上野精一
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上野 精一(うえの せいいち、1882年(明治15年)10月28日 - 1970年(昭和45年)4月19日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社主。
来歴・人物
[編集]1882年、朝日新聞社社主・上野理一の長男として大阪市東区平野町に生まれる。北野中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法科大学卒。大学院在籍のまま日本勧業銀行に入行するが、1910年に朝日新聞社に入社。営業部長、副社長を歴任。妻は九鬼隆義の娘の上野梅子(旧姓九鬼、琴の奏者として知られる。戒名は慈徳院殿仁讓琴室梅箏大姉)
村山龍平社長のもとに専務取締役、取締役会長を経て1933年に社長就任。廃止されていた主筆制を復活させる。1946年、全国中等学校野球連盟(現日本高等学校野球連盟(高野連))設立、初代会長に就任。全国高等学校野球選手権大会を朝日新聞社主催とする。翌1947年、公職追放を受ける[1](1951年追放解除[2])。1970年、87歳で死去。戒名は髙徳院殿禪機靈通精一大居士、墓所は、法然院。
公益財団法人仏教美術研究上野記念財団[3]を設立し、仏教美術の研究に尽くした。
系譜
[編集]上野理一(父、初代社主) - 上野精一(2代目社主) - 上野淳一(息子、3代目社主) - 上野尚一(孫、4代目社主)
著書
[編集]単著
[編集]- 『上野精一文集』朝日新聞社、1972年4月。
翻訳
[編集]共訳
[編集]脚注・出典
[編集]- ^ 「朝日新聞」1947年10月23日一面。
- ^ 「朝日新聞」1951年6月19日一面。
- ^ 公益財団法人仏教美術研究上野記念財団
- ^ 『上野理一傳』(朝日新聞社 社史編修室)P.777
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