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天野良英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天野 良英
生誕 1910年2月12日
日本の旗 日本 宮城県
死没 (2001-03-03) 2001年3月3日(91歳没)
日本の旗 日本 神奈川県相模原市
所属組織 大日本帝国陸軍
警察予備隊
保安隊
陸上自衛隊
軍歴 1931 - 1945(日本陸軍)
1952 - 1952(予備隊)
1952 - 1954(保安隊)
1954 - 1967(陸自)
最終階級 陸軍中佐(日本陸軍)
統合幕僚会議議長たる陸将(陸自)
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天野 良英(あまの よしふさ、1910年明治43年〉2月12日 - 2001年平成13年〉3月3日)は、日本陸軍軍人陸上自衛官。最終階級は陸軍中佐陸上幕僚長たる陸将

陸士43期、陸大52期。第6代陸上幕僚長、第3代統合幕僚会議議長。息子は第26代西部方面総監天野良晴

経歴

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旧制宮城県立佐沼中学校から1927年(昭和2年)4月に陸軍予科士官学校に入校[1]1931年昭和6年)7月、陸軍士官学校卒業(第43期)。同期には次の陸幕長の吉江誠一をはじめ広瀬栄一藤原岩市など。1931年昭和6年)11月、歩兵第17連隊満州事変に従軍[1]1932年(昭和7年)7月、小隊長として遼西匪賊討伐中に負傷し、内地に帰還した[1]1933年(昭和8年)1月、聯隊旗手として再び満州に渡り熱河作戦に参加した[1]1937年(昭和12年)11月、陸軍大学校(第52期)に入校し、恩賜組で卒業。1940年(昭和15年)、第22軍参謀として仏印進駐作戦を指導[1]1944年(昭和19年)3月、第27軍参謀として千島列島択捉島に赴任[1]。その後、東部軍参謀を経て、参謀本部参謀で終戦を迎える[2]

戦後は公職追放を経て、1952年(昭和27年)7月に警察予備隊に入隊。第2師団長、陸上幕僚副長を経て、1965年(昭和40年)1月に第6代陸上幕僚長に就任。陸幕長時代に婦人自衛官の部隊を新設するため、WACの幹部を米国研修に行かせている[3]

陸幕長を1年努め、同期の吉江誠一に譲り統幕議長になったが、これも陸士同期である航空幕僚長牟田弘國に譲り1年余で退官した[3]

旧軍時代から誰からも愛される人物で、陸自時代も同期からの支援も高かく、また後輩の面倒をよく見たという[3]。大森前陸幕長が不評であったため、それに対比されて人気は高かったという[3]

年譜

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栄典

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関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 偕行 (606) 2001年6月
  2. ^ 終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑 戦誌刊行会, 1985年8月69コマ
  3. ^ a b c d 歴代陸幕長を総括する / 小名孝雄「軍事研究」 1985年5月 P54~68 ジャパンミリタリー・レビュー
  4. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、2頁。NDLJP:1276156 
  5. ^ 『官報』本紙第8144号(昭和29年2月27日)
  6. ^ 『官報』本紙第8687号(昭和30年12月14日)
  7. ^ 『官報』本紙第9196号(昭和32年8月19日)
  8. ^ 『官報』本紙第9408号(昭和33年5月7日)
  9. ^ 『官報』本紙第9784号(昭和34年8月4日)
  10. ^ 『官報』本紙第10084号(昭和35年8月2日)
  11. ^ 『官報』本紙第10660号(昭和37年7月3日)
  12. ^ 『官報』本紙第10687号(昭和37年8月3日)
  13. ^ 『官報』本紙第11177号(昭和39年3月19日)
  14. ^ 『官報』本紙第11426号(昭和40年1月18日)
  15. ^ 『官報』本紙第11814号(昭和41年5月2日)
  16. ^ 『官報』本紙第12278号(昭和42年11月17日)
  17. ^ 『官報』号外第128号(昭和59年11月5日)

参考資料

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 『官報』1952年09月26日 本紙 7717 叙任及辞令
  • 『官報』1953年05月27日 本紙 7915 叙任及辞令
先代
杉江一三
統合幕僚会議議長
第3代:1966年 - 1967年
次代
牟田弘國
先代
大森寛
陸上幕僚長
第6代:1965年 - 1966年
次代
吉江誠一