内藤寛一
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ないとう かんいち 内藤 寛一 | |
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昭南市長の時に撮影 | |
生誕 |
1897年(明治30年)9月 日本 愛媛県 |
死没 | 没年不詳 |
出身校 | 法学部政治学科 |
職業 | 官僚 |
親 | 内藤豊治(父) |
内藤 寛一(ないとう かんいち、1897年(明治30年)9月[1] - 没年不詳)は、日本の内務・警察・厚生官僚。官選茨城県知事、陸軍司政長官、昭南市長(シンガポール)。
経歴
[編集]愛媛県出身。内藤豊治の二男として生まれる[1]。第一高等学校を卒業[2]。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し奈良県属となる[1][2]。
以後、奈良県警部、三重県理事官・工場監督官、長野県書記官・学務部長、和歌山県書記官・警察部長、内務省書記官・警保局図書課長、同大臣官房会計課長、厚生省書記官・衛生局指導課長、同大臣官房会計課長、同職業部長、同職業局長などを歴任[1][3][4]。
1941年3月26日、茨城県知事に就任[3]。同年7月の風水害の復旧に尽力し、霞ケ浦北浦洪水水位低下工事の実現を図った。また戦時体制の整備に取り組む[4]。1942年10月7日、陸軍司政長官に発令され[5]、同年11月、南方軍軍政総監部・交通部長に就任。1943年4月1日、同産業部長に異動。同年7月19日、昭南市長に転じ終戦を迎えた[6]。
著作
[編集]- 『戦時経済と労務統制』〈戦時経済国策体系:第3巻〉、東亜政経社、1942年。
栄典
[編集]- 勲章