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あじさい丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あじさい丸
基本情報
船種 貨客船
船籍 日本の旗 日本
所有者 東海汽船(1962-1988)
特定船舶整備公団(1962-1966)
船舶整備公団(1966-1988)
運用者 東海汽船(1962-1978)
神新汽船(1978-1988)
建造所 佐野安船渠
航行区域 近海
船級 JG
信号符字 7LZV
経歴
起工 1961年9月25日
進水 1962年1月23日
竣工 1962年3月15日
就航 1962年
運航終了 1988年2月
最後 1988年2月、久三商店(赤穂市)で解体
要目
総トン数 614 トン
載貨重量 237 トン
全長 54.86 m
垂線間長 50.0 m
型幅 8.8 m
型深さ 4.1 m
喫水 2.912 m
機関方式 ディーゼル
主機関 日本発動機 HS6NV38 1基
推進器 1軸
最大出力 1,150馬力
定格出力 978馬力(常用)
最大速力 15.09ノット(公試)
航海速力 13.3ノット
旅客定員 242名(近海)
459名(沿海6時間未満)
790名(平水1.5時間未満)
乗組員 27名
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あじさい丸(-まる)は、1962年に就航した東海汽船貨客船である。1978年神新汽船設立とともに同社の航路に就航した。

概要

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下田 - 新島 - 神津島 - 三宅島航路向けに建造され、1962年3月15日、大阪の佐野安船渠で竣工した。東海汽船と特定船舶整備公団(後に船舶整備公団に改編)との共有であり、神新汽船航路就航の際に神新汽船への貸し出された。東海汽船の近代化の礎となるモデルであった。1988年2月、神新汽船の新造船あぜりあ丸の就航により引退[1]、廃船となり兵庫県赤穂市坂越湾の久三商店で解体された。

就航航路

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東海汽船

  • 下田港 - 新島 - 神津島 - 三宅島
  • 下田港 - 神津島 - 大島

神新汽船

設計

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本船はデリック付貨客船として計画されたが、就航当時は神津島、新島、三宅島の各島の港湾が未整備で、艀による荷役を行っていたため、準備工事のみで竣工した。神新汽船への移籍後には、計画通りデリックが装備された。また、上甲板および遊歩甲板の木甲板には、イル・ド・フランスチーク材が流用されていた。

佐野安船渠では、同時期に準同型船といえる加藤汽船はぴねすが建造されている。

事故・インシデント

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漁船との衝突

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1987年1月19日、9時50分ごろ、下田港から神津島に向かっていた本船は、神子元島灯台の北方約1.9海里の地点で、一本釣り漁船第一穂栄丸と衝突した。本船の船首が、第一穂栄丸の右舷船尾部に後方から約20度の角度で衝突、第一穂栄丸は大きく右転し、本船の右舷船首部に再度衝突した。衝突により、本船は右舷船首部に擦過傷と凹損を生じ、第一穂栄丸は右舷船尾に亀裂を生じて機関室に浸水した。また、第一穂栄丸の甲板員が頭部などを負傷した。事故原因は、互いに進路を横切り衝突の恐れがある状態で、本船を右舷側に確認した第一穂栄丸がその後の動静監視を行わず、本船の進路を避けなかったことで発生したが、本船が警告信号を行わず、衝突回避の協力動作が遅かったことも一因とされた[2]

脚注

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  1. ^ 世界の艦船(1988年5月号,p36)
  2. ^ 横浜地方海難審判庁『昭和62年横審第77号 旅客船あじさい丸漁船第一穂栄丸衝突事件』(レポート)海難審判・船舶事故調査協会、1987年12月11日。 

参考文献

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  • 船舶技術協会『船の科学』1962年5月号 第15巻第5号
  • 海人社『世界の艦船 別冊 日本の客船[2] 1946-1993』1993年 ISBN 4-905551-45-5

外部リンク

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