下地一明
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
生年月日 | 1976年12月4日(47歳) |
出身地 | 沖縄県 |
身長 | 195cm (6 ft 5 in)[1] |
体重 | 84kg (185 lb)[1] |
キャリア情報 | |
高校 | 北谷高校 |
大学 | 中央大学 |
経歴 | |
選手時代: | |
2001 | OSGフェニックス |
コーチ時代: | |
2001-2002 | OSGフェニックス(AC) |
2003 | 男子日本代表(AC) |
2004-2009 | 新潟アルビレックスBBA2 |
2006-2009 | 新潟アルビレックスBB(AC) |
2011-2012 | 富山グラウジーズ |
2014-2015 | 埼玉ブロンコス |
2017 | 富山グラウジーズ(AC) |
2018-2022 | 新潟アルビレックスBB U15 |
下地 一明(しもじ かずあき、1976年12月4日 - )は、日本のバスケットボール指導者、選手である。
選手としては中学生の頃から全国規模の大会で好成績を収め、日本代表候補にも選ばれるが、マルファン症候群に起因する心臓疾患によって、日本リーグのOSGフェニックスに所属していた2001年、引退を余儀なくされる。その後は指導者に転身し、bjリーグの富山グラウジーズ、埼玉ブロンコスでヘッドコーチとして指揮を執った。2017年3月より、富山グラウジーズのアシスタントコーチを務めている。
略歴・人物
[編集]大学まで
[編集]沖縄県出身。小学3年生まで静岡県で育ち、その後沖縄に戻る。八重瀬町立東風平中学校入学時には既に身長が177cmあり、上級生の勧めで高身長を活かすことのできるバスケットボールを始める[2]。2年次には身長は186cmにまで伸び[2]、ジュニアオールスターの沖縄県代表に仲村直人らと共に選抜される[3]。決勝では石坂秀一を擁する東京都代表を破り、優勝した[4][3]。
中学3年次には身長が191cmに達した下地は[1]、ジュニアオールスターの選手に下地を強く推した安里幸男が指揮する北谷高校に進学する[5]。1年次はインターハイに出場、1年次と2年次にはウィンターカップに出場し、国体にも沖縄県代表チームに選抜され出場した[6]。1年次のウィンターカップでは1回戦で庄司和広擁する北陸高校に敗れるものの、この試合での活躍が評価され全日本のメンバーに選ばれた[6]。
高校卒業後は中央大学に進学する[7]。日本代表候補にも選ばれ、3年次には当時拓殖大学1年の渡邉拓馬とリーグ戦の得点王を争っていた[8]。だが1997年10月17日、代々木第二体育館での試合中に胸の痛みを訴え、会場に近い慶應義塾大学病院に搬送される[1]。下地はマルファン症候群に起因する解離性大動脈瘤と診断され、緊急手術を受け一命はとりとめたものの、選手としての引退を余儀なくされた[1]。
実業団、コーチへの転身
[編集]大学卒業後、オーエスジーに就職する。オーエスジーには実業団バスケットボール部「OSGフェニックス」があったが、下地はそれとは関係無く一般社員として入社し、将来バスケットボールの指導者を志してはいたものの、部の活動には掃除などの手伝いで関わる程度だった[9]。入社当初は競技生活から離れたこともあり体重が増えていたが、外見を気にして減量を行うと体調が良くなり、大口真洋ら選手の練習相手を務めるようになる[9]。その後、心臓の専門医による診察などを経て、入社3年目に競技生活への復帰を一旦果たした[9]ものの、再び大動脈瘤を発症し、バスケットボール日本リーグ公式戦へ出場すること無く再び引退した[10]。
引退後はオーエスジーのアシスタントコーチに就任し、当時オーエスジーの監督だった中村和雄の下、指導者の道を歩み始める[10]。2003年には佐藤久夫の誘いにより、オーエスジーを退社しバスケットボール男子日本代表のアシスタントコーチに就任、当時ヘッドコーチだったジェリコ・パブリセヴィッチの薫陶を受けた[11]。
新潟アルビレックスBB
[編集]日本代表コーチの任期を終えた下地は、大学の先輩だった岐津知平の誘いを受け、2004年に新潟アルビレックスBBのコーチに就任し、下部組織のアルビレックスBB-A2と、子供を対象にしたバスケットボールスクールで指導を行う[12]。下地が指揮し、吉田平、寺下太基、水町亮介、田村大輔らを擁したA2は2005年の全日本クラブバスケットボール選手権大会で準優勝し[13]、この年のbjリーグドラフト会議では吉田、寺下、水町が指名を受け、田村もドラフト外でbjリーグのチームに入団した。この後、A2からは小菅直人などもbjリーグのチームへの入団を果たした[4]。2006年からはA2のコーチと新潟のアシスタントコーチを兼務することになり、ヘッドコーチであった廣瀬昌也の下で選手の指導にあたるも[14]、11月18日、チームの試合が行われる所沢市で3度目の大動脈瘤を発症し、昏睡状態に陥る[15]。下地は1か月後に意識を取り戻したものの、後遺症により足首しか動かない状態だった[16]。下地の元には新潟のファンから1万8千羽に上る折り鶴が贈られ、下地もこれにかけて1万8千回足を動かすことを目標に、埼玉の病院でのリハビリを行う[16]。熱心なリハビリで通常より早く、歩けるようにまで回復した下地は[17]、このシーズンのホーム最終戦で復帰し、試合前には復帰セレモニーが行われた[18]。その後下地は2008-09シーズンまで、新潟のアシスタントコーチを務めた。
富山グラウジーズ
[編集]2011年2月、bjリーグ富山グラウジーズのヘッドコーチに就任。当時2010-2011シーズンの途中であったが、チームは東地区最下位に低迷しており、解任された衛藤晃平の後任となった[19]。結局グラウジーズは最下位を脱することはできなかったものの、東日本大震災の影響により東地区の3チームが活動を休止したため、繰り上がってプレイオフに進出。浜松・東三河フェニックスに敗れファイナル進出はならなかった。2011-2012シーズンは東地区10チーム中5位に入り、チーム初となる自力でのプレイオフ進出に導いた。プレイオフではファーストステージで新潟アルビレックスBBに敗退。翌シーズンの続投要請を受けたが、病気を理由に固辞し、退任した[4]。
埼玉ブロンコス
[編集]2014年5月28日、bjリーグ埼玉ブロンコスのヘッドコーチ就任が発表された[4][20]。ブロンコスは前のシーズンを5勝47敗の最下位で終えており、チームの立て直しを下地に託した格好だった[4]。しかしブロンコスは10月の開幕から連敗が続き、12月上旬には下地が細菌性心内膜炎によって入院を余儀なくされる[21]。2015年1月4日の大分ヒートデビルズ戦、下地不在の中でブロンコスは24戦目にして初勝利を挙げる[22]。下地は1月17日の新潟アルビレックスBB戦から復帰し[23]、1月25日の富山グラウジーズ戦では、前のシーズン1位だった富山を97対90で破った[24]。最終的にブロンコスは6勝46敗、東地区12チーム中11位でシーズンを終えた。シーズン終了後、下地は退任した[25]。
