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タブイル

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タブイルTabuyir、? - 1254年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、サルジウト部の出身。『元史』などの漢文史料では塔不已児(tǎbùyǐér)、もしくは答不葉児(dābùyèér)と記される。

概要

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タブイルはモンゴル帝国第2代皇帝オゴデイに仕え、招討使に任ぜられて主に金朝との戦いに従事した。金朝の平定後は、信安・河南を攻略した功績によって征行万戸の地位を授けられている[1][2]1241年には燕京路などの住民と金朝平定によって新たに戸籍に登録された37万の住民から20分の1を徴兵して軍団を編成し、河南一帯に駐屯した[3]。この軍団は、その性格からタンマチ(辺境鎮戍軍)の一つであったと考えられている[4]

タブイルの死後は息子の脱察剌が後を継ぎ、主に南宋との戦いで功績を挙げた。その後を継いだ重喜は李璮の乱討伐、南宋遠征などに従軍した[5]

重喜の死後は息子の慶孫が後を継ぎ、ジャワ遠征などで活躍した[6]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻123列伝10塔不已児伝,「塔不已児、束呂乣氏。太宗時以招討使将兵出征、破信安・河南、以功授金虎符・征行万戸。歳甲寅、以疾卒」
  2. ^ 『元史』巻133列伝20重喜伝,「重喜、束呂乣氏。祖塔不已児、事太宗、為招討使征信安・河南、授金虎符、改征行万戸、卒」
  3. ^ 『元史』巻98兵志1,「八年七月,詔『燕京路保州等処、毎二十戸簽軍一名、令答不葉児統領出軍。真定・河間・邢州・大名・太原等路、除先簽軍人外、於断事官忽都虎新籍民戸三十七万二千九百七十二人数内、毎二十丁起軍一名、亦令属答不葉児領之』」
  4. ^ 松田1996,170頁
  5. ^ 『元史』巻123列伝10塔不已児伝,「子脱察剌襲職。歳己未、率兵渡江、破十字寨。命其子重喜従行。重喜率先引弓、射中敵兵、又多殺獲。既而与敵兵戦於洋隘口、奪戦艦一、流矢中左足、勇気愈倍。時世祖駐蹕洋隘口北、親労之曰『汝年幼能宣力如是、深可嘉尚。然継今尤當勉之』。及脱察剌卒、以重喜襲職。中統三年、従征李璮有功。四年、以兵鎮莒州。至元二年、奉旨初築十字路城、以備守禦。重喜率兵南巡、為遊撃軍。四年、従抄不花出征、至泗州北古城。時蔡千戸為敵兵所囲、重喜奮戦、救而出之。五年、入覲。帝嘉其功、賜白金・納失失段及金鞍弓矢等。十年、修正陽城。明年、宋兵囲正陽、従戦敗之。十二年、従下漣海諸城。俄奉旨率五千人従出征、道過衡陽店、与宋将李提轄等戦、大敗之、殺掠幾尽、遂駐兵瓜洲。十三年夏六月、宋都統姜才領諸軍来囲城堡、敗之。秋七月,従兵襲撃李庭芝等於泰州。十四年、進昭勇大将軍、婺州路総管府達魯花赤,佩已降虎符。未幾卒」
  6. ^ 『元史』巻123列伝10塔不已児伝,「子慶孫襲職、初授宣武将軍・管軍総管、鎮守安楽州。十六年、移戍鎮江府。十八年、還鎮通州。二十年、進明威将軍。二十二年、移鎮十字路。二十四年、領諸翼軍鎮太湖、教習水戦。二十九年、従征爪哇、升昭勇大将軍、征行上万戸。将行、有旨留之。皇慶二年卒。子孛蘭奚襲」

参考文献

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  • 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題 」『宋元時代史の基本問題』汲古書院、1996年
  • 元史』巻133列伝20