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内藤貞勝

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内藤貞勝
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄5年(1562年?)
改名 千勝丸(幼名)→貞勝
官位 備前
氏族 丹波内藤氏
父母 父:松永長頼
兄弟 貞勝貞弘(如安)、ジュリア
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内藤 貞勝(ないとう さだかつ)は、戦国時代武将丹波国八木城主。

生涯

丹波内藤氏は代々丹波守護細川氏に仕え守護代を務めていた。

天文22年(1553年)、「波多野与兵衛尉城」(数掛山城か)の戦いで内藤国貞が討死する(『言継卿記』)[1]。この後、国貞の居城・八木城には国貞の娘婿[2]である松永長頼が入り、その後見のもと、内藤家の跡目は貞勝に継承された(「湯浅文書」「片山家文書」)[3]

従来、貞勝は長頼でなく国貞の子とされてきたが、この時に出された文書から長頼の子(国貞の孫)であることが分かる(「野間建明家文書」細川氏綱奉行人奉書)[4]

永禄4年(1561年)6月には、「内藤備前守貞勝」の名で知行宛行の書状を発給している[5]。しかし翌永禄5年(1562年)には、内藤蓬雲軒宗勝と名乗っていた父・長頼が「備前守」を称するようになっており、貞勝は何らかの理由で当主でなくなっている[5]。以後の動静は不明。

永禄8年(1565年)8月には長頼が戦死するが、貞勝について国貞の子と解釈されてきたため、長頼の死後、長頼の子である内藤如安こそ城主とすべき派と国貞の子とされた貞勝の擁立を目指す一派とで内紛が起こり[6]、最終的に貞勝が八木城主に、如安が執政の立場になったとも言われた[7]。しかし前述の通り、貞勝は長頼が健在な時期に姿が見えなくなっており、長頼没後にその後継者として現れるのは内藤如安(内藤備前守貞弘)である[8]

その後、天正元年(1573年)3月、織田信長と将軍・足利義昭との間で起こった槇島城の戦いでは、内藤如安が幕府方として2千の兵を率い入城している[9]。天正3年(1575年)6月には織田信長は、内藤や宇津討伐の兵を挙げ、並河易家川勝継氏小畠永明らが動員されたが、同年10月の黒井城の戦い明智光秀が敗れてこの討伐は失敗した。しかし、内藤氏の居城・八木城はこの頃に落城したものと考えられる[10]

脚注

  1. ^ 福島 2014, p. 127.
  2. ^ 細川両家記』。
  3. ^ 田中 2013, p. 148; 福島 2014, pp. 127–134; 高橋 2017, pp. 44–45.
  4. ^ 福島 2014, pp. 127–132; 高橋 2017, pp. 44–45.
  5. ^ a b 福島 2014, pp. 135–136.
  6. ^ 各務 1988, p. 66.
  7. ^ 松田 1977.
  8. ^ 福島 2014, pp. 140–146.
  9. ^ 『耶蘇会士日本通信』。
  10. ^ 福島 2014, pp. 152–153.

参考文献

  • 各務英明『殉教―戦国キリシタン武将・内藤如安の生涯―』朝日ソノラマ、1988年。 
  • 高橋成計 著「松永長頼(内藤宗勝)と丹波」、天野忠幸 編『松永久秀 歪められた戦国の“梟雄”の実像』宮帯出版社、2017年。ISBN 978-4-8016-0057-7 
  • 田中信司「三好長慶と松永久秀・長頼」『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』今谷明・天野忠幸監修、、宮帯出版社、2013年。ISBN 978-4-86366-902-4 
  • 福島克彦 著「丹波内藤氏と内藤ジョアン」、中西裕樹 編『高山右近 キリシタン大名への新視点』宮帯出版社、2014年。ISBN 978-4-86366-926-0 
  • 松田毅一「丹波八木城と内藤如庵について」『COSMICA』第7号、1977年。