コンテンツにスキップ

ケレイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ケレイモンゴル語: Kerei, ? -1300年)は、大元ウルスに仕えた将軍の一人。『元史』での漢字表記は怯烈(qièliè)。主に雲南ビルマ方面の攻略・統治に携わった。

概要

[編集]

ケレイは西域中央アジア)から出て、太原に移住してきた家系の出であった。ケレイは中書訳史となり、サイイド・アジャッルに従って陝西・四川方面の攻略に従事していた[1][2]至元12年(1275年)、雲南行省が設立されるとこれに所属し、諸洞蛮夷酋長の服属に功績を挙げた。至元15年(1278年)、ビルマ人との小競り合いが起こると、ケレイは軍士を率いてこれを撃退し、中書省左右司員外郎に昇格となった[3]

至元18年(1281年)、サイイド・アジャッルの息子のナースィルッディーンよりクビライの下に派遣され、弁舌の巧みさを気に入られたケレイは鎮西緬麓川等路宣撫司ダルガチに任じられた。ケレイは雲南行省に在任中、成都と烏蒙諸駅間の交通路の開拓に尽力し、往来が盛んになったという[4]

その後、突如クビライに召喚されたケレイはビルマ遠征の事について質問され、次いでピルマ出兵について携わるようになった。ケレイは諸王サンウダルらとともにビルマに出兵し、江頭城を占領して帰還した。その後、今度は雲南王エセン・テムルとともにビルマに入り、ピューに3000の兵とともに駐屯し、現地の住民を招撫した[5]

後にクビライに調見したケレイはこれまでの功績を労われ、正議大夫・僉緬中行中書省事に任じられた。その後更に通奉大夫・雲南諸路行中書省参知政事を経て資善大夫・雲南諸路行中書省左丞に移ったが、大徳4年(1300年)に病で亡くなった[6]

脚注

[編集]
  1. ^ サイイド・アジャッルは第2代皇帝オゴデイの治世に太原路のダルガチとなり、第5代皇帝クビライの即位後に陝西五路西蜀四川行中書省の平章政事とされている。
  2. ^ 『元史』巻125列伝12賽典赤贍思丁伝,「太宗即位、授豊・浄・雲内三州都達魯花赤。改太原・平陽二路達魯花赤。入為燕京断事官……至元元年、置陝西五路西蜀四川行中書省、出為平章政事」
  3. ^ 『元史』巻133列伝20怯烈伝,「怯烈、西域人、世居太原、由中書訳史従平章政事賽典赤経略川・陝。至元十二年、立雲南行省、署為幕官、諸洞蛮夷酋長款附、怯烈功居多。十五年、分省大理、会緬人入寇、怯烈即以戦具資軍士、討平之、授行中書省左右司員外郎」
  4. ^ 『元史』巻133列伝20怯烈伝,「十八年、平章納速剌丁遣詣闕敷奏辺事、世祖愛其聡辨練達、錫虎符、拝鎮西緬麓川等路宣撫司達魯花赤、兼管軍招討使。成都・烏蒙諸駅阻絶、怯烈市馬給伝、往来便之」
  5. ^ 『元史』巻133列伝20怯烈伝,「俄被召上京、問以征緬事宜、奏対称旨、賜幣帛及翎根甲。諸王相吾答児・右丞太卜征緬、命怯烈率兵船為嚮導、抜其江頭城、振旅而還。復従雲南王入緬、総兵三千屯鎮驃国、設方略招来其党、由是復業者衆」
  6. ^ 『元史』巻133列伝20怯烈伝,「後入覲、世祖慰労之、詢以緬国始末。擢正議大夫・僉緬中行中書省事、佩金符。頒詔于緬、宣布威徳、緬王稽顙称謝、遣世子信合八的入貢。遷通奉大夫・雲南諸路行中書省参知政事。進資善大夫・雲南諸路行中書省左丞。大徳四年、以疾卒」

参考文献

[編集]