呂号第六十五潜水艦
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艦歴 | |
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計画 | 大正12年度艦艇補充計画 |
起工 | 1924年11月15日 |
進水 | 1925年9月19日 |
就役 | 1926年6月30日 |
その後 | 1942年11月4日沈没 |
除籍 | 1943年8月1日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:988トン 常備:1,060.3トン 水中:1,301トン |
全長 | 76.20m |
全幅 | 7.38m |
吃水 | 3.96m |
機関 | ヴィッカース式ディーゼル2基2軸 水上:2,400馬力 水中:1,600馬力 |
速力 | 水上:15.7kt 水中:8.6kt |
航続距離 | 水上:10ktで5,500海里 水中:4ktで80海里[1] |
燃料 | 重油 |
乗員 | 48名 |
兵装 | 40口径8cm単装砲1門 53cm魚雷発射管 艦首6門 魚雷12本 |
備考 | 安全潜航深度:60m |
呂号第六十五潜水艦(ろごうだいろくじゅうごせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂六十型潜水艦(L4型)の6番艦。
艦歴
[編集]- 1924年(大正13年)11月15日 - 三菱神戸造船所で起工。
- 1925年(大正14年)9月19日 - 進水
- 1926年(大正15年)6月30日 - 竣工。
- 1927年(昭和2年)1月15日 - 第1潜水戦隊に編入[2]。
- 1931年(昭和6年)4月1日 - 予備艦となる[2]。
- 1933年(昭和8年)11月15日 - 予備艦となる[2]。
- 1936年(昭和11年)12月1日 - 予備艦となる[2]。
- 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を呂六十型に改正[3]。
- 1941年(昭和16年)12月5日 - 第7潜水戦隊第27潜水隊所属として、クェゼリンを出航[4]
- 1942年(昭和17年)1月7日 - クェゼリンを出航。トラックを経て、ラバウル攻略作戦に参加しセント・ジョージ岬南方の哨戒任務に従事[4]。
- 1月29日 - トラック着[4]。
- 2月10日 - 第26潜水隊に編入[2]。
- 2月18日 - トラック出航。ポナペ、マキン島、ヤルート、サイパン方面で活動[4]。
- 4月2日 - 佐世保着[4]。
- 7月14日 - 第5艦隊に編入[4]。
- 9月10日 - 北方に派遣となり佐世保を出港[4]。
- 9月26日 - キスカ島着[4]。
- 9月28日 - 空襲により艦橋に被弾[4]。
- 10月1日 - キスカ湾を出航。アダック島クルック湾方面で活動[4]。
- 10月15日 - キスカ湾着[4]。
- 10月17日 - 駆逐艦「朧」「初春」の救援に出動[4]。
- 10月21日 - アッツ湾方面で活動[4]。
- 10月23日 - アッツ島ホルツ湾を偵察[4]。
- 11月4日 - キスカ湾内にて空襲を受け沈座したが、艦橋ハッチ閉鎖前にベント弁を開いたため、ハッチから浸水し沈没。江木艦長以下45名が救助され、19名が殉職[4]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』465-466頁による。
艤装員長
[編集]- 斎藤栄章 大尉:1926年3月1日 - 1926年6月30日
艦長
[編集]- 斎藤栄章 大尉:1926年6月30日 - 1928年5月16日
- 魚住治策 少佐:1928年5月16日 - 1929年9月20日[5]
- 大竹寿雄 大尉:1929年9月20日 - 1929年11月30日
- 長井武夫 大尉:1929年11月30日 - 1931年4月1日[6]
- 堤道三 大尉:1931年4月1日[6] - 12月1日[7]
- 杉浦矩郎 少佐:1931年12月1日 - 1932年8月20日[8]
- 浜野元一 少佐:1932年8月20日 - 1934年11月1日
- 江見哲四郎 大尉:1934年11月1日 - 1935年2月28日[9]
- 松村寛治 大尉:1935年2月28日 - 1937年3月20日[10]
- 戸上一郎 少佐:1937年3月20日 - 1937年12月1日[11]
- (兼)市川旦 少佐:1937年12月1日[11] -
- 上野利武 大尉:1938年4月19日[12] - 1938年6月10日[13]
- 河野昌道 大尉:1938年6月10日[13] - 1938年7月30日[14]
- 矢島安雄 少佐:1938年7月30日[14] - 1938年12月15日[15]
- 小川綱嘉 少佐:1938年12月15日[15] - 1939年3月20日[16]
- 宇野亀雄 少佐:1939年3月20日[16] - 1940年3月20日[17]
- 上野利武 少佐:1940年3月20日[17] - 1940年8月10日[18]
- (兼)大竹寿雄 中佐:1940年8月10日 - 1940年9月28日[19]
- 原田毫衛 少佐:1940年9月28日 - 1941年7月31日[20]
- 工藤兼男 少佐:1941年7月31日 - 1942年2月15日[21]
- 鳥巣建之助 少佐:1942年2月15日 -
- 江木尚一 大尉:1942年6月30日 -
脚注
[編集]- ^ 『艦長たちの軍艦史』による。
- ^ a b c d e f 『艦長たちの軍艦史』466頁。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』150頁。
- ^ 『官報』第821号、昭和4年9月21日。
- ^ a b 『官報』第1275号、昭和6年4月2日。
- ^ 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
- ^ 『官報』第1694号、昭和7年8月22日。
- ^ 『官報』第2446号、昭和10年3月1日。
- ^ 『官報』第3063号、昭和12年3月22日。
- ^ a b 「海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ 「昭和13年 海軍辞令公報 完(部内限)4月」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073700
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第193号 昭和13年6月11日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073900
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第218号 昭和13年7月30日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074100
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第316号 昭和14年3月21日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第453号 昭和15年3月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第515号 昭和15年8月12日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078700
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第535号 昭和15年9月28日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078900
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第681号 昭和16年7月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第812号 昭和17年2月16日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084200
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9