク材が流用されていた。
佐野安船渠では、同時期に準同型船といえる加藤汽船のはぴねすが建造されている。
事故・インシデント
[編集]漁船との衝突
[編集]1987年1月19日、9時50分ごろ、下田港から神津島に向かっていた本船は、神子元島灯台の北方約1.9海里の地点で、一本釣り漁船第一穂栄丸と衝突した。本船の船首が、第一穂栄丸の右舷船尾部に後方から約20度の角度で衝突、第一穂栄丸は大きく右転し、本船の右舷船首部に再度衝突した。衝突により、本船は右舷船首部に擦過傷と凹損を生じ、第一穂栄丸は右舷船尾に亀裂を生じて機関室に浸水した。また、第一穂栄丸の甲板員が頭部などを負傷した。事故原因は、互いに進路を横切り衝突の恐れがある状態で、本船を右舷側に確認した第一穂栄丸がその後の動静監視を行わず、本船の進路を避けなかったことで発生したが、本船が警告信号を行わず、衝突回避の協力動作が遅かったことも一因とされた[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 船舶技術協会『船の科学』1962年5月号 第15巻第5号
- 海人社『世界の艦船 別冊 日本の客船[2] 1946-1993』1993年 ISBN 4-905551-45-5