ヨース・ファン・クレーフェ
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ヨース・ファン・クレーフェ Joos van Cleve[1] | |
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Joos van Cleve[1] | |
「自画像」木板パネルに油彩、1519年頃、ティッセン=ボルネミッサ美術館蔵 | |
生誕 |
ヨース・ファン・デル・ベーケ[2] Joos van der Beke[2] 1485年頃[3] アントウェルペン[3] |
死没 |
1540年頃 アントウェルペン[3] |
ヨース・ファン・クレーフェ(オランダ語: Joos van Cleve、1485年頃 - 1540年頃)は、フランドルの画家。生涯については謎が多く、確定していることは少ない。
略歴
[編集]本名はJoos van der Bekeとされ、通称のヨース・ファン・クレーフェは出身地の地名を示すとして、現在のドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州のクレーヴェ (Kleve)を出生地とされることもあるが、証拠はなく、アントウェルペン生まれとされることもある[3]。画家の父のもとで修業した[3]。若年期にイタリア旅行を経験したとも考えられている[2]。1511年、アントウェルペン画家組合に加入[3]。1530年頃フランス王フランソワ1世の宮廷に招かれ、王室の肖像画を描いた[3]。1540年にアントウェルペンで亡くなった。 19世紀まで忘却されていたが、聖母マリアの死を題材にした作品にちなみ、「聖母の死の画家」(オランダ語: Meester van de Dood van Maria)という名前でよばれていた。19世紀末以後、再発見された画家である[4]。
息子のコルネリス・ファン・クレーフェ(Cornelis van Cleve:1520-1567/1614)も父親のスタイルを継承した画家になった。
作品
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三連祭壇画「マリアの死」1515年頃、アルテ・ピナコテーク蔵
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「聖母の死」16世紀前半、ヴァルラフ・リヒャルツ美術館蔵
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「三連祭壇画:キリスト磔刑」16世紀前半、メトロポリタン美術館蔵
脚注
[編集]- ^ a b “作家名索引>ヨース・ファン・クレーフェ / Joos van Cleve [ 1485年頃 - 1540/41年 ]>作家について”. 国立西洋美術館. 2018年7月5日閲覧。
- ^ a b c “ファン・クレーフェ【Joos van Cleve】”. 世界大百科事典第2版. 2018年7月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g “クレーフェ Cleve(Cleef), Joos van”. ブリタニカ国際大百科事典小項目事典. 2018年7月5日閲覧。
- ^ Martin Davis, The Early Netherlandish School, National Gallery Catalogue, 3rd edition, 1968
- ^ “ヨース・ファン・クレーフェ[1485年頃 - 1540/41年]三連祭壇画:キリスト磔刑”. 国立西洋美術館. 2018年7月5日閲覧。