岸和田大劇
岸和田大劇 Kishiwada Daigeki | |
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情報 | |
通称 |
岸和田大劇 りんかいホール岸和田 |
正式名称 | 岸和田大劇 |
旧名称 | 岸和田大映 |
完成 | 1957年 |
開館 | 1957年4月24日 |
閉館 | 2005年2月14日 |
収容人員 | (2館合計)166人 |
用途 | 映画上映 |
運営 | 同和商事株式会社 |
所在地 |
〒596-0061 大阪府岸和田市大北町1-9 |
最寄駅 | 南海電気鉄道岸和田駅西出口より徒歩11分 |
最寄IC | 阪神高速4号湾岸線岸和田南出入口 |
岸和田大劇(きしわだだいげき)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17][18]。第二次世界大戦後の1957年(昭和32年)4月24日、岸和田大映(きしわだだいえい)として大阪府岸和田市北町に開館した[1]。1963年(昭和38年)には市内の大北町に新築・移転、北町の劇場は日活に貸出して岸和田日活(のちの岸和田日劇)とした[4][5]。1971年(昭和46年)の大映倒産とともに岸和田大劇と改称[8]、1993年(平成5年)には劇場を二分割して同1・2とし[15][16]、1997年(平成9年)には同2をりんかいホール岸和田(りんかいホールきしわだ)と改称した[17][18]。2005年(平成17年)2月14日、両館とも閉館した。開館から閉館まで一貫して同和商事株式会社(旧称・同和興行株式会社[1][2][3][4][5])が経営した[15][16][17][18]。
沿革
[編集]- 1957年4月24日 - 岸和田大映として北町195番地に開館[1]
- 1963年 - 大北町25番地1号に新築・移転、前劇場は日活に貸出(岸和田日活)[4][5]
- 1971年 - 大映の倒産とともに岸和田大劇と改称[8]
- 1989年 - 1992年まで休館
- 1993年 - 劇場を二分割、岸和田大劇1・2と改称[15][16]
- 1997年 - 岸和田大劇2をりんかいホール岸和田と改称[17][18]
- 2005年2月14日 - 両館とも閉館
データ
[編集]- 所在地 : 大阪府岸和田市大北町1番地9号、現在跡地にセレッソコート岸和田ザ・グランベイ(マンション)[19][20]
- 移転前 : 同府同市北町195番地[1][2][3][4][5]
- 現在の同府同市北町8番地5号、現在跡地は駐車場[21]
- 経営 : 同和商事株式会社(旧称・同和興行株式会社[1][2][3][4][5])
- 代表 :
- 構造 :
- 観客定員数 :
概要
[編集]移転前
[編集]1957年(昭和32年)4月24日、岸和田大映として大阪府岸和田市北町195番地(現在の北町8番地5号)に開館した[1]。同年5月1日に発行された『キネマ旬報』5月上旬号(通巻175号)によれば、開館当時の同館は、経営は浅原茂作が代表を務める同和興行株式会社(のちの同和商事株式会社)、支配人は川上温夫、観客定員数は350名、興行系統は大映の二番館であった[1]。浅原茂作は、1950年代半ばに早稲田大学を卒業し、同窓の杉田康[22]や津村雅弘[23]らとともに大映に所属する俳優であった人物であり[24]、同和興行は、前1956年(昭和31年)12月、京都府京都市伏見区に伏見大映(のちの伏見東劇)を開場している[25][26]。同館は、紀州街道に面し、古城川をまたぐ欄干橋周辺の繁華街に位置した[27]。当時の欄干橋周辺には、同館のほか、戦前から存在する山村劇場(同年改称して岸和田東映劇場、経営・大岸静)、電気館(のちの岸和田電気館、経営・関西映興)があり、同市内にはほかに、堺町の岸和田館(経営・山口藤次郎)、下野町の吉野倶楽部(経営・山路美晴)、本町の岸和田東宝映画劇場(経営・東劇興業)、宮本町のセントラル劇場(のちの岸和田東宝セントラル劇場、経営・山口藤次郎)、岡山町の山直劇場(経営・西川輝男)、春木泉町の春陽館(経営・夜明藤一)、と同館を含めて合計9館が存在した[注 1]。
