マヌーチヒリー・ダームガーニー
マヌーチヒリーの名で知られるアブル=ナジュム・アフマド・ブン・カウス・ブン・アフマド・マヌーチヒリー・ダームガーニー(ヒジュラ暦432年/西暦1040年以降没)は、ダームガーン出身のイランの詩人又はペルシャ語詩人である。アラビア語詩の影響を強く受けた詩風で知られる。[1]
生涯
[編集]マヌーチヒリーは、幼年期から青年期にかけて、ダームガーンでアラビア語の勉強をして過ごし、ズィヤール朝のカーブースの息子マヌーチヒルに仕えてタバリスターンに来た。マヌーチヒル・カーブースが亡くなると、レイへ行き、ガズナ朝のスルターン・マスウード1世に代わってレイ周辺を統治するターヒレ・ダビールという代官職についた。彼はそこからガズナの宮廷への(栄達への)道を得て、マスウード1世の寵愛を得るようになった。マヌーチヒリーは、カスィーダ(アラビア語詩のスタイルの一つ。頌詩。)の要素を擁護しようとして、『不思議なともしびの歌』という本の中で、詩人ウンスリーを称揚した。生没年ともに不詳であるが、詩集の中にヒジュラ暦432年の日付があることから、同年西暦1040年、34歳のころはまだ存命していたと考えられている。[2]
詩の主題と形式
[編集]マヌーチヒリーの詩の多くは自然に関するものである。彼はアラビア語をよく知っていた上に、ナフヴ(統語論)、医学、天文学、音楽にも精通していた。そして、彼自身の詩にこれらの学問の専門用語がよく使われた。彼のディーワーン(詩集)は、ガザル、カスィーダ、ムサンマト、キトゥア、タルキーベ・バンドの形式で書かれた詩を含み、その内容は何かの称賛、描写、禁忌について歌い上げるものが含まれる。マヌーチヒリーは、ムサンマト形式をパールスィー詩(イラン古詩)の中で最初に作られたものとした。彼の詩は普通、二つの内容である。若さを称揚する抒情的な詩と、貴顕を讃える詩がいつも作られた。マヌーチヒリーのアラビア語の単語や言い回しは、彼のアラビア語への造詣の深さの反映である。
奇妙で聞きなれないものですらあるアラビア語の語句の採用、詩集における30人近いアラビア語詩人への言及、彼らの詩集を集めて研究したことへの言及、アラビア語詩の様式や主題への偏愛は、この傾向の好例である。マヌーチヒリー・ダームガーニーが、文化の比較と相互の影響を論じる中で、ムアッラカートについて著した論文では、彼自身のムアッラカート2首が主題と深さの点で影響を受けたことを明らかにしている。これらの例にもかかわらず、上記分野におけるマヌーチヒリーの独創性と幅広さが格別であることは、一目瞭然である。[3]
脚注
[編集]- ^ 黒柳 1964, p. 418.
- ^ “زندگی نامه شاعر بزرگ ايران ؛ منوچهری دامغانی ”. Tarikhaneh.com. 2016年2月3日閲覧。
- ^ “کتابی در نقد و بررسی دیوان منوچهری دامغانی ”. 2016年2月2日閲覧。
参考文献
[編集]- E.G. Browne. Literary History of Persia. (Four volumes, 2,256 pages, and twenty-five years in the writing). 1998. ISBN 0-7007-0406-X(エドワード・グランヴィル・ブラウンによる4巻本2,256ページに及ぶ『ペルシャ文学史』。執筆に25年を費やした大著。)
- “Manūčihrī Dāmġānī, Abū al-Naǧm Aḥmad (10??-1040)” (フランス語). 2016年2月2日閲覧。 主に欧文による文献目録。
- 嶋田襄平、前嶋信次、藤本勝次、牧野信也、蒲生礼一、黒柳恒男 訳『アラビア・ペルシア集』 第68集、筑摩書房、東京〈世界文学大系〉、1964年。所収の黒柳恒男「近世ペルシア文学史」p.418 参照。