大隈軌道
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大隈軌道 | |||||||||||||||||||
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路線総延長 | 2.23 km | ||||||||||||||||||
軌間 | 914 mm | ||||||||||||||||||
停車場・施設・接続路線(廃止当時) | |||||||||||||||||||
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大隈軌道(おおくまきどう)は、かつて福岡県嘉穂郡大隈町(現・嘉麻市)にあった鉄道省筑豊本線(後の上山田線、現・廃止)の大隈駅から市街地を結んだ馬車軌道およびその運営会社である。自動車の発達により廃止された。
路線データ
[編集]- 路線距離:大隈駅 - 大隈町(貞月) 2.23km
- 駅数:2(廃止時点。中間駅なし)
- 乗車券(発行時期不明)には次の駅名が記載されている:大隈駅、釜手下、貞月、大隈
- 軌間:914mm = 3ft
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:なし(全線非電化)
- 動力:馬力
歴史
[編集]大隈町内で地元有志の発起により大隈軌道を設立。筑豊本線大隈駅と大隈町の市街地を結ぶための馬車軌道を開通させた。町と駅を結ぶ唯一の交通機関だった。
ところが大正末期になると乗合バスが登場した。また昭和初期には大隈タクシーも開業し、住人の足となっていった。こうした状況に馬車軌道は乗客の急減をまねき、ついに廃止となりバス会社となった[1]。その後は大隈駅から大隈町よりさきの桑野までの乗合バスにより運行した。バスは1日あたり桑野まで6往復、大隈町まで11往復した。この乗合バス会社もやがて西日本鉄道に吸収合併されたという。
年表
[編集]輸送・収支実績
[編集]年度 | 乗客(人) | 収入(円) | 支出(円) | 益金(円) | 支払利子(円) | 其他益金(円) | 其他損金(円) |
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1924(大正13)年 | 31,957 | 3,242 | 2,501 | 741 | 211 | 210 | |
1925(大正14)年 | 96,909 | 8,120 | 9,310 | ▲1,190 | 1,194 | 1,245 | |
1926(昭和元)年 | 136,218 | 8,549 | 7,403 | 1,146 | 628 | 103 | |
1927(昭和2)年 | 130,653 | 8,856 | 7,887 | 969 | 541 | 472 | |
1928(昭和3)年 | 118,856 | 9,453 | 7,954 | 1,499 | 150 | 自動車及馬車3,352 | 償却金3,055 |
1929(昭和4)年 | 111,162 | 8,509 | 7,847 | 662 | 360 | 自動車1,631 | |
1930(昭和5)年 | 67,899 | 4,439 | 4,052 | 387 | 120 | 自動車5,738 | |
1931(昭和6)年 | 10,553 | 823 | 3,666 | ▲2,843 | 1,764 | 自動車3,723 | |
1932(昭和7)年 | 26,521 | 846 | 5,586 | ▲4,740 | 1,764 | 自動車4,925 |
- 1924年度-1925年度は鉄道省鉄道統計資料、1926年度以降は鉄道統計資料より、1933年度は営業報告書未着のため未記載。
- 終始無配だった。
運行状況
[編集]客車は16人乗り1頭引きで2両所有。貨物の取扱いはなかった。大隈町から先へは乗合馬車に乗り継いでいったという。
脚注
[編集]- ^ 『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軌道特許状下付」『官報』1920年4月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軌道営業廃止実施」『官報』1936年2月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)による『私鉄史ハンドブック』では7月21日。なお『鉄道統計資料 昭和8年度版』では8.7.11(許可)(国立国会図書館デジタルコレクション)また『嘉穂町誌』には1932年12月に会社解散となっている
参考文献
[編集]- 『嘉穂町誌』1983年、96-100頁
- 『福岡県百科辞典 下』西日本新聞社、1982年、433-437頁 担当執筆は谷口良忠
- 今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 12号 九州沖縄』新潮社、2009年
- 亀井一男「地図と鉄道17」『鉄道史料』No48 1987年11月、 なお昭和2年「太宰府」地図には軌道が記入されていない。(記入もれ)
- 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、177頁