同市内9館の時代は短く、1961年(昭和36年)には山直劇場(岡山町12番地、経営・西川輝男)が[2]、1962年(昭和37年)には岸和田東宝映画劇場(本町219番地1号、経営・照屋潔)、春陽館(春木泉町1560番地、経営・向井克巳)、吉野倶楽部(下野町517番地、経営・楠原エイ)の4館が閉館し、同市内の映画館は同館を含めてわずか5館に減ってしまった[3][4]。
移転後
[編集]1963年(昭和38年)には、同館は、同和興行が大北町25番地1号(現在の大北町1番地9号)に新築した新劇場に移転している[4][5]。同地は岸和田港に面しており、岸和田だんじり祭の看貫場に至近の地であった[27]。移転先での同館は、支配人が日野道治、観客定員数は300名、興行系統は大映であり封切館であった[5]。元の劇場は、日活と直営館契約をして岸和田日活(のちの岸和田日劇、経営・太陽企業)になり、市内の映画館は合計6館に微増した[4][5]。
1967年(昭和42年)には、同館の移転前の劇場を貸し出していた岸和田日活(観客定員数400名)を鉄筋コンクリート造に改築し、日活の直営館である岸和田日活劇場(のちの岸和田日劇、経営・太陽企業、支配人・岩永保弘)を観客定員数207名の劇場とし、新たに観客定員数270名の岸和田スカラ座(経営・同和興行、支配人・細田義一)を開館させている[6][7]。同和興行が同市内で経営する映画館が2館、他社が経営する映画館も含めて、市内の映画館は合計7館に微増している[6][7]。
1971年(昭和46年)12月、大映は不渡りを出して倒産、同年28日に上場廃止となった。その後、同館は岸和田大劇と改称している。1970年(昭和45年)代に入ると、同年には岸和田館(経営・山常興業)、1974年(昭和49年)には岸和田電気館(経営・松竹関西興行)、1975年(昭和50年)には岸和田東宝セントラル劇場(経営・山常興業)が相次いで閉館し[8][9][10]、同市内の映画館は合計4館に激減し、岸和田東映劇場(経営・薩準次郎)以外は、同館および岸和田スカラ座、日活と直営館契約を解除して返還された岸和田日活劇場、といずれも同和商事の経営する映画館だけになってしまった[10]。岸和田東映劇場(経営・山村劇場、代表および支配人・辻円暁)はその後、1982年(昭和57年)に閉館しており、以降、同市内の映画館は同和商事の経営する映画館3館だけになった[11][12]。1988年(昭和63年)には、同和商事の経営する岸和田スカラ座、岸和田日劇(かつての岸和田日活劇場)の両館が閉館し、同市内の映画館は、同館のみになった[13][14]。
1989年(平成元年)発行の『映画年鑑 1989 別冊 映画館名簿』を最後に、1992年(平成4年)までの間、『映画年鑑 別冊 映画館名簿』に同館についての記載がない[注 2]。
二分割
[編集]1993年(平成5年)、同館は岸和田大劇1・2の2館に分割され、興行系統はいずれも日本映画(邦画)・輸入映画(洋画)の混映館となった[15][16]。当時の同館の経営は引き続き同和商事であり、同社の代表と同2館の支配人を浅原馨が兼務した[15][16]。同4月29日には、同市内初のシネマコンプレックスとしてワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田(8スクリーン)が開館している。1997年(平成9年)には、観客定員数112名の同2をりんかいホール岸和田と改称して邦洋混映館とし、観客定員数54名の同1を岸和田大劇のままにして成人映画館とした[17][18]。1999年(平成11年)10月1日には、もう1サイトのシネコン、ユナイテッド・シネマ岸和田(9スクリーン)が同館の正面に位置する岸和田カンカンベイサイドモール内に開館、同市内の映画館は3サイト19館になった。
2005年(平成17年)2月14日、岸和田大劇・りんかいホール岸和田の両館とも閉館した。同市内に残る従来型の最後の映画館であった。同館の跡地には、マンション「セレッソコート岸和田ザ・グランベイ」が2008年(平成20年)2月に竣工した[19][20]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1960年の映画館(近畿地方)「消えた映画館の記憶」を参照した[28][29]。
- ^ 1990年の映画館(近畿地方)「消えた映画館の記憶」を参照した[30]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k キネ[1957], p.126.
