元韶
元 韶(げん しょう、? - 559年)は、北魏・東魏の皇族。字は世冑。北魏の孝荘帝の甥にあたる[1][2][3]。
経歴
[編集]北魏の彭城王元劭の子として生まれた[1][2][3]。学問を好み、姿形の美しい人物であった。建義元年(528年)、河陰の変で爾朱栄が入洛すると、元韶は滎陽郡太守の鄭仲明を頼った。まもなく鄭仲明が殺されると、鄭仲明の兄の子の鄭僧副とともに避難し、民間の程氏に一時かくまわれた。孝荘帝に迎えられて彭城王の位を継いだが、後にまた爾朱氏の乱を避けて、嵩山に隠れ住んだ[2][3]。
東魏の時代に高歓が長女の孝武皇后を元韶と再婚させたため、北魏帝室の奇宝の多くが元韶の家に入った[2][3]。興和3年(541年)11月、太尉に上った。興和4年(542年)4月、録尚書事となった[4][5]。武定末年に司州牧に転じ[1]、太傅に進んだ。天保元年(550年)、北斉が建てられると、県公に爵位を降格された[2][3]。10月、尚書左僕射となった[6][7]。
元韶は性格が穏和で、高氏の婿として重用された。よく謙遜して人に譲り、政治は仁政を基本とした。儒学を好んで、礼儀を守り、邸宅は質素であった。一方で、文宣帝が元韶のひげを剃らせて化粧をさせ、婦人の服を着せて従わせ、「わたしは彭城を嬪御とする」と言って侮辱するという出来事もあった[2][3]。
天保10年(559年)、太史が「今年は古いものを除いて刷新をおこなう年です」と上奏したので、文宣帝は「漢の光武帝はどうして中興したのか?」と元韶に訊ねると、元韶は「王莽が劉氏を殺し尽くさなかったからです」と答えた。文宣帝は元氏一族を除くことを決意した。5月、元世哲・元景式らの25家を殺して、残りの19家も拘禁させた。元韶は京畿の地下牢で絶食し、衣の袖を食らって死んだ。7月になると、文宣帝が元氏を皆殺しにして、残る者はなかった。前後の死者はおよそ721人に及び、屍体は漳水に投げ込まれたため、都下の人々は長らく魚を食することがなかった[8][9]。
脚注
[編集]伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。