ヨハン3世 (バイエルン公)
ヨハン3世 Johann III. | |
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下バイエルン=シュトラウビング公 | |
在位 | 1417年 - 1425年 |
出生 |
1374年? エノー伯領、ル・ケノワ |
死去 |
1425年1月6日 ホラント伯領、デン・ハーグ |
配偶者 | ルクセンブルク女公エリーザベト |
家名 | ヴィッテルスバッハ家 |
父親 | 下バイエルン公アルブレヒト1世 |
母親 | マルガレーテ・フォン・ブリーク |
ヨハン3世(ドイツ語:Johann III., 1374年? - 1425年1月6日)は、最後の下バイエルン=シュトラウビング公。アルブレヒト1世の三男。ヴィルヘルム2世、アルブレヒト2世の弟。フランス名ジャン・ド・バヴィエール(Jean de Bavière)。
生涯
[編集]1389年にリエージュ司教君主に就いたが、強圧的なためリエージュ市民と対立した。1394年・1402年と反乱に遭い、1406年には市民から廃位を宣告、対立候補を選出され身の危険を感じ、1408年に兄ヴィルヘルム2世、義兄のブルゴーニュ公ジャン1世らの力を借りて鎮圧した。だが、反乱に参加した市民層や聖職者達を容赦無く処刑、都市の自治権や役職も剥奪・廃止するなど徹底的に弾圧したため、不穏な状態はその後も続いた[1]。
1417年にヴィルヘルム2世が死去した時、姪のジャクリーヌがエノー、ホラント、ゼーラントを相続したことに反対、司教を辞任して下バイエルン=シュトラウビング公となり、フック派(Hoeks)に対抗するタラ派(Kabeljauws)の支援を受けてネーデルラントを巡り戦争を始めた。翌1418年にルクセンブルク女公エリーザベトと結婚、同族のローマ王ジギスムントの後ろ盾を得てネーデルラントに進出する無怖公とも対立した[2]。
ジャクリーヌとその夫ブラバント公ジャン4世との戦いを優位に進め、1419年にドルトレヒトの陥落を機にジャン4世の共同君主とすることを認めさせたが、1425年に毒殺され、子がなかったためシュトラウビング系は断絶した[3]。
死後、甥のフィリップ3世(善良公)がヨハン3世の相続権を主張、イングランドに亡命し、1422年にジャン4世との結婚を解消してグロスター公ハンフリーと再婚したジャクリーヌとの戦争に勝ち、1432年にエノー、ホラント、ゼーラントを獲得した[4]。シュトラウビングは1429年に同族のルートヴィヒ7世、ハインリヒ16世、エルンストがそれぞれ分割相続した。
画家ヤン・ファン・エイクを1422年から1424年まで一時的に宮廷画家として召抱えていたと考えられている。その後ファン・エイクはフランドルへ移り、善良公の宮廷画家となっている[5]。
脚注
[編集]- ^ 堀越、P27 - P28、P34 - P35、カルメット、P140 - P143。
- ^ 堀越、P51、カルメット、P190、城戸、P258、Pn80。
- ^ カルメット、P192、P212 - P214、城戸、P258 - P259。
- ^ 堀越、P59 - P60、カルメット、P214 - P217、城戸、P259 - P262。
- ^ 堀越、P24 - P25。
参考文献
[編集]- 堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社(講談社現代新書)、1996年。
- ジョゼフ・カルメット著、田辺保訳『ブルゴーニュ公国の大公たち』国書刊行会、2000年。
- 城戸毅『百年戦争―中世末期の英仏関係―』刀水書房、2010年。
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