- ^ a b c d e f g 便覧[1961], p.180.
- ^ a b c d e f g 便覧[1962], p.175.
- ^ a b c d e f g h i j k 便覧[1967], p.168.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 便覧[1967], p.159-160.
- ^ a b c d e 便覧[1967], p.118.
- ^ a b c d e 便覧[1968], p.132.
- ^ a b c d 便覧[1974], p.119.
- ^ a b c d e 便覧[1975], p.113.
- ^ a b c d e f 便覧[1976], p.112-113.
- ^ a b c 名簿[1982], p.110.
- ^ a b c 名簿[1983], p.110.
- ^ a b c 名簿[1988], p.97.
- ^ a b c 名簿[1989], p.87.
- ^ a b c d e f g h 名簿[1993], p.90.
- ^ a b c d e f g 名簿[1994], p.92.
- ^ a b c d e f g h 名簿[1997], p.93.
- ^ a b c d e f g h 名簿[1998], p.98.
- ^ a b 大阪府岸和田市大北町1番地9号、Google ストリートビュー、2009年7月撮影、2014年2月6日閲覧。
- ^ a b “セレッソコート岸和田ザ・グランベイ”. SUUMO物件ライブラリー. リクルート (2020年1月20日). 2020年2月4日閲覧。
- ^ 大阪府岸和田市北町8番地5号、Google ストリートビュー、2009年9月撮影、2014年2月6日閲覧。
- ^ 杉田康 - 日本映画データベース、2014年2月6日閲覧。
- ^ 津村雅弘 - 日本映画データベース、2014年2月6日閲覧。
- ^ 早稲田[1957], p.150.
- ^ 京都府[1971], p.295.
- ^ 便覧[1958], p.168.
- ^ a b コシノファミリーゆかり地マップ (PDF) 、岸和田市、2014年2月6日閲覧。
- ^ 便覧[1958], p.158.
- ^ 『映画年鑑 戦後編 別冊 全国映画館録 1960』日本図書センター、1999年。
- ^ 日本映画製作者連盟配給部会『映画年鑑 1990年版別冊 映画館名簿』時事映画通信社, 1989年。
参考文献
[編集]- 『キネマ旬報』5月上旬号(通巻175号)、キネマ旬報社、1957年5月1日発行
- 『映画年鑑 1958 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1958年発行
- 『日本の近代文芸と早稲田大学』、早稲田大学七十五周年記念出版委員会、理想社、1957年
- 『映画年鑑 1961 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1961年発行
- 『映画年鑑 1962 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1962年発行
- 『映画年鑑 1963 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1963年発行
- 『映画年鑑 1964 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1964年発行
- 『映画年鑑 1967 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1967年発行
- 『映画年鑑 1968 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1968年発行
- 『京都府百年の年表 9 芸能編』、京都府立総合資料館、京都府、1971年
- 『映画年鑑 1974 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1974年発行
- 『映画年鑑 1975 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1975年発行
- 『映画年鑑 1976 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1976年発行
- 『映画年鑑 1982 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1982年発行
- 『映画年鑑 1983 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1983年発行
- 『映画年鑑 1988 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1988年発行
- 『映画年鑑 1989 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1989年発行
- 『映画年鑑 1993 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1993年発行
- 『映画年鑑 1994 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1994年発行
- 『映画年鑑 1997 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1997年発行
- 『映画年鑑 1998 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1998年発行
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]画像外部リンク | |
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岸和田大劇 - archive.today(2014年2月6日アーカイブ分) 2002年撮影 | |
りんかいホール岸和田 - archive.today(2014年2月6日アーカイブ分) 2002年撮影 |
- 大阪府岸和田市大北町1番地9号 - 2009年7月時点の同館跡地 (Google マップ・Google ストリートビュー)
- 大阪府岸和田市北町8番地5号 - 同年9月時点の移転前の同館跡地 (同上)