多砲塔戦車
多砲塔戦車(たほうとうせんしゃ)は、複数の砲塔を有する戦車である。第一次世界大戦から戦間期にかけて開発・軍への採用が行われた。
誕生と発達
[編集]初めて戦車が各国から実戦投入された戦争は第一次世界大戦であった。ヨーロッパを縦断して大規模に行われた西部戦線のような塹壕戦において、塹壕突破兵器としてのニーズが生まれた。戦車の嚆矢はイギリスにおける陸上軍艦(Landship)構想であった。
戦車という兵器の発想の原点が、「陸上を走る軍艦」、つまり、「複数の砲塔や武装を備える船」であることは、重要な点である。
戦車という兵器は、多砲塔もしくは多武装こそが、本来の在り方だともいえる。
即ち、多砲塔戦車(多武装戦車)の特徴(コンセプト)とは、軍艦のように、「複数」の「砲塔」もしくは「武装」を備え、それにより、「多方向(複数目標)」もしくは「同方向(同一目標)」に、「同時」に、火力を発揮できる、ことなのである。
その結果生まれた世界最初の戦車:マーク I 戦車は、砲塔こそないが、両側面に2つの砲郭(ケースメイト)と複数の武装(主砲・機関銃)を有する、多武装戦車となった。これは軍艦における、舷側に並んだ副砲の配置に相当する。
見過ごされがちな点だが、戦車開発の黎明期において、砲塔を有しない形式の戦車であっても、複数の武装を備えた戦車(多武装戦車)は、そのコンセプトにおいては、多砲塔戦車と同じなのである。
しかし、1917年に登場したルノー FT-17 軽戦車が採用した、全周旋回可能な単一の砲塔と単一の主砲を車体上部に搭載する形状が、効率的な戦車のレイアウトとして確立されると、その後の多くの戦車がそれに倣うようになった。
第一次大戦が終結し戦間期に入っても、新時代の兵器として戦車の研究開発が続けられた。しかし戦術思想的には進歩はなく、相変わらず戦車は塹壕突破が主目的とされた。
イギリス軍参謀本部の構想に基づき、1925年にビッカース・アームストロング社によって製造されたA1E1 インディペンデント重戦車は、歩兵と共同せずに単独で塹壕線を打通することを目的に作られた戦車で、車体中央の主砲塔の回りに機銃塔4基を配置した合計5基の砲塔を持つ多砲塔戦車であった。
インディペンデント重戦車は各国で注目されたが、大型でコスト高となる多砲塔戦車は1929年の世界恐慌による軍備予算縮小もあって装備化が進められることはなかった(製造されたのは軟鉄製試作車が1輌のみ)。
しかし、ソビエト連邦(ソ連)ではインディペンデント重戦車を参考にしたT-28中戦車やT-35重戦車などが量産されることになり、特にT-28の生産数は500輌を超えた。なお、ソ連はイギリスに対してインディペンデント重戦車の購入を打診していたが、断られてしまった。そのため、T-35は砲塔のレイアウトこそインディペンデントと類似しているが、その他の点についてはソ連がインディペンデントの外観だけを参考に独自に組み上げた。
問題点
[編集]多砲塔戦車には、複数の方向へ死角無く機銃を配置することで、側方や後方からの攻撃を防御しようという意図があった。移動トーチカよりむしろ移動城砦である。戦車を多数投入して、お互いに防衛しあうといった思想ではなく、単独使用でも歩兵の肉薄攻撃に耐えうることを意図した発想である。特に側面攻撃から守られることは、戦車の敵陣突破を容易にすると考えられていた。だが、実際には得られる利点以上に数々の問題が生じた。
それは以下のような問題である。
- 大型化と重量増による機動力の低下(機動戦に対応出来ない)
- 重量軽減のために全体的に装甲が薄くなる(例えば、T-35の最大装甲厚は正面の30mmで、初期のIII号戦車と同等)(対戦車、対戦車砲への対抗力の不足)
- 複数の砲塔を持つため、車体規模に比して小型の主砲しか装備できず、火力に劣る(戦術面での運用づらさ)
- 操作人員の増加により戦車内の指揮の混乱が発生しやすい。
- 高密度化された設計による整備性の低下
- 高価格
- 設計コンセプトが実戦にそぐわない(塹壕突破兵器としての多砲塔戦車の設計コンセプトとは裏腹に、第二次世界大戦において塹壕戦はさほど多くなかった。戦術のずれ)
特に3番目については、戦車を陸上軍艦と喩えた当初の戦車のコンセプトに、誤りがあった。松島型防護巡洋艦の例に見られる通り、軍艦の場合はその艦体に目一杯の大型の主砲を1門搭載するというレイアウトでは、極めて不安定になってしまう。また、1門のみでは公算射撃も行えないので、命中が期待できない。しかしながら戦車の場合、陸上であれば海上よりも遥かに足場は安定しており、また陸上では海上よりも敵・目標は至近であり、公算射撃は不要であり、車体に対して目一杯の大型主砲を1門搭載するというレイアウトが合理的であった。
側面・後方からの攻撃に対する防御という意図は、全周旋回砲塔上の主砲に同軸機関砲を装備し複数の戦車が協同するという方法で、より合理的に対応可能であった。
しかし、その大きさによる威圧的な外観は軍事力をアピールするには好都合で、軍事パレードなどで花形として展示されることもあった。設計コンセプトは歩兵支援に特化した重装甲の戦車として歩兵戦車などに残ったが、ソ連以外の国で多砲塔戦車が多数量産されることはなかった。
現代の多砲塔戦車
[編集]現代にも、一般に多砲塔戦車とは認識されていないが、多砲塔戦車と言えるものは存在する。それは戦車の砲塔上に存在する副武装である。これらがリモコン化され強化されたRWS(リモート・ウェポン・システム)は、一つの砲塔(銃塔)と言える。現代の多砲塔戦車の砲塔は、かつてのように水平方向に並んでいるのではなく、垂直方向に積み重なっているのである。
各国の多砲塔戦車
[編集]- アンサルド P.60〜P.71 プロジェクト … フィアット-アンサルド社による1930年代前半の60〜70トンの多砲塔重戦車のプロジェクトで、海軍砲を装備する。(構想のみ)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1920年代に複数の種類が試作された多砲塔戦車群。NbFzとは別物。
出典
[編集]参考図書
[編集]- 『歴史群像No.34多砲塔戦車』学習研究社、1998年
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、多砲塔戦車に関するカテゴリがあります。