和泉国分寺
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国分寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 大阪府和泉市国分町627 |
位置 | 北緯34度26分13.71秒 東経135度29分4.23秒 / 北緯34.4371417度 東経135.4845083度座標: 北緯34度26分13.71秒 東経135度29分4.23秒 / 北緯34.4371417度 東経135.4845083度 |
山号 | 護国山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 薬師如来 |
別称 | 福徳寺 |
札所等 |
和泉西国三十三箇所 第3番札所 和泉霊場 第54番札所 |
文化財 | 千手観音立像(和泉市指定文化財) |
法人番号 | 2120105006655 |
和泉国分寺(いずみこくぶんじ)は、大阪府和泉市国分町にある高野山真言宗の寺院。山号は護国山[1]。本尊は薬師如来[2]。通称を「福徳寺」とも[2]。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、和泉国国分僧寺の後継寺院にあたる。
歴史
[編集]創建は不詳。国分寺建立の詔は天平13年(741年)に出されたが、当時は和泉国は未成立(河内国のうち)であり、天平宝字元年(757年)の和泉国成立後の承和6年(839年)に国分寺に指定される以前は「安楽寺」と称される寺院であった[2][3]。寺域出土の瓦では、7世紀後半の軒丸瓦が見られるも1点のみであり、数量の点では8世紀から本格的に整備されたと見られる[3]。ただし本格的な発掘調査は未実施のため伽藍・時期の詳細は明らかでない[3]。
承和6年(839年)に国分寺に指定された際には、講師1員・僧10口が置かれたが、読師は置かれなかった[2][3]。また和泉国内に国分尼寺は設置されていない[2][1][3]。なお、所在地は和泉国の国府推定地(府中付近)からは離れた位置になる[3]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上の規定では、和泉国の国分寺料として稲5千束があてられている[2][1]。
その後の変遷は詳らかでなく、「兼貞珍光時論田勘注案」に引用される嘉承元年(1106年)・天仁2年(1109年)の文書に国分寺領の記載が見えるのみになる[2][1]。鎌倉時代末頃には国分寺の機能を喪失していたと見られる[1]。
『泉州志』では「国分寺今号福徳寺」の金堂・塔・中門・大門の礎石が散在する旨が記されるが、現在では礎石の所在は明らかでない[2][3]。
境内
[編集]-
境内入り口
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境内の和泉国分寺跡碑
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旧本堂
文化財
[編集]和泉市指定文化財
[編集]- 有形文化財
- 千手観音立像 - 平安時代の作。2018年(平成30年)3月8日指定[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 境内説明板
- 「国分寺」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』平凡社、1986年。ISBN 458249028X。
- 中世諸国一宮制研究会編 編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年。ISBN 978-4872941708。
- 和泉市史編さん委員会編 編「和泉市の古代寺院」『和泉市の考古・古代・中世(和泉市の歴史6)』和泉市・ぎょうせい、2013年、268-276頁。ISBN 978-4324800621。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 岸本直文・彦坂めぐみ・阪井田耕司ほか「和泉国分寺跡と出土瓦(和泉市国分町合同調査報告)」『市大日本史』第8巻、大阪市立大学日本史学会、2005年5月、132-146頁。
外部リンク
[編集]- 国分寺 - 和泉市文化財活性化推進実行委員会「和泉市の文化財」