退任後はbjリーグが運営する年少者向けバスケットボール教室「bjリーグアカデミー」のヘッドコーチに就任した[26][27]。
グラウジーズ復帰
[編集]2017年3月、富山グラウジーズにアシスタントコーチとして復帰した[28]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 増本項. “知らないと恐いマルファン症候群(月刊バスケットボール連載)第10回”. 2016年9月9日閲覧。
- ^ a b 荒木ユタカ (2007年9月20日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その1『まぎお』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ a b 荒木ユタカ (2007年9月27日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その4『あれよあれよと…』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ a b c d e “大病乗り越えチーム再建へ bj埼玉の下地一明HC”. 沖縄タイムス. (2014年9月13日) 2016年9月9日閲覧。
- ^ 荒木ユタカ (2007年9月25日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その3『安里(あさと)先生』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ a b 荒木ユタカ (2007年10月2日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その6『俺でもやれる』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ 荒木ユタカ (2007年10月2日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その8『このチームでやってみたいな』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ 荒木ユタカ (2007年10月16日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その12 『やべぇ、先生だ!怒られる!』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ a b c 荒木ユタカ (2007年10月20日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その14『雑用係から現役復帰へ』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ a b 荒木ユタカ (2007年10月23日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その15『お前は選手の気持ちが分かるから』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ 荒木ユタカ (2007年10月25日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その16『ジェリコ』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ 荒木ユタカ (2007年10月27日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その17『新潟へ』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ 荒木ユタカ (2007年11月1日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その19『屈辱から準優勝へ』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ 荒木ユタカ (2007年11月3日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その20『やるからには遠慮はしない』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ 荒木ユタカ (2007年11月6日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その21 『もう目が覚めないかもしれない』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ a b 荒木ユタカ (2007--). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その22『歩けない、立てない』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ 荒木ユタカ (2007年11月10日). “「三度(みたび)死にかけた男」下地一明…その23『2月の所沢を目指して』”. ジャンクステージ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ “「奇跡体験!アンビリバボー」 2016年9月15日(木)放送内容”. 価格.com テレビ紹介情報. カカクコム. 2016年9月16日閲覧。
- ^ “下地一明氏、富山グラウジーズHCに bjリーグ”. 琉球新報. (2011年2月3日) 2016年9月16日閲覧。
- ^ 『新ヘッドコーチ就任のお知らせ』(プレスリリース)埼玉ブロンコス 。2016年9月9日閲覧。
- ^ “下地ヘッドコーチコメント”. 埼玉ブロンコス (2014年12月29日). 2016年9月16日閲覧。
- ^ 『【試合結果】1/4 vs大分』(プレスリリース)埼玉ブロンコス 。2016年9月16日閲覧。
- ^ 『下地ヘッドコーチ復帰のお知らせ』(プレスリリース)埼玉ブロンコス、2016年1月16日 。2016年9月16日閲覧。
- ^ 『【試合結果】1/25 vs富山』(プレスリリース)埼玉ブロンコス、2016年1月25日 。2016年9月16日閲覧。
- ^ 『下地一明ヘッドコーチ退団のお知らせ』(プレスリリース)埼玉ブロンコス、2015年5月14日 。2016年9月16日閲覧。
- ^ “プロ選手らがバスケ部指導 飯能南高 /埼玉”. 毎日新聞 (2015年12月17日). 2016年9月9日閲覧。
- ^ “bjリーグアカデミー 柏日体校 トライアウト開催!”. bjリーグ. 2016年9月9日閲覧。
- ^ “【Bリーグ】グラウジーズ・下地AC、難病と戦いながらチームを鼓舞”. スポーツ報知. (2017年3月11日) 2017年3月17日閲覧。