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コチカル・テギン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コチカル・テギン(火赤哈児的斤/Qočqar tigin、生没年不詳)は、13世紀初頭に活躍したモンゴル帝国ウイグル王国の王(イディクート)[1]。コチカル・テギンの治世において「カイドゥの乱」が勃発し、カイドゥの侵攻によって首都ビシュバリクからカラ・ホージャ高昌)の遷都を余儀なくされたことで知られる。

元史』などの漢文史料では火赤哈児的斤(huǒchìhāér dejīn)と表記されるが、蒙漢合壁碑(ウイグル文字文と漢文の両方が記される碑文)の「高昌王世勲碑」の記述によりテュルク語で「公羊」を意味する「コチカル・テギン(Qočγar tigin)」が正しい名前であると判明している[2]

生涯

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コチカル・テギンはモンゴル帝国に初めて臣従したバルチュク・アルト・テギンの曾孫にあたり、マムラク・テギンの息子として生まれた。コチカルはクビライ帝位継承戦争に勝利を収めて間もなくの頃に天山ウイグル王国の君主となり、1266年(至元3年)にクビライ(セチェン・カアン)によりイディクートの地位を認められた。しかし、1268年(至元5年)には中央アジアのカヤリクに領地を持つカイドゥがクビライに叛旗を翻し、両者の中間に位置するウイグル王家はカイドゥの攻撃対象となった。この頃は主戦場がモンゴル高原であり、比較的ウイグル王家への被害は少なかったものの、ウイグル王家は首都ビシュバリクを放棄して南のカラ・ホージョに逃れざるをえなくなった。なお、この時クビライはカイドゥとの戦いで四散したウイグルの民がウイグル王家の下に戻れるよう命じている[3][4]

しかし、1275年(至元12年)にはカイドゥの同盟者でチャガタイ家のドゥアブズマ兄弟が12万の大軍を擁してウイグリスタンに侵攻し、これに応戦しようとしたクビライ側の諸王アジキアウルクチも敗れ、遂にコチカルの拠るカラ・ホージョはドゥア軍に包囲された(カラ・ホジョの戦い)。ドゥアはコチカルに対して早くから投降を勧めたがコチカルは「忠臣は二君につ仕えず」と述べてこれを拒否し、ドゥア軍によるカラ・ホージョ包囲は6カ月に及んだ。投降を拒むウイグル王家に対してドゥアは矢文を入れ、「我もまた太祖チンギス・カンの末裔であるのに、何故爾は我に投降しないのか。[かつてチンギス・カンが娘をバルチュクに与えたように]爾が娘を我に与えるというのなら、我は兵を引こう。さもなければ、カラ・ホージョを攻め立てよう」と伝えた。これを見たコチカルは「どうして一人の娘を惜しんで民の命を救うことを諦められようか」と語り、娘(也立亦黒迷失別吉/エル・イクミシュ・ベキ)を差し出すことでドゥア軍の包囲を解かせる道を選んだ。しかし、コチカルは娘を差し出してもドゥアらに投降するつもりはなく、城門を開けずにイクミシュを縄で城壁から垂らしてドゥア軍に差し出した。ドゥアは自らの言葉を守って軍を引き、こうしてカラ・ホージョは危機を脱することができた。その後、クビライの下を訪れたコチカルはその功績を称賛され、第3代皇帝グユクの娘ババカルと鈔10万錠を与えられた。

しかし、このカラ・ホージョの戦いから間もなくして中央アジアでは「シリギの乱」が勃発し、中央アジアにおけるクビライ側の防衛戦は崩壊して戦況は一気にカイドゥ・ドゥア側に傾いた。コチカルは寡兵を率いてカイドゥ軍と戦ったが戦況を覆すに至らず、戦死した。その地位は子のネウリン・テギンに引き継がれたがウイグル王家がビシュバリクを中心とする本領を取り返すことはこの後無く、コチカル及びネウリンの時代に天山ウイグル王国は実質的に解体することになった[5]

天山ウイグル王家

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脚注

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  1. ^ イディクート(Īdï Qūt、亦都護)とは天山ウイグル王国の王号である。テュルク語でïdïqとは「神から贈られた」「至福の」「神聖な」という意味で、qūtとは「息」「魂」「生命」から転じて「幸福」「吉祥」という意味である。バルトールドによるとこの称号はバシュキル族の首長の名でそれを受け継いだものだという。<村上 1976,p84>
  2. ^ 劉1984,p.61/82
  3. ^ 『元史』巻122列伝9巴而朮阿而忒的斤伝,「至元三年、世祖命其子火赤哈児的斤嗣為亦都護。海都・帖木畳児之乱、畏兀児之民遭乱解散、於是有旨命亦都護収而撫之、其民人在宗王近戚之境者、悉遣還其部、畏兀児之衆復輯」
  4. ^ 安部1955,89-91頁
  5. ^ 『元史』巻122列伝9巴而朮阿而忒的斤伝,「十二年、都哇・卜思巴等率兵十二万囲火州、声言曰『阿只吉・奥魯只諸王以三十万之衆、猶不能抗我而自潰、爾敢以孤城当吾鋒乎』。亦都護曰『吾聞忠臣不事二主、吾生以此城為家、死以此城為墓、終不能従爾也』。受囲凡六月、不解。都哇以書繋矢射城中曰『我亦太祖皇帝諸孫、何以不附我且爾祖嘗尚公主矣。爾能以女与我、我則休兵、不然則急攻爾』。其民相与言曰『城中食且尽、力已困、都哇攻不止、則相与倶亡矣』。亦都護曰『吾豈惜一女而不以救民命乎。然吾終不能与之相見』。以其女也立亦黒迷失別吉厚載以茵、引縄縋城下而与之、都哇解去。其後入朝、帝嘉其功、錫以重賞、妻以公主曰巴巴哈児、定宗之女也。又賜鈔十万錠以賑其民。還鎮火州、屯於州南哈密力之地、兵力尚寡、北方軍忽至其地、大戦力尽、遂死之。子紐林的斤、尚幼、詣闕請兵北征、以復父讎」

参考文献

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  • 安部健夫『西ウイグル国史の研究』中村印刷出版部、1955年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 元史』巻122列伝9
  • 新元史』巻109列伝13
  • 蒙兀児史記』巻36列伝18
先代
マムラク・テギン
天山ウイグル王国の国王
1266年 - 1283年
次代
ネウリン・テギン