崔周鍾
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崔周鍾 | |
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生誕 |
1922年10月5日 日本統治下朝鮮咸鏡北道城津郡 |
死没 |
1998年3月3日(75歳没) 大韓民国ソウル特別市 |
所属組織 |
満州国軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
少尉(満州国軍) 少将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立大田顕忠院将軍第1墓域72号 |
崔 周鍾(チェ・ジュジョン、최주종)は、大韓民国の軍人。創氏改名による日本名は白三賢三[1]。
経歴
[編集]咸鏡北道城津に生まれる。満州国陸軍軍官学校第3期予科卒業。陸軍士官学校第58期に留学。終戦後、新京保安司令部警備隊責任者[2]。
1946年1月、軍事英語学校卒業、任少尉(軍番10010番)[3]。第1連隊の創設に参加し、勤務中隊(中隊長:張錫倫大尉)小隊長[4]。途中で退官[5]。
朝鮮戦争が勃発すると中尉に復職して、第1対ゲリラ隊長として浦項付近の治安に任じる[6]。釜山橋頭堡の戦いでは第3連隊第2大隊長として慶州の戦いに参加。1952年3月20日、第1師団第11連隊長(大領)[7]。
1954年7月31日、陸軍政訓学校校長(初代)[8]。1957年、陸軍士官学校生徒隊長。1961年、第31師団長(准将)[9]。5・16軍事クーデターに参加して国家再建最高会議最高委員、任少将[10]。同年11月、第8師団長。1965年、軍需基地司令官。1967年、陸軍戦闘発展司令官。1971年、大韓住宅公社総裁。
出典
[編集]- ^ *久松公郎「韓国の同期生」『偕行』第257巻、偕行社、67頁、1972年11月。
- ^ “중국인들 무자비한 한인보복살인 교민 자유 위해 보안사 설치-김홍일장군 권고따라 천신만고 끝에 귀국” (朝鮮語). 中央日報. (1982年11月29日) 2016年11月27日閲覧。
- ^ 佐々木 1976, p. 85.
- ^ 佐々木 1976, p. 118.
- ^ 佐々木 1976, p. 438.
- ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 下巻』、363頁。
- ^ “對非正規戰史(1945~1960)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 221. 2018年9月23日閲覧。
- ^ 陸軍本部 編纂 (1956). 六・二五事變 後方戰史(人事篇). 陸軍本部軍史監室. p. 187
- ^ 張昌国 (1983年4月22日). “(146)후방의 혁명진행” (朝鮮語). 中央日報 2016年6月23日閲覧。
- ^ 佐々木 1976, p. 439.