安倍清行
表示
時代 | 平安時代前期 |
---|---|
生誕 | 天長2年(825年) |
死没 | 昌泰3年(900年) |
官位 | 従四位上・讃岐守 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 安倍氏 |
父母 | 父:安倍安仁 |
兄弟 | 宗行、貞行、清行、興行、女子 |
子 | 讃岐 |
安倍 清行(あべ の きよゆき/きよつら)は、平安時代前期の貴族・歌人。大納言・安倍安仁の子[1]。官位は従四位上・讃岐守。
経歴
[編集]承和3年(836年)12歳で文章生に補せられる。のち大内記を務め、天安3年(859年)には領渤海客使を兼ねたが、同年4月に父・安仁が没したため客使の職を辞している(この時の位階は正六位上)。
貞観2年(860年)従五位下・次侍従に叙任される。清和朝では、勘解由次官・大宰少弐・鋳銭長官・周防守・左衛門権佐などを歴任し、この間の貞観16年(874年)に従五位上に叙せられている。陽成朝に入り、元慶2年(878年)五位蔵人兼右少弁に任ぜられると、元慶5年(881年)左少弁、元慶8年(884年)右中弁と弁官を歴任し、この間の元慶7年(883年)正五位下に叙せられている。
仁和2年(886年)従四位下・陸奥守に叙任されると、寛平6年(894年)讃岐守と、光孝朝の半ば以降は主に地方官を務めた。寛平7年(895年)従四位上に至る。昌泰3年(900年)卒去。享年76。
勅撰歌人として、『古今和歌集』に小野小町との贈答歌[2]を含む、和歌作品2首が採られている[3]。また、娘の讃岐も同じく和歌作品が1首入集している。
官歴
[編集]注記のないものは『日本三代実録』による。
- 承和3年(836年) 春:文章生[4]
- 時期不詳:正六位上。大内記
- 天安3年(859年) 正月28日:兼領渤海客使。4月:辞領渤海客使
- 貞観2年(860年) 11月16日:従五位下、次侍従[4]
- 時期不詳:勘解由次官
- 貞観6年(864年) 正月16日:大宰少弐
- 時期不詳:去大宰少弐(母服喪)
- 貞観10年(868年)2月17日:大宰少弐
- 貞観12年(870年) 3月:鋳銭長官[4]
- 貞観13年(871年) 正月29日:周防守[4]
- 貞観16年(874年) 正月7日:従五位上[4]
- 貞観18年(876年) 2月15日:左衛門権佐[4]
- 元慶2年(878年) 2月15日:右少弁。12月:五位蔵人[4]
- 元慶3年(879年) 8月:伊予守[4]
- 元慶4年(879年) 正月:播磨守[4]
- 元慶5年(881年) 7月:左少弁[4]
- 元慶7年(883年) 正月7日:正五位下
- 元慶8年(884年) 5月26日:右中弁。10月2日:装束司次官(大嘗会)
- 仁和2年(886年) 正月16日:陸奥守。9月4日:従四位下
- 寛平6年(894年) 正月15日:讃岐守[4]
- 寛平7年(895年) 8月:従四位上[4]
- 昌泰3年(900年) 日付不詳:卒去[4]