コンコ・テムル
コンコ・テムル(モンゴル語: Qongqo temür、中国語: 晃火帖木児、? - 1335年)は、モンゴル帝国第4代皇帝モンケ・カアンの庶子のシリギの孫。『元史』などの漢文史料では晃火帖木児(huǎnghuǒ tiēmùér)、ペルシア語史料ではقونان تیمور(Qūnān tīmūr)と記される。
出自
[編集]コンコ・テムル(晃火帖木児)は『元史』宗室世系表ではシリギ(昔里吉)の息子と記されるが、『集史』や『五族譜』といったペルシア語史料にはシリギ(شیرکی)の息子にコンコ・テムルに相当する人名は見られない。
『元史』「宗室世系表」は誤りが多く信用できないこと、コンコ・テムルがシリギの息子であるとするとその没年が不自然であること、などからペルシア語史料でシリギの息子のウルス・ブカ(Ulus-buqa>اولوس بوقاŪlūs būqā)の息子と記されるقونان تیمور(Qūnān tīmūr)がコンコ・テムルであると考えられている[1]。
事蹟
[編集]コンコ・テムルが史料上に現れるのはブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の治世からで、延祐5年(1318年)には「嘉王」に封ぜられている[2][3]。
イェスン・テムル・カアン(泰定帝)の治世の泰定2年(1325年)においてコンコ・テムルは「嘉王」から「并王」へと改封された[4]。翌泰定3年(1326年)には同じモンケ家のチェチェクトゥとともにカアンの元を訪れているが[5]、この頃はモンケ・ウルス宗主たるチェチェクトゥの下位の王族として記録されている[6]。
後至元元年(1335年)、大元ウルスではウカート・カアン(順帝トゴン・テムル)を擁立し実権を握ったバヤンに対するクーデター計画が進行していた。このクーデター計画にコンコ・テムルも参加していたが[7]、この計画はモンケ・ウルス宗主たるチェチェクトゥの密告によって瓦解した[8]。同年、コンコ・テムルは流刑と決定したが[9]、その後まもなく自殺してしまった。
子孫
[編集]至正2年(1342年)にバヤンが失脚し、その甥のトクトが実権を握るとバヤンに陥れられた諸王の名誉が回復され、コンコ・テムルの子のチェリク・テムル(Čerik temür>chèlǐtiēmùér/徹里帖木児)は撫寧王に封ぜられることとなった[10]。「撫寧王」という王号は他に見られないため、チェチェクトゥのかつての王号「武寧王」の誤記ではないかとも推測されている[11]。
しかし、この後チェリク・テムルに関する記録は史料上には現れず、コンコ・テムルとチェチェクトゥの相継ぐ死によってモンケ・ウルスは弱体化してしまったものと見られる[12]。
モンケ家の系図
[編集]- モンケ・カアン…トルイの長男で、モンケ・ウルスの創始者。
- バルトゥ(Baltu,班禿/بالتوBāltū)…モンケの嫡長子。
- トレ・テムル(Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr)…バルトゥの息子。
- ウルン・タシュ(Ürüng daš,玉龍答失/اورنگتاشŪrung tāsh)…モンケの次男で、第2代モンケ・ウルス当主。
- サルバン(Sarban,撒里蛮/ساربانSārbān)…ウルン・タシュの息子。
- シリギ(Sirigi,昔里吉شیرکیShīrkī)…モンケの庶子で、第3代モンケ・ウルス当主。
- アスタイ(Asudai,阿速歹/آسوتایĀsūtāī)…モンケの庶子
- バルトゥ(Baltu,班禿/بالتوBāltū)…モンケの嫡長子。
脚注
[編集]- ^ 村岡2013,107-109頁
- ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐五年二月]丁酉……封諸王晃火帖木児為嘉王、禿満帖木児為武平王、並賜印」
- ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐六年]閏八月丙辰……賜嘉王晃火帖木児部羊十万・馬万匹」
- ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定二年六月]甲申、改封嘉王晃火帖木児為并王」
- ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定三年春正月]諸王徹徹禿・晃火帖木児来朝、賜金・銀・鈔・幣有差」
- ^ 村岡2013,106頁
- ^ 『元史』巻38順帝本紀1,「[至元元年秋七月]戊申、誅答里及剌剌等於市、詔曰……後撒敦・答里・唐其勢相襲用事、交通宗王晃火帖木児、図危社稷、阿察赤亦嘗与謀、賴伯顔等以次掩捕、明正其罪」
- ^ 『元史』巻138列伝25,「[唐其勢]遂与撒敦弟答里潜蓄異心、交通所親諸王晃火帖木児、謀援立以危社稷。帝数召答里不至。郯王徹徹禿遂発其謀……晃火帖木児自殺」
- ^ 『元史』巻38順帝本紀1,「[至元元年冬十月]丁巳……流晃火帖木児・答里・唐其勢子孫於辺地」
- ^ 『元史』巻40順帝本紀3,「[至正二年十二月]辛亥、封晃火帖木児之子徹里帖木児為撫寧王」
- ^ 村岡2013,116-117頁
- ^ 村岡2013,115-117頁
- ^ 村岡2013,117頁