ブノワ・ミュジー
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ブノワー・ミュジー | |
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グランプリでの経歴 | |
国籍 | スイス |
活動期間 | 1949 - 1951 |
チーム | モト・グッツィ |
レース数 | 4 |
優勝回数 | 0 |
表彰台回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 13 |
初グランプリ | 1949 250cc スイスGP |
最終グランプリ | 1951 500cc スイスGP |
ブノワー・ミュジー(Benoît Nicolas Musy、1917年12月13日 ‐ 1956年10月7日)は、スイス出身のオートバイレーサー、ドライバー。
生涯
[編集]ブノワーは、スイスの政治家ジャン=マリー・ミジュー(en)の息子として、フリブール生まれた。農学者の資格をベルンで取得し、第二次世界大戦中は空軍に属した。彼は父の助力を受けながら、テレージエンシュタット強制収容所に収監されていた1200人とも言われる多くのユダヤ人を救ったとして、1944年に有名になった。[1]
さらに彼は、レースの世界に身を投じたことで、更に著名な人物となった。オートバイではモト・グッツィを駆ってロードレース世界選手権に出場[2]し、自動車レースでは主にマセラッティに乗り、1950年代中ごろのヨーロッパ・スポーツカー選手権を何度も制した。
彼は1956年、フランス・エソンヌ県のAutodrome de Montlhéryで開催されたレース中の事故で死亡した。
戦歴
[編集]ロードレース世界選手権
[編集]1949年のポイントシステム
順位 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ファステストラップ |
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ポイント | 10 | 8 | 7 | 6 | 5 | 1 |
順位 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
---|---|---|---|---|---|---|
ポイント | 8 | 6 | 4 | 3 | 2 | 1 |
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
年 | クラス | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | ポイント | 順位 | 勝利数 |
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1949 | 250cc | モト・グッツィ | IOM - |
SUI 5 |
ULS - |
ITA - |
5 | 13位 | 0 | ||||
1950 | 250cc | モト・グッツィ | IOM - |
SUI 4 |
ULS - |
ITA - |
3 | 9位 | 0 | ||||
1951 | 250cc | モト・グッツィ | SPA - |
SUI 4 |
IOM - |
BEL - |
NED - |
FRA - |
ULS - |
ITA - |
3 | 8位 | 0 |
500cc | モト・グッツィ | SPA - |
SUI 5 |
IOM - |
BEL - |
NED - |
FRA - |
ULS - |
ITA - |
2 | 19位 | 